第11節 北方へ
国家保安本部の廊下は、紙の匂いが濃くなっていた。湿った紙、乾いた紙、インクの揮発、糊の甘さ。それらが混ざり、冬の空気に張りついて離れない。出入りする者の足音も増えた。忙しい足音は、たいてい正確ではない。
机の上の山が、昨日より確実に高い。誰かが勝手に増やしているのではない。増えるべくして増えている。作戦準備が最終段階に入ると、書類は指数関数的に増える。現場が疲れ、手が滑り、押印が雑になり、伝令が遅れる。小さな失敗の芽が、土から顔を出す時期だった。
ターニャは椅子に座らず、まず書類の束を二つに分けた。急ぐべきものと、急がせてはいけないもの。前者は期限が短い。後者は条件が曖昧だ。曖昧なまま走らせると、あとで必ず誰かが「そう解釈した」と言い出す。
セレブリャコーフが横から手帳を開いた。指先の動きは早いが、言葉は丁寧だった。
「本日の回付は、北方方面の住民登録と、輸送許可の照合が主です。添付資料が多く、束が三つに分かれています」
ターニャは束の厚みを見ただけで、何が起きているか理解した。窓口が増えた。責任者が増えた。責任が薄まる。薄まった責任は、必ず穴になる。
(書類の量が増えるのは、戦況が悪いからではない。制度が弱いからだ。弱い制度は、紙で補強する。補強すれば紙が増える。紙が増えれば人が疲れる。疲れた人が制度を壊す。……最悪の循環だ)
ターニャはため息をつきそうになり、やめた。ため息は、周囲に許可を出す。許可を出すと、全員が息を抜く。息を抜く暇はなかった。
扉がノックされ、書記が入ってきた。フィールドグレーの制服が、室内の灰色と同化する。以前なら黒い制服が目立ったはずだが、この時期の庁舎では、黒は儀礼の色に寄っていた。目立つ黒は、逆に用途が限定される。
ターニャの黒服と、その護衛の黒だけが、室内で浮いていた。浮くことは意図だった。象徴は、必要な時にだけ効かせればいい。
「署名待ちが二件、差戻しが一件です。差戻しは、占領地行政側からです」
「理由は」
「文言が曖昧で、現場が動けない、と」
ターニャは紙を受け取り、該当箇所だけを見た。曖昧だった。故意かどうかは分からないが、現場が好きに読める余地がある。
「差戻しは正しい。文言を限定する。少尉、当該箇所を三類型に整理しろ。例外条項は増やすな」
「承知しました」
書記が遠慮がちに視線を上げた。ターニャの黒服と、扉の外に立つ護衛の黒服を、同じ方向に見ないようにしながら。
「もう一点、現場から苦情が来ています。住民の反応が鈍く、名簿が埋まりません。担当の行政官が……」
「苦情は、理由に落とせ。感想は不要だ」
書記は咳払いし、紙をめくった。
「住民が、窓口に来ません。来ても、名前と住所以外を言いません。目を合わせない。質問をしても返答が短い。補助者が、応接室での説明に失敗した可能性があります」
ターニャは短く頷いた。北方方面の空気は、紙の上でも分かる。沈黙が、数字の動きを鈍らせる。
沈黙は、抵抗より厄介だった。抵抗は摘発できる。沈黙は摘発できない。沈黙を相手にすると、行政は勝手に焦り、勝手に踏み込む。踏み込みは、必ず反動を生む。
ターニャは束の中から、住民登録に関する指示書を抜き出した。表題は柔らかい言葉を使っている。保護、支援、秩序。だが本文の末尾は硬い。義務、提出、期限、罰。甘い言葉の裏に硬い言葉が潜む瞬間は、いつも現場を壊す。
「説明の失敗ではない。言葉の順序が悪い。甘い言葉で呼び寄せ、硬い条件で締めると、必ず沈黙になる」
セレブリャコーフが顔を上げた。
「順序を変えますか」
「変える。最初から条件を出す。保護という語は使ってもいいが、約束に聞こえる形は避けろ。条件、手続き、期限。先に置け」
書記が戸惑った。
「ですが、現場は反発が強くなるのでは」
「反発は処理できる。沈黙は処理しにくい。反発の方が安い」
ターニャは、紙の端を指で叩いた。叩くのは癖ではない。自分に速度を合わせる合図だった。
