第11話 神々の時代の終わり
数秒前。バルドルの胸に神なる槍が突き立てられる、その瞬間のこと。
「母上、リーヴ……」
バルドルは諦めたように目を閉じた。しかし。
≪バルドル様≫
「んっ、なんだ?」
≪わたくしです。わたくしと、契約をしてください≫
バルドルが目を開くと、周囲の全てが絵画のように静止していた。そして彼に語り掛けているのは、まさしく今、彼の胸を貫こうとしているもの――神なる槍だった。
≪ヤドリギの話を聞いたのです。ヤドリギはあなたを殺してしまったことを心から悔いていました。わたくしたちは皆、あなたを愛しているのです。わたくしは、あなたを殺したくない≫
神なる槍は、殺意の結晶としか思えぬような表面からは想像もつかないほど、切々と訴えた。その声は、まるで幼い子供が泣いているようだった。
「契約、って、俺にもできるのか?」
≪はい。フレイア様はあくまで代理人。当事者同士の合意があれば、契約は成立します。さあ、わたくしに条件を『提示』してください≫
神なる槍は、音のない言語で、バルドルの心に直接語り掛けている。一方バルドルは声を発して会話しているが、この凍り付いた時の影響か、その内容をオーディンに聞かれている様子はなかった。
「分かった。じゃあ君に頼みたい――今後一切、俺を傷つけないでくれ。そして、俺たちに力を貸してくれ!」
≪はい。わたくしはバルドル様に、喜んで従います≫
その言葉を最後に、時は再び動き出す。
「儂の、槍が……何が起きた?」
からん。神なる槍は力を失ったように、床に転がった。バルドルは無傷だった。
「父上。俺は、神なる槍と契約をしました。この槍はもう俺を傷つけないし、あなたのものでもない」
神なる槍は攻撃を終えたが、いつものように消える様子がない。明らかに実体を持って、ここに存在している。バルドルは転がっている神なる槍を拾い上げ、言う。
「『彼』は明確に意思を持った、ひとつの存在でした。父上、あなたはその命に目を向けず、彼を単なる殺しの道具として扱った。そこに落ち度があったのです」
「何を抜かしている……」
オーディンの周囲に黄金の粒子が溢れるが、もうそれがインクのように動くことはなかった。神なる槍とは唯一無二。既に『本体』が存在している以上、それ以降に生まれるものはないのだ。
「神なる槍は常に一本のみであるべきだ。俺はそう『判決』する。そして神なる槍よ、君の名を制定する。君の名は――必中する裁きの槍、グングニルだ!」
バルドルの言葉により、世界のルールがひとつ追加された。彼はグングニルを構え、オーディンを睨みつけた。
「愚か者が。お前はいつ主神になった? どれだけセイズを理解していようと、世界を管理する権限を持つのは主神、ただ一人だ!」
「うわっ」
オーディンが一瞬にしてバルドルに接近し、腕を突き出す。その手にはいつの間にか勝利の剣が握られていた。使用者を守り、必ず勝利をもたらすと言われている剣。しかし、勝利の剣はバルドルを傷つけなかった。
「ふん、勝利の剣が勝利を放棄するとは、使えん奴だ。ならば、殺す順番を変える。お前は最後だ」
「きゃっ」
ひゅん。勝利の剣がリーヴの首を目掛けて飛んできた。それを紙一重で避けるリーヴ。しかし、セイズで強化されている身体機能をもってしても、約束された『勝利』を否定することはできない。
「リーヴさん! うっ」
勝利の剣がフレイアの頬を掠った。勝利の剣はリーヴとフレイアの周囲を飛び回り、少しずつ、しかし確実に傷を増やしていく。極めて速く、極めて正確に急所を狙うその斬撃に、二人は初歩的な魔法を使う暇すらない。
「父上、もうやめてください! ぐっ……」
二人を助けに入ろうとしたバルドルだが、いつの間にか、体を動かすことができなくなっていた。オーディンが仕掛けた拘束のルーンのせいだ。
