第6節 選別の正義
重水関連の束が机上から消えたわけではなかった。上に別の束が積まれただけだ。紙は、解決ではなく順番でしか動かない。順番を決めるのは上で、順番の根拠を整えるのが下だ。ターニャはその役割を疑わない。疑う余地があるとしたら、順番を正義と呼び始めた時だ。
回付された新しい資料の表紙には、福祉に近い語が並んでいた。保護、救済、再教育。どれも柔らかいが、柔らかい語は処理の対象を増やす。対象が増えれば、現場は勝手に省略する。省略は、後で必ず事故になる。
紙の角には赤い付箋が貼られていた。会議出席。関係者多数。議題は北方の住民施策。場所は、国家保安本部の会議室。時間は午後の早い枠。つまり、他の会議の前に押し込みたい案件だ。
セレブリャコーフが立ったまま資料を確認した。
「関係部署が多いですね。現地行政官、党、警察……それに福祉部門も入っています」
ターニャは付箋の端を指で押さえた。糊が強い。剥がすと紙が破れそうだった。
「多いほど、責任が薄まる。薄まるほど、現場が荒れる」
「荒れると……」
「後から帳尻合わせになる。帳尻合わせは、必ず誰かを犠牲にする。最初から手続を固めた方が安い」
セレブリャコーフは頷いた。彼女は感情で話を進めない。命令に耐える。だから、こういう会議に向く。
EVAは黙ったまま、別の束を机の端に置いた。出席者名簿と座席表だった。名簿の右端に、軍の出席者としてレルゲンの名があった。国防軍側の監視役だ。監視と書かれない監視ほど、厄介だった。
ターニャは名簿を一瞥して、すぐに閉じた。見るのは会議室でいい。今は、会議で何を固定するかを先に決める。
ターニャは言葉を短く区切って、セレブリャコーフに投げた。
「議題の文言を写せ。曖昧な語を抜き出せ」
「了解しました。抽象語を抽出して、置換案も付けます」
「置換案は三つでいい。三つ以上は現場が迷う」
セレブリャコーフはすぐに紙を取り、鉛筆を動かし始めた。鉛筆の音は安定している。安定した音は、机の周りの空気を整える。整う空気は危険でもある。整いすぎると、誰かが壊したくなる。
ターニャはその感覚を切って、会議室へ向かった。
会議室は広かった。広さは権限の表現だ。長い机、揃えられた椅子、均一な照明。壁には掲示物がなく、黒板もない。つまり、ここでは議論をしない。署名の前段だけを済ませる場所だ。
席にはすでに人が座っていた。現地行政官の代理と名乗る男は、手元の書類を何度も整えていた。党の担当者は、胸の徽章を目立たせる角度で座っていた。警察側は無表情で、筆記具だけが多い。福祉部門の女性は、資料を抱えたまま落ち着かない。そこに、軍服が一つ混じっている。レルゲンだった。
彼はターニャを見るなり、目を細めた。嫌悪を隠す努力はしているが、完全にはできない。軍規の人間は、感情を押さえる訓練を受けている。それでも、押さえた感情が漏れる時はある。漏れる時ほど、本人の中で決着がついている。
議長役は党の人物だった。声は大きく、言葉は軽い。
「本日は北方の住民施策について、各部門の調整を行う。目的は明白だ。家族を守る。孤児を救う。子どもを正しく導く」
ターニャは黙って聞いた。目的を叫ぶ者は、手段を後回しにする。後回しにされた手段は、最後に暴れる。
現地行政官の代理が続ける。
「現地では混乱が予想されます。よって、早期に保護枠組みを整え、住民登録を刷新し、支援を迅速に行う必要があります」
福祉部門の女性が頷きながら口を挟んだ。
「孤児の収容先、医療、食糧の配給、就学の整備が必要です。現地の家族が崩れた場合、子どもが路上に溢れます。救済の手順を……」
警察側が短く言った。
「治安維持の観点では、身元確認が先だ。名簿がなければ、保護も収容も続かない」
党の担当者が笑顔でまとめようとした。
「要するに、皆が同じことを言っている。人道だ」
ターニャはその語を聞いて、ようやく口を開いた。声は低く、整っていた。公的な場の口調だった。
「人道という語は便利すぎます。運用に落ちません」
会議室の空気が一瞬止まった。便利という語は、ここでは侮辱に近い。だが侮辱ではない。評価だ。評価には根拠が要る。
「具体化します。救済、保護、再教育。それぞれ、誰が決裁し、誰が記録し、誰が現場を拘束しますか。権限の線が見えません」