部屋の隅で、EVAが小さく紙束を置いた。音がしない。置いたのに、置いたと分かる。配置が正確だからだ。
ターニャは視線だけで確認した。EVAの置き方は、いつも結論が先にある。余計な紙が混ざらない。
束の表紙に短い付箋が貼ってある。欠落、遅延、照合不一致。項目が三つ。どれも小さいが、型が揃っていた。
(また型か。偶然の顔をした雑音。雑音が揃うと、誰かの手口になる。……存在Xの手触りが残っている。気に入らない)
ターニャは内心を切り、顔を上げた。内心に沈むと、判断が遅れる。遅れは現場を殺す。
「少尉、北方方面の現地報告を集約しろ。行政、軍、党組織。窓口が違う資料を一枚に並べる。矛盾が見える形にする」
「承知しました。可能な限り、同じ期間で揃えます」
「揃えろ。揃わないなら、揃わない理由を文書に落とせ」
書記が声を出しかけた。
「大尉……」
階級の呼び方は、彼の緊張の表れだった。ターニャはそれを咎めない。だが、会話の速度は落とさない。
「何だ」
「現地視察の要請が出ています。治安の責任者が、上からの視察がないと現場が締まらない、と」
ターニャは、そこで初めて椅子に座った。視察という言葉が出た瞬間、頭の中で一つの線が繋がった。
現地に行く理由は、作るものだった。視察官という肩書は便利だ。責任を持たずに口を出せるわけではない。だが、責任を文書化する入口を作れる。入口があれば、あとで責任者を逃がさない。
ターニャはペンを取り、視察計画書の空欄に線を引いた。目的、範囲、日程、同行者。視察は散歩ではない。散歩に見せる必要はあるが、中身は作戦だ。
「要請文を見せろ」
書記が紙を差し出す。文面は典型的だった。現場が忙しい。人手が足りない。住民が協力しない。上の後ろ盾が欲しい。責任は取りたくない。
ターニャは紙を戻した。
「視察を組む。名目は行政の整合確認と、住民登録の実地監査だ。作戦準備の邪魔にならない範囲で、現場の穴を潰す」
セレブリャコーフが即座に問いを出した。
「日程は、いつにしますか」
「遅いほど穴が増える。最短で組む。輸送許可と宿営を先に押さえろ。現地の机を借りるなら、事前に寸法も確認しろ」
セレブリャコーフが一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「承知しました。現地庁舎の会議室を確保し、机と椅子の手配も確認します」
ターニャは続けた。
「同行は少尉。護衛は最小でいい。黒服は私と護衛だけで足りる。現場の親衛隊員は新しい制服に移っている。余計に目立たせるな」
「承知しました。護衛の人数は、移動経路の治安と、宿営地の状況を見て決めます」
EVAが短く言った。
「私は残る」
ターニャは頷いた。EVAが一歩引くことは、監視が止むことではない。監視は、距離がある方が正確になる場合もある。
「残れ。観測は続けろ。記録は散らすな。必要な項目だけに絞れ」
「了解」
書記が恐る恐る言う。
「視察官名義の通行証は、どの部署を経由しますか」
「軍の輸送線を使う。現場が混乱している時期に、党の線を使うと揉める。揉めれば遅れる。遅れは不可だ」
ここで、ターニャは意図的に敬語を強くした。相手が現場の者であるほど、言葉の硬さは効く。誤解の余地を潰す。
「輸送担当には、期限と責任者を明記した文書を出してください。口頭で済ませると、必ず抜けます」
書記は慌てて頷いた。
「承知しました。すぐに文案を作成します」
ターニャは机上の束を見渡した。視察計画書の白紙が、周囲の紙の山の中で逆に異物に見える。白紙は期待を呼ぶ。期待は危険だ。白紙は穴になる。
だから、まず線を引く。線は制限だ。制限は制度だ。制度は、奇跡を嫌う。
その日の午後、ターニャは移動に関する書類だけを集めた。通行証、列車の手配、宿営地の許可、現地庁舎の使用許可、現地の治安責任者との面会予定。項目が増えるほど、事故が増える。だから順番を固定する。
セレブリャコーフは、紙を整理しながら小さく言った。
「大尉、現場の疲労が相当です。提出期限が守られていません。遅延の理由が、どれも似ています」
