第43話

 唯哉いちかに腕を掴まれたままだから、逃げることはできない。

 頼むから早く解放してくれと願う悠栖ゆずは、大人しく部屋に戻るから。となおも笑った。

「……あんまり英彰ひであきを困らせるなよ」

「おう。気を付ける」

 自分が笑っていられる間に、どうか腕を放して欲しい。

 そう願いながらも上げることのできない視線を彷徨わせていたら、自分の腕を掴んでいる手とは逆の手にノートやら教科書があって、全身から汗が吹き出すような嫌な感覚に襲われた。

「……何処か行くところだったのか?」

「え? ……ああ、これか」

 つい口から出た声に反応を返してくる唯哉。

 悠栖はしまったとすぐに後悔した。

 唯哉の表情が和らいだものに変わって、言うなれば『愛しげ』なその顔に続く言葉を聞きたくないと心の中で叫んだ。

「数学の課題で分からないところがあって那鳥なとりに聞きに行くところだ」

 それは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける言葉だった。

 どうやら唯哉は自分とは疎遠になりながらも那鳥とは交流を深めていたらしい。

 そういえば唯哉を怒らせる直前の二人はそれまでのぎこちなさが無くなり、『仲の良い友人』といった雰囲気だった。

 それを思い出した悠栖は、この一週間足らずで名前で呼ぶほど親密になった二人に強いショックを隠せない。

「……じゃあ俺は行くから。お前も部屋に戻れよ」

 さっきまであんなに望んでいた解放も、今は全然嬉しくない。

 きっと唯哉は那鳥のことを想い、早く『好きな人』のもとへ行きたいと思ったのだろう。

 だから自分はこんなにも簡単に切り捨てられたのだ。

 悠栖は頭の中で仲睦まじく勉強する二人を想像し、やがて生まれる特別な色を含んだ雰囲気と表情に、ようやく真実に辿り着いた。

 できるなら知りたくなかった『真実』は、自分が無意識のうちに見ないように心の奥底に押しやった『本心』だ。

(俺、チカのことが好きなんだ……。だから、だから姫神ひめがみのことが羨ましくてずっとモヤモヤしてたんだ……)

 唯哉が那鳥を好きだと知ってからずっと自分の中にあったわだかまり。

 悠栖はそれをずっと唯哉が『同性を好きになったから』だと思っていた。

 八つ当たりと知りながら唯哉を惚れさせた那鳥にどうしても良い感情を持てなかった理由もそれなのだと思い込んでいた。

 でもそれは根本的な間違いだった。

 自分は無意識ながらも那鳥に嫉妬していたのだ。

 昼に英彰に同じことを言われたが、その時は『まさかそんなことあるわけない』と思っていた。自分が『男』を好きになるなんて。と。

 だが、今ははっきりと『嫉妬』だと分かってしまった。

 唯哉が親し気に『那鳥』と呼んだ声が耳にこびりついて離れない。

 朋喜達だって名前で呼んでいるのに、その時は感じなかった焦りと苛立ちに自覚せざるを得なかった。

 気づいてしまった想いに立ち尽くす悠栖。

 そんな悠栖に唯哉は何か言おうとしたのだが、声は掛けられることは無かった。

「さっさと部屋に戻れよ」

 すれ違いざまに落とされた言葉。

 それは自分を心配してくれたからのものだろうか?

 それとも、面倒事に巻き込まれたくないという信条の表れだろうか?

 弾かれた様に振り返る悠栖の目に入るのは、遠ざかる唯哉の背中。

 その背中はもう『誰か』のモノかもしれない。

 そう頭では分かっているのに、悠栖は『嫌だ』と駆けだしていた。

「! 悠栖? まだ何か用が―――」

「行くな!!」

 腕を掴んで呼び止めた自分に唯哉は驚いた顔を見せる。

 その顔は今までと何も変わらないのに、かけられる言葉は冷たくて辛辣なもの。

 悠栖は最後まで聞きたくないと声を荒げ、唯哉に訴えた。行かないでくれ。と。

「『行くな』って、お前何言って―――」

「煩い! 俺はっ、俺は姫神のところに行くなって言ってんだよっ!!」

 何を言っているんだと言いたげな唯哉に感情が爆発して止められない。

 悠栖は声をさらに荒げて「行くな! 行かせない!!」と力いっぱい唯哉にしがみついた。

 どうしても姫神のもとに行きたいなら俺を殴り飛ばしていけ! と、そんな言葉を続けて。

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