党の担当者が口元を引きつらせた。
「権限は党が統括する。現地行政が実施し、警察が補助し、福祉が支える。十分だろう」
ターニャは首を振らなかった。否定の動作は、感情の表現に見える。否定は言葉で行う。
「その説明だと、失敗した時の責任が分散します。分散した責任は、現場で暴走を誘発します。暴走は、治安の問題として回収され、帳尻合わせになります。つまり、最初から危険です」
現地行政官の代理が焦って言った。
「ですが、現地では時間がありません。手続を細かくしては、救えません」
ターニャはその言い方を切り分けた。救うという語も、便利だ。便利だから、どこでも使われる。使われるほど、意味が溶ける。
「時間がないからこそ、手順を減らします。減らすには、先に型を決める必要があります。現地の判断に任せるのは、型がない時の逃げ道です」
福祉部門の女性が小さく息を吸った。
「型、というのは……」
「書類の型です。保護対象の定義、収容の条件、家族の扱い、移送の手順、異議申立の窓口。これらが揃えば、現場は勝手に簡略化できません」
党の担当者が不満そうに言った。
「異議申立など、余計な混乱を招くだけだ」
ターニャは声の温度を変えなかった。
「異議申立がないと、後から党内部の争いになります。現地の不満は、党の内部に流入します。流入した時点で、治安では回収できません」
警察側が目だけで反応した。治安で回収できないという言葉は、警察にとっては脅威だ。脅威は、協力を生む。
そこで、レルゲンが口を開いた。声は抑えているが、硬い。
「君たちは、紙で人を消す」
その一言で、会議室の温度が変わった。党の担当者は露骨に不快な顔をした。現地行政官の代理は視線を泳がせた。福祉部門の女性は固まった。警察側は表情を変えない。ただ、ペンが止まった。
ターニャは、レルゲンの言葉を受けて、すぐに返さなかった。返す言葉は用意できる。だが、返す速度が感情に見えることがある。公的な場では、速度も手続の一部だ。
ターニャは一拍置き、公式の口調で切り返した。
「紙がなければ、現場が勝手に消します。どちらが統制可能ですか」
レルゲンの眉が動いた。彼は反論を一度飲み込み、兵站の語彙で刺してきた。
「統制と言うが、現場は輸送と補給で動く。名簿だの分類だのを増やせば、荷が増える。荷が増えれば、護送が増える。護送が増えれば、前線の足が止まる。軍規の観点で言えば、余計な仕事だ」
ターニャは頷かなかった。頷けば同意に見える。否定も同じだ。ここは、線を引く。
「輸送が止まるなら、計画が破綻します。だから、輸送計画に組み込みます。護送を増やすのではなく、護送の定義を固定します。必要な護送だけを残し、不要な移動を禁じます」
党の担当者が苛立って割り込んだ。
「禁じる? 誰が禁じるのだ」
ターニャは視線を党の担当者に向けたまま、答えを一段落とした。責任の所在を動かす時は、言葉を短くする。
「署名者が禁じます。署名者が誰かを、今日決めます」
会議室が静かになった。署名という語は、全員にとって不都合だ。署名は責任を伴う。不都合でも、ここで避ければ後で刺さる。
ターニャは資料の一枚目を机に置いた。表題は保護計画案。中身は空欄が多い。空欄は、権限がまだ決まっていない証拠だ。
「まず、保護の決裁線を三段に限定します。現地の判断で増やすことを禁止します。例外は申請制にします。申請先は一つです」
福祉部門の女性が恐る恐る言った。
「申請先が一つだと、処理が詰まりませんか」
「詰まります。詰まる場所が一つなら、詰まりを見つけられます。詰まりが散ると、現場が勝手に迂回します。迂回が増えた時点で、制御できません」
警察側が小さく頷いた。制御できないという語は、治安に直結する。
レルゲンが冷たい声で言った。
「つまり、詰まりを作って、選ぶわけか」
ターニャは言葉を選び直した。選ぶという語は、倫理の議論に誘導される。倫理はこの場の仕事ではない。ここは制度だ。
「処理能力を越える案件は、手続が壊れます。壊れた手続は、現場の恣意になります。恣意は軍規を壊します。軍規が壊れた地域は、兵站が通りません」
レルゲンは一瞬黙った。兵站が通らないという語は、軍の背骨だ。背骨を折られると、嫌悪より先に計算が走る。
党の担当者が舌打ちしそうになり、堪えた。