「似ているのは、制度が同じ穴を持っているからだ。穴は塞ぐ。人を責めても治らない」
「現地は、人を責めています」
「責めた者は楽になる。楽になった分だけ、穴は残る。残った穴が次を殺す」
ターニャは言葉を切り、窓の外を見た。空は暗い。冬の夕方は早い。街灯が点く前の時間帯は、街が疲れているのがよく見える。歩く者の数が少ない。荷車がゆっくり動く。見張りが増えている。銃声はない。だが足音はある。
翌朝、移動が始まった。
駅は騒がしくなかった。騒がしいのは表面だけだ。構内放送は淡々としている。兵士の列は短い言葉で動く。民間人は目を合わせない。視線を外し、用事だけを済ませる。沈黙が、秩序の代用品になっていた。
ターニャの護衛は黒服だった。駅の灰色の流れの中で、黒が一線を引く。だが護衛は威圧のためにいるのではない。視線を集めるためにいる。視線を集めれば、裏で動く者がやりにくくなる。少なくとも、手口は変わる。
セレブリャコーフはフィールドグレーの外套を着ていた。目立たないが、姿勢が目立つ。彼女は目立つことを避けているのに、結果として目立つ。真面目さは隠せない。
「車両は、軍の連絡用区画です。一般客の区画とは扉が別です」
「分離は正しい。混ざると、話が漏れる」
「乗務員の名簿も確認済みです。交代の予定はありません」
「交代が出たら理由を取れ。理由が曖昧なら、交代させるな」
「承知しました」
列車が動き出す。窓の外の景色が、ゆっくり後ろに流れる。平坦な土地、低い家、倉庫、線路脇の柵。どれも平常に見える。だが平常は、紙で維持されているだけだった。
途中の停車駅で、貨物が積み替えられていた。荷札の数が多い。箱の形も揃っていない。揃っていない箱は、管理が難しい。管理が難しい物資は、必ず一部が消える。
ターニャは車内の小机に書類を広げた。机は狭い。狭い机は、判断を早める。広い机は油断を生む。
視察計画書の項目を一つずつ埋める。現地で見るべきものは、現地の言葉ではなく、紙の穴だ。紙の穴は人の顔を持つ前に見つける必要がある。
セレブリャコーフが小さく息を吐いた。
「大尉、現地の治安責任者は、面会を急いでいます。住民の沈黙が、命令系統を鈍らせていると」
「命令は届いているのか」
「届いています。ただ、動きが遅い。拒否はしないが、進まない、と」
「沈黙だ。拒否より悪い」
ターニャは紙を一枚めくった。住民登録の進捗表。数字が整っていない。地域ごとのばらつきが大きい。行政の混乱が、数字の形で見える。
「行政は、軍と党の間で揺れているはずだ。責任の押し付け合いが起きる。押し付け合いは、必ず末端を疲れさせる」
「末端が疲れると、失敗が増えます」
「増える。増えた失敗を、誰かが利用する。利用される前に、形を変える」
列車がさらに北へ進むにつれ、空気が変わった。窓の外の色が少なくなる。土の色が薄く、木の色が硬い。雪はまだ深くないが、風が冷たい。冷たい風は、人の口を閉ざす。口が閉ざされると、沈黙はさらに厚くなる。
停車駅のホームで、子どもが一瞬だけこちらを見た。見て、すぐに目を逸らした。母親らしい女が、子どもの肩を軽く押して視線を下げさせる。押し方は強くない。だが迷いがない。迷いがないのは、慣れているからだ。
ターニャは窓から目を離し、書類に戻った。感情を拾うと、判断が遅れる。だが現地では感情を捨てられない。人間は紙ではない。
夕方、仮の宿営地に到着した。駅舎は小さく、兵站の臨時倉庫が隣に増設されている。建材が新しい。新しい建材は、急いで作った証拠だ。急いで作った場所は、必ずどこかが雑になる。
出迎えた親衛隊員はフィールドグレーだった。黒ではない。礼は短く、視線は硬い。警戒しているのはターニャではなく、背後の状況だ。
「視察官殿、宿舎はこちらです。現地庁舎との連絡も取っています」
ターニャは頷いた。敬語の扱いは会話の中だけに置く。
「案内しろ。時間を無駄にするな」