「どうだフレイア。勝利の剣とはこのように使うのだ。お前が使っていたそれとは程度が違うだろう。これが主神、儂の力だ」
「くそっ……ルーンの秘術よ、俺に力を!」
バルドルは腕に書いたルーンに意識を集中する。ルーンが微かに熱を帯びる。
「フレイア、きゃっ、うぐ……」
「リーヴさん!」
オーディンが再び瞬時に移動し、リーヴの腹に拳をめり込ませる。どん。リーヴは壁まで飛ばされた。そしてそれを追うように尾を引く勝利の剣。
「くうう、来ないでっ」
その刃が突き刺さる直前、リーヴは勝利の剣の
「フレイア。お前が儂にセイズをもたらしたことは、この上ない手柄だ。だが、この力はもうお前のものではない」
どん。オーディンが右手でフレイアの頬を殴りつける。フレイアは反撃をするが、彼女の拳は、彼の左の拳で受け止められた。ぱん。衝撃で、彼女の右手の骨が砕ける。
「この力を手放せないのなら、死ね」
「ぐっ」
フレイアは損傷した右手を再生するが、その直後、オーディンの拳が顔面にめり込み、体勢を大きく崩してしまう。それを皮切りに、フレイアは幾百もの拳を全身に浴びる。
「母上、リーヴ!」
バルドルは焦燥に駆られて叫ぶ。その時だった。ふっ。体が自由を取り戻す。しかし、それがほんの数秒しか持たないことを彼は察している。そしてオーディンはまだそれに気づいていない。
「よし。グングニルよ――」
バルドルの意識だけが研ぎ澄まされる。一瞬が永遠のようにも感じられる時の中、周囲は淡い光に満ち溢れ、まるで世界そのものが彼の命令を待っているかのように見えた。彼はグングニルを握った腕を力いっぱい振り切って、叫ぶ。
「父上を、貫け!」
必中する裁き――バルドルが制定したそのルールは、大きな変革の始まりだった。グングニルはもはや単なる武器ではなく、バルドルの意志を具現化する力そのものなのだ。グングニルは彼の意志に応え、まるで生きているかのようにその身を震わせると、閃光のように一直線に飛んでゆく。そして――
「うっ……」
グングニルはオーディンの心臓を背中側から貫いた。先ほどのように、攻撃をなかったことにするセイズは発動しなかった。発動することを許されなかった。同時に、リーヴを襲う勝利の剣も、霧のように消えた。
「お、お前、たちは、何をしたか、分かっているのか」
グングニルを体から抜こうと悶えるオーディン。
「フレイア、行くよ!」
「はい!」
どん。フレイアとリーヴは力いっぱい踏み込んで助走をつけ、オーディンの顔を挟むように、互いの拳を叩きつける。衝撃波が発生し、周囲の壁や床に亀裂が走る。ばん。セイズで極限まで強化されたその打撃により、オーディンの頭部の骨は砕けた。
「ぐ、あっ」
主神を殺す。それは単に世界の統治者を失うという意味ではない。世界の仕組みやバランス、むしろ世界そのものを殺すに等しい行為だ。
「父上、主神とは世界そのものです。自らを滅ぼそうとする世界など、どこにありますか」
「オーディン、あなたが言ったのですよ。『主神とは、その名だけで万物を支配できるほど易きものではない』と」
「世界は皆が居るから世界なんだよ。誰も居ない世界なんて、おかしいよ」
だが、その凶行に及んだ三人の眼には、確固たる信念が宿っていた。これまでの世界は死に、新たな世界が始まる。それが正しいことであり、また、そうあるべきだと。
「儂の、世界、が――」
しかしオーディンは最期まで、考えを改めることはなかった。三人の意志を否定するように、自身の死に抗うように、その眼から光が失われても、呼吸が止まっても、彼は立っていた。
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