「議論が硬すぎる。目的は救済だと言っている」
ターニャはその言い方を受けて、あえて目的に触れなかった。目的を語ると、手段が汚れる。汚い目的でも、汚い手段でも、現場は同じように壊れる。だから手続は清潔でなければならない。清潔は倫理ではない。事故防止だ。
「救済を名目にするなら、名目を守る文書が要ります。文書がなければ、名目は現地で勝手に変質します。変質した名目は、党の統制を弱めます」
党の担当者は不満を飲んだ。統制を弱めると言われれば、反論しづらい。統制は党の生命線だ。
ターニャは手元の紙に、必要な書式の一覧を作った。作りながら、口で読み上げる。口で読み上げれば、全員の前に記録が残る。後で揉めた時に、誰が言ったかが残る。
「必要書式は五点です。保護決定書、家族関係申告書、収容先指定書、移動命令書、異議申立受理票。これらが揃わない移動は無効とします」
現地行政官の代理が顔を青くした。
「五点も……現地で作れません」
「現地で作れないなら、現地に作らせる形にします。様式を統一し、記入欄を減らします。減らした上で、欠落があれば差し戻します。差し戻しは厳格に行います」
福祉部門の女性が唇を噛んだ。
「差し戻しが増えると、子どもが……」
ターニャはその言葉を遮らなかった。遮ると冷酷に見える。冷酷に見えること自体は問題ではないが、今は協力を引き出す必要がある。引き出す手段は、同情ではなく、再発防止だ。
「差し戻しが必要になるのは、書き方が統一されていないからです。統一すれば減ります。減らすために、教育を先に入れます。現地の記録担当を指定し、三日で様式を覚えさせます。覚えられない者は配置を変えます」
警察側が淡々と言った。
「配置転換の権限は誰が持つ」
ターニャは即答した。
「現地行政官の名で行います。ただし、記録班の監督は国家保安本部が行います。監督の報告先は私です。報告の期限は週次です」
党の担当者が眉をひそめた。
「国家保安本部が福祉の現場に口を出すのか」
ターニャは言葉を選んだ。ここで余計な対立を増やす必要はない。党の面子を守りながら、権限を固定する。
「福祉の内容には踏み込みません。記録の運用だけを監督します。記録は党にも必要です。党が統制を維持するには、紙が必要です」
党の担当者は黙った。必要と言われれば拒めない。統制という語で包めば、党は受け入れる。
レルゲンが低い声で、最後に刺すように言った。
「軍は、その紙の結果を運ぶことになる。護送と列車と燃料は無限ではない。そこを忘れるな」
ターニャは、そこで議論を一往復で打ち切った。応酬を続けると、場が倫理に流れる。流れた瞬間に、制度が崩れる。
「忘れません。だから、輸送計画に組み込みます。移動命令書に輸送枠の番号を付けます。枠がない命令は無効にします」
レルゲンの目が細くなった。兵站の語彙で言われれば、彼は理解せざるを得ない。理解は同意ではないが、監視の仕方が変わる。監視が変われば、こちらの運用が通りやすくなる。
ターニャは議題を次に進めた。戻す先は文書と署名と期限だ。
「本日の決定事項を確定します。決裁線は三段。書式は五点。現地記録担当を指定し、三日で様式を教育。輸送枠番号の付与を義務化。異議申立は受理票で管理し、受理先は一つ。以上を文書化し、署名を取ります」
党の担当者が渋い顔で言った。
「署名者は」
「党代表、現地行政代表、警察代表、福祉代表、軍代表。それぞれ一名。代理は不可です。署名できないなら、決裁者を連れてきてください」
現地行政官の代理が青い顔で頷いた。福祉部門の女性は震えながらも頷いた。警察は無表情のままだが、ペンを動かし始めた。党の担当者は最後に頷いた。レルゲンは頷かなかったが、否定もしなかった。軍は署名に慎重だ。慎重さは、後で足を引っ張る材料にもなるが、今は敵ではない。
ターニャは署名欄のある紙を机の中央に置いた。中央に置けば、全員が逃げられない。逃げられない状況を作るのが、官僚の勝ち方だ。
誰も、正義の話をしなくなった。代わりに、誰が署名するかの話になった。正義より署名の方が、現実を動かす。ターニャはそこだけを見ていた。
会議室の空気が、少しだけ乾いた。
乾いた空気は、紙に向く。紙に向く空気は、人に向かない。だが人に向く空気で制度を作れば、必ず破綻する。目的が汚いほど、手続は清潔にしろ。そうしなければ、汚さが表に漏れて、全体が燃える。