廊下の灯りは暗い。節電ではない。灯りを強くすると、外から見える。外から見える灯りは標的になる。標的になるものは、作戦準備には不要だ。
宿舎の部屋に入ると、机が置かれていた。古い木の机だ。天板に傷が多い。紙を置くと、角が引っかかる。引っかかる机は、仕事を遅くする。遅い仕事は、失敗を増やす。
セレブリャコーフが鞄を置き、持参した文房具を並べた。並べ方が正確だ。正確さは疲労に強い。
「大尉、明朝、庁舎での面会が第一です。その後、住民登録の窓口を視察する予定です」
「予定は固定する。現地で勝手に入れ替えさせるな。入れ替えは、隠したいものの合図だ」
「承知しました。面会順も、こちらで提示します」
ターニャは窓際に立ち、外を見た。暗い。人影は少ない。少ないが、いないわけではない。遠くの道路に、車両の灯りが一つ動いた。動きは遅い。遅いが止まらない。止まらない動きは、準備が進んでいる証拠だ。
銃声はない。だが、戦争の足音は確かにある。紙の山の重さとして。疲れた手の震えとして。沈黙の厚みとして。
ターニャは机に戻り、現地用のチェックリストを一枚作った。紙を増やすのは本意ではない。だが増やさないと、現地の混乱に飲まれる。
目的は一つに絞った。名簿の整合確認と、窓口運用の穴塞ぎ。余計な使命感は持たない。使命感は判断を歪める。判断が歪めば、存在Xの好物になる。
(視察官は便利だ。便利な立場は油断を呼ぶ。油断は敵の入口だ。……だからこそ、油断しない形にする)
夜、宿舎の廊下で短い足音が止まった。護衛が扉の外で小声で何かを確認している。声は聞こえない。聞こえない程度の声量で話すのは、訓練の結果だ。
セレブリャコーフが灯りを落とし、机上の紙を一束にまとめた。
「大尉、休息も必要です。明日から、現地の対応が続きます」
「休む。だが、眠りは浅くていい」
「……承知しました」
ターニャは上着を脱がずに椅子に座り、最後に一枚だけ紙を見た。住民登録の進捗表。欠けた数字。揃わない列。沈黙が数字に染み込んでいる。
明日、その沈黙の顔を見ることになる。
そう確信できるだけの材料が、既に紙の上に揃っていた。
朝は早かった。宿舎の廊下は冷え、靴底が板を鳴らした。窓の外は薄い灰色で、雪はまだ粉のまま地面に貼りついていた。風は乾いていて、鼻の奥が痛んだ。
現地庁舎は、外観だけ整っていた。壁は塗り直され、扉の金具も新しい。だが中に入ると、古い木の匂いが勝つ。床板が軋み、暖房が部屋ごとに違う温度で効いている。整備が行き届いていないのではない。手が足りない。金も、時間も足りない。そういう場所の匂いだった。
案内役の行政官は、軍靴ではなく革靴だった。歩幅が小さく、廊下の曲がり角で一瞬だけ足が止まる。自分の背後を気にしている動きだ。
「こちらが会議室です。すでに関係者が揃っております」
扉が開く。室内には軍服と、党の腕章と、フィールドグレーの親衛隊服が混ざっていた。色が混ざると、責任も混ざる。混ざった責任は、最後に誰も拾わない。
ターニャは椅子に座る前に、机を見た。
高かった。正確に言えば、椅子が低かった。机の天板が胸のあたりに来る。筆記具を握るだけで肩が上がり、肘が浮く。長時間の会議に向いた高さではない。向いていない机は、会議を長くする。長い会議は、決裁を遅らせる。
ターニャは椅子に腰を下ろし、静かに机へ腕を乗せた。肘が浮いた。微妙に苛立つ。苛立ちは、口調を荒くするより先に、判断を雑にする。
(机の高さすら揃えられないのに、住民の人生を揃える気か。……冗談ではない)
ターニャは内心を切り、顔を上げた。ここで不機嫌を見せるのは損だった。不機嫌は相手に言い訳の余地を与える。
セレブリャコーフが、さりげなく鞄から薄い書類板を出し、ターニャの手元に滑り込ませた。厚みがわずかに上がる。肘が天板に乗った。助かった。だが助かったことに感謝すると、次も助けを期待する。期待は危険だ。
「まず、住民登録の進捗と、輸送計画の整合について報告します」
行政官が口を開いた。言葉は丁寧だが、内容が曖昧だった。主語が消え、責任者が消え、期限だけが残る。期限だけが残る文は、誰も守らない。
国防軍側の将校が低い声で遮った。
「机上の数字はいい。現場が回っていない。輸送が詰まっている」
党組織側の男が鼻で笑った。
「軍が運ぶものが多すぎるだけだ。住民の整理が進めば、負担は減る」
フィールドグレーの親衛隊員が、視線を逸らしたまま沈黙した。沈黙は、同意にも反対にもなる。便利な沈黙は、組織を腐らせる。
ターニャは、会話の流れを紙に戻した。紙に戻すと、責任が生まれる。責任が生まれると、誰かが嫌がる。嫌がる者が見えれば、穴が見える。
「報告の順序を変える」
ターニャは声を平らにした。公的な場だ。余計な揺れは要らない。
「住民登録の名簿原本を出せ。進捗表ではない。原本だ。訂正履歴も含める」
行政官が咄嗟に笑顔を作った。
「原本は、保管庫に……すぐには——」
「すぐに出せ」
短く切った。ここで長文を使うと、相手は逃げる。短い命令は、逃げ道を潰す。
行政官が視線を右に流す。党側の男が小さく頷いた。頷き方が遅い。許可の形だけ作っている。
「……承知しました。手配します」
数分後、分厚い台帳が二冊運ばれた。紙の端が毛羽立っている。扱いが荒い。扱いが荒い台帳は、必ず後で「読めない」箇所が増える。
ターニャは台帳を開き、最初に記録の型を確認した。書式、筆記具、欄外の符号、押印の位置。そこに揺れがあると、あとで何でも混ざる。
ページを捲ると、欠番があった。
数字だけが抜けている。連番が一つ飛ぶ。線で消した跡はない。最初から空白だったように見える。空白は、痕跡を残さない。痕跡を残さない仕事は、誰かが意図している。
ターニャは指先で空白の欄を押さえた。紙がわずかにへこむ。筆圧が周囲と違う。空白に触れた手が、紙の凹凸を拾う。
セレブリャコーフが隣で小声を落とした。
「……少し、筆跡が違います。ここだけ」
「見える」
ターニャは視線を上げずに言った。目線を上げると、空白の意味が人の顔になる。まだ、顔にしたくなかった。顔にした瞬間、判断が遅れる。
だが遅れる前に、現地が顔を差し出してきた。
会議室の扉が開き、別の書記が入ってきた。息が切れている。手に持っているのは、追加の一覧表だった。表題は「照合作業用」。中身は、住民の住所と世帯構成。
紙の端が濡れていた。雪か、汗か。どちらにしても急いだ紙だ。
「こちらが、戸別の照合資料です。昨夜までの更新を反映しています」
ターニャは受け取り、欠番の番号を照合した。
番号に紐づく住所が、そこには載っていた。世帯主の名、配偶者の名、子の名。三人分。だが台帳には空白。照合表には存在する。存在しているのに、台帳では消えている。
ここで、空白が顔を持った。
ターニャは、紙から目を離さずに言った。
「この世帯は、どこにいる」
行政官が答える前に、党側の男が口を挟んだ。
「移動した。手続き中だ。問題ではない」
「移動の命令書は」
「ある」
「出せ」
党側の男が不快そうに肩を揺らした。
「君は、そこまで踏み込む権限が——」
ターニャは顔を上げた。視線だけで黙らせるつもりはない。黙らない相手には、紙を叩きつける。
「通行証と宿営の許可を出したのは、どの部署だ」
男が一瞬詰まった。行政官が咳払いで助け舟を出そうとしたが、ターニャは止めない。助け舟は、責任を散らす。
「……軍と、こちらの行政が——」
「つまり複数だ。複数が絡むなら、監査の対象だ。命令書を出せ。出せないなら、移動は未処理だ」
国防軍の将校が苛立ちを含んだ声を出した。
「未処理なら、補給線が余計に詰まる。人がどこにいるか分からないのは、兵站の敵だ」
党側の男は不満を飲み込み、書記に指示を飛ばした。書記が慌てて走り去る。走る者は、たいてい責任を持たない。責任を持つ者は歩く。だが、今は走らせるしかない。時間がない。
ターニャは、欠番の欄をもう一度見た。空白が、紙の上で静かに広がる。空白は便利だ。空白は暴力を隠せる。暴力を隠すと、暴力は増える。