ターニャは署名欄を眺め、次に来る事故の形を数えた。数えられる事故は、潰せる。潰せない事故は、事故ではない。妨害だ。
(整えた途端に踏み抜かれる型がある。あの型だ。誰が踏む。外か、内か。それとも――)
ターニャはそこで思考を切った。今は署名だ。署名が先だ。署名があれば、潰す順番を作れる。
ペン先が紙を掻く音が続いた。正義はその音に変換された。変換された正義は、紙の上だけで完結する。完結しない部分は、現場が勝手に処理する。
だから、完結させるために書く。
ターニャは最後に、議事録担当へ短く命令した。
「議事録は二十四時間以内に回付。修正期限は四十八時間。期限を過ぎた修正は却下。運用を固定しろ」
議事録担当が慌てて頷いた。
「了解しました」
会議は、署名で終わった。誰かの救済ではなく、誰かの責任で終わった。
ターニャは立ち上がり、扉へ向かった。背中に刺さる視線が一つあった。レルゲンの視線だ。嫌悪は消えていない。だが、兵站の語彙で語った以上、彼もまた手続に縛られる。縛られれば、監視は予測できる。
予測できる監視は、敵ではない。
廊下に出ると、セレブリャコーフが少し遅れて追いついた。
「……少尉、議事録の写し番号を付けろ。回付先は限定する。余計な写しが出たら、差し戻しの対象にする」
「承知しました。回付先は署名者と、必要部署に限定します」
ターニャは歩きながら、次の束の重さを想像した。正義を名目にした紙は、必ず増える。増えた紙は、必ず誰かを押し潰す。押し潰さないためには、先に型を作るしかない。
型は清潔に。
清潔は、正義ではない。事故防止だ。
署名が終わった直後、会議室の外が少し騒がしくなった。廊下を急ぐ足音と、紙束がぶつかる乾いた音が混じっていた。誰かが遅刻した時の音だ。
扉が開き、白衣ではなく黒い上着を着た男が入ってきた。明るい表情だった。場に似つかわしくない明るさだった。楽しんでいるように見えるのが、さらに悪かった。
ドクトルが遅れて現れた。
「遅れた。すまない。私の方も、紙が増えていてね」
彼はそう言いながら、机の上に分厚い束を置いた。束の角は揃っていた。揃いすぎていた。
ターニャは立ち止まって、束を一瞥した。表紙に書かれた題名は、福祉と検査と登録を混ぜたような語の並びだった。読み上げるだけで、現場が転ぶ。
ドクトルは口を開く前に、周囲を見回した。視線の動きが軽い。軽い視線は、人間を物として扱う癖を隠さない。
「各部門が揉めているなら、私がまとめよう。救う者を選び、危ない者を分ける。基準を作ればいい。私なら、作れる」
党の担当者が乗り気になった。
「そうだ、それだ。基準があれば現場は動く」
福祉部門の女性が怯えた顔で言った。
「基準というのは……どういう……」
ドクトルはすぐに答えた。嬉しそうに言った。
「健康、適応、学習。家族構成。過去の行動。簡単な検査で点を付ける。点が高い者を優先する。点が低い者は……隔てる。無駄な情緒を挟まない。現場の混乱が減る」
レルゲンが椅子に深く座り直した。顔が硬くなった。軍規の人間が嫌う種類の話だ。だが今回は軍規だけでは止まらない。言葉が、もう危険だった。
ターニャはその場で、ドクトルの話を切った。声は冷たく、短い。公的な場で許される範囲の断定だった。
「点数化は不可だ」
ドクトルが瞬きをした。拒絶されると思っていなかった顔だった。
「なぜだ。公平だろう。私の作る基準は、曖昧さがない」
ターニャは紙束に手を伸ばさなかった。触れると、そのまま採用に見える。採用に見えるものは、後から止められない。
「公平を装うからだ。点が付いた瞬間、誰も責任を取らなくなる。点に従ったと言い始める」
党の担当者が苛立って言った。
「責任など、党が取る」
ターニャは視線を党の担当者へ向けたまま、言葉だけで否定した。
「党が取れる形になっていない。点の根拠は誰が記録する。点の改ざんは誰が検出する。点の算出を誰が監督する。運用がない基準は事故を呼ぶ」
ドクトルが笑った。口元だけが動いた。目が笑っていない。
「運用なら、私が作る。研究評議会に散っている連中も、軍需官庁の研究部門も、まとめてしまえばいい。統一すれば速い。私の名前で集める。親衛隊が後