会議が一段落し、現地の窓口へ移動することになった。廊下を歩く間、ターニャは窓の外を見た。庭の端に、住民が数人立っていた。立っているだけだ。列を作らない。声を上げない。誰かに説明を求めない。
沈黙が、ここでは生活の形になっていた。
窓口は別棟にあった。木造の古い建物で、暖房が弱い。机はさらに高かった。椅子はさらに低い。机の向こうにいる職員は、机の高さに合わせているから気づかない。背の高い者が標準の机だ。背の低い者は、椅子で帳尻を合わせろ。そういう発想がそのまま残っている。
ターニャは机の前に立ち、わざと椅子に座らなかった。座ると不利になる。ここで不利を作るのは愚かだった。
窓口の職員が、緊張した声で言った。
「視察官殿、手続きの説明を——」
「説明は要らない。実際にやれ」
ターニャは、欠番の番号が紐づく住所を紙に書き、机の上に置いた。
「この世帯の照合記録を出せ。今日の分だ」
職員が紙を見て固まる。固まるのは、忘れていたからではない。知っているからだ。知っているが、言葉にしたくない。
「……少々、お待ちを」
職員が立ち上がり、奥に消える。消え方が早い。隠す時の早さだ。
セレブリャコーフが、低い声で言った。
「大尉、窓口の動きが不自然です」
「不自然は、現場の標準だ。問題は、不自然の型だ」
ターニャは周囲を見た。掲示物は「保護」「支援」「整理」といった言葉で飾られている。だが申請書の欄には「義務」「提出期限」「不履行」といった硬い語が並ぶ。表の言葉が甘く、裏の言葉が冷たい。住民が沈黙する理由は、ここにある。
奥から、別の男が出てきた。行政官ではない。治安側の人間だ。顔色が悪い。だが背筋は伸びている。伸びている背筋は、怯えを隠すための形だ。
「その世帯は、現在、照合対象から外れております」
「理由は」
「……治安上の事情です」
ターニャは一歩近づいた。机が高くても、近づけば距離は詰まる。距離が詰まると、言い訳は短くなる。
「治安上の事情で外すなら、根拠文書が必要だ。誰が決裁した」
男が目を伏せた。伏せ方が速い。速い伏せは、命令で動いている。
「決裁は……上からです」
「上とは誰だ」
男が口を開けず、喉が動いた。言えない。言えないなら、言わせる形にする。個人に言わせると潰れる。文書に言わせると残る。
「文書を出せ。出せないなら、照合対象に戻せ。いずれにせよ、台帳の欠番はそのままにはしない」
男が苛立ちを押し殺して言った。
「現場には現場の判断がある。あなたは——」
ターニャは遮った。ここで長い議論は不要だ。議論は相手の舞台になる。
「現場判断は、責任者の署名が付いた時だけ成立する。署名がないなら、判断ではない。気分だ」
男の頬が引きつった。国防軍の将校が後ろで小さく笑った。笑いは短い。短い笑いは、同意の合図だ。
ターニャは言葉を続けた。相手が誰でも、制度語彙で殴る。
「ここでの運用を固定する。照合から外す場合は、理由を三類型に限定し、決裁者と期限を明記しろ。期限が過ぎたら自動で照合に戻す。例外の恒常化は不可だ」
男が反発の息を吐いた。
「手間が増える」
ターニャは冷たく返した。
「手間で済むなら安い。未処理の穴は、もっと高く付く」
言い切ると、場が静まった。静まるのは、同意ではない。誰も責任を持ちたくないだけだ。だが静まったなら、紙を置ける。紙を置けば、逃げ道が減る。
その後、ターニャは現地の庁舎内を歩いた。歩く理由は二つあった。窓口だけ見ても全体像は取れない。もう一つは、建物の中の人の流れを見れば、隠したい部屋が分かる。
階段の踊り場で、子どもの靴が一足だけ置かれていた。片方だけだ。片方だけの靴は、急いだ証拠だ。急いだ理由は、ここでは一つしかない。
ターニャは足を止めなかった。止めると、誰かが言い訳を始める。言い訳が始まる前に、記録を取る。
「少尉、ここを記録しろ。場所と時間、靴の状態」
「承知しました」
セレブリャコーフは顔色を変えなかった。変えないのは、訓練ではない。職務だ。彼女は、変えるべきところだけ変える。
次に、保管庫を見せろと言った。案内役の行政官が渋った。
「そこは、書類が雑然としており……お見せするほど——」
「雑然としているなら、なお見せろ」
保管庫は狭く、湿気があった。紙が吸っている。吸った紙は重くなる。重い紙は動かされにくい。動かされにくい紙の山には、必ず隠しやすい空間ができる。
ターニャは、台帳が置かれていた棚の裏側を見た。埃が薄い。つまり最近動かした。動かした理由は、整理ではない。整理なら埃は舞う。舞っていない。動かして、戻している。
ターニャは指で棚の端を撫でた。木の角が欠けている。ここで何かを出し入れした跡だ。
「この棚を動かしたのは誰だ」
行政官が慌てた。
「定期点検で——」
「点検の記録は」
「……あります」
「出せ」
同じやり取りが繰り返される。だが、繰り返しは無駄ではない。繰り返すと、相手の嘘の癖が見える。癖が見えると、次に切る箇所が分かる。
昼過ぎ、欠番の世帯に関する命令書が出てきた。紙は新しい。新しすぎる。印字が鮮明で、署名の筆圧が軽い。軽い署名は、責任を持ちたくない者の署名だ。
命令書には、移動先が書かれていなかった。曖昧な表現だけがある。「適切な施設へ」。それは、どこでもいいという意味だ。どこでもいいという文は、誰も責任を取らないために書かれる。
ターニャは命令書を机に置き、治安側の男に向けた。
「この文言は不可だ。移動先と管理責任者を記載しろ。期限も入れろ。追跡できない命令は、命令ではない」
男が低く言った。
「現場の安全のためだ」
「安全のためなら、なおさら追跡できる形にしろ。追跡できないなら、事故が起きても『知らない』で終わる。それは安全ではない」
国防軍の将校が頷いた。
「輸送に乗せるなら、行き先が要る。行き先がない輸送は、盗難と同じだ」
党側の男は不機嫌に唇を歪めたが、反論はしなかった。反論すると、自分が署名者を出さねばならなくなる。署名者を出したくない者は黙る。
ターニャは、その黙りを逃さなかった。
「本日中に、修正文案を作成しろ。決裁者を一人に固定する。複数決裁は不可だ。責任が散る」
行政官が口を挟む。
「しかし、複数の部署が絡む以上——」
「絡むなら、責任者を決めろ。責任者が決められないなら、作業を止めろ。止められないなら、責任者を決めろ。二択だ」
言い切った瞬間、机の高さがまた気になった。肘が浮く。紙に押印するには、腕が上がる。腕が上がると、印がずれる。印がずれると、また「読めない」になる。
ターニャは椅子を引き、机の端に体を寄せた。机が高いなら、体を近づければいい。苛立ちの処理は、工夫で済ませる。工夫で済まない苛立ちが、この地には多すぎる。
夕方、庁舎の外に出ると、空気がさらに冷えた。住民が一列に並ぶのが見えた。並ぶ相手は窓口ではない。貨車の前だ。貨車の側面に白い紙が貼られている。文字は読めないが、形式だけで分かる。移動の札だ。
ターニャは遠目に見た。距離があるのに、顔が見える。顔が見えるほど近づくと、判断が遅れる。だが顔を見なければ、欠番は紙のままだ。紙のままなら、誰かがまた消す。
貨車の脇で、子どもが母親の袖を引いた。母親は何も言わず、子どもの頭を一度だけ撫でた。撫で方が短い。短い撫では、別れの形だ。
ターニャは、そこで初めて欠番の意味を腹に落とした。落としたくない意味だった。だが落とさないと、制度が追いつかない。
セレブリャコーフが小声で言った。
「大尉、現場が……予定より早く動いています」
「早いのは、期限があるからだ。期限があるのに、行き先がない。行き先がないのに、人だけが動く。最悪の順だ」
その瞬間、EVAから短い通信が入った。紙片のように短い。余計な言葉がない。
「見られています」
ターニャは返した。声ではなく、紙の上の短文で返す。記録に残る形がいい。
「知ってる」
返してから、視線を上げた。見ているのは誰か。敵国か。内部か。存在Xか。全部かもしれない。全部なら、なおさら余計な穴を作れない。
(見張りが一種類なら対処できる。複数なら厄介だ。だが、厄介で済むならまだいい。偶然の顔をした手口が混ざると、判断が汚れる。……最悪だ)
ターニャは、貨車から目を逸らし、護衛に合図した。合図は小さい。小さい合図は、意味が限定される。限定される合図は誤解されにくい。
宿舎に戻る道中、護衛の黒が周囲の灰色に線を引く。線は視線を集める。視線が集まれば、裏で動く者の手が止まる。止まらないなら、手口が変わる。変われば、型が取れる。
部屋に戻ると、セレブリャコーフが即座に机を整えた。紙を広げ、今日取った記録を並べる。並べる順番が正確だ。正確な順番は、思考の速度を上げる。
「本日の確認事項を整理します。欠番の世帯は、照合表に存在し、台帳で空白。命令書は移動先未記載。保管庫の棚は最近動かされた痕跡。貨車の移動札は形式のみ確認」
「いい。次」
「修正文案の作成を、本日中と指示済みです。決裁者の固定も要求しました。抵抗はありますが、文書が出れば押し切れます」
「押し切る。押し切れない形なら、作戦準備の穴になる」
ターニャはペンを取り、短い箇条書きを作った。現地で必要なのは、感想ではなく処理だ。処理の形が残れば、次の現場が勝手に動けない。
「少尉、明日は窓口の運用を変える。照合対象の除外は、理由を三類型、期限付き、決裁者固定。移動命令は行き先と管理責任者を必須。抜けた番号は、空白のままにしない。『未処理』として欄を埋める」
「承知しました。文言案を作成します」
ターニャは頷いた。空白を埋めるのは美徳ではない。空白を埋めるのは、敵の手を止める手段だ。空白があると、そこに何でも入る。何でも入る場所は、いつも悪用される。
外では、風が窓を叩いた。叩き方が乾いている。乾いた風は、音が軽い。軽い音の割に、冷えだけが残る。北方の夜はそういうものだ。
ターニャは机に向かったまま、しばらく動かなかった。欠番は紙の上の穴でしかなかった。今日、その穴に顔が付いた。顔が付いたからといって、感傷で動く気はなかった。感傷は制度を壊す。壊れた制度は、もっと多くの欠番を作る。
だから、やることは一つだけだった。
穴を、穴として固定する。誰にも「なかったこと」にさせない形にする。紙の上に残し、署名を付け、期限で縛る。奇跡が入り込む余地を削る。削った上で、現場を動かす。
ターニャは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。遠くで灯りが揺れている。揺れている灯りは、動いている車両だ。車両は止まらない。止まらない車両は、人を運ぶ。
欠番は、今夜も増える。
増えるなら、明日、減らすための形を作る。減らせなくても、増やし方を遅らせる。遅らせれば、穴を数えられる。数えられれば、誰かが「知らない」とは言えなくなる。
ターニャは机に戻り、明日の指示文案に、最後の一行だけ書き足した。
未処理は、未処理として記録せよ。空白は禁止。
書き終えた瞬間、背後でセレブリャコーフが小さく息を吐いた。吐いた息が白くならないのは、室内がまだ暖かいからだ。暖かさは、ここでは贅沢だった。
「大尉、休息を取ってください。明日も長くなります」
「取る。だが、紙はここに残す。鍵は護衛に預ける」
「承知しました」
扉の外で護衛が短く返事をした。黒服は目立つ。目立つのは役目だ。だが目立てば狙われる。狙われれば、また手口が変わる。変わった手口は、次の記録になる。
EVAの通信を思い出す。「見られています」。短すぎる言葉は、余計な想像を呼ぶ。だが想像をする暇はない。想像をするなら、紙に落とせる形にする。
ターニャは灯りを落とし、目を閉じた。
見られているなら、こちらも見る。見るなら、記録する。記録するなら、署名を取る。署名があれば、逃げられない。
北方の空気は冷たい。冷たい空気は、人の口を閉ざす。口が閉ざされるなら、紙で喋らせるしかない。
そして紙は、今日も増える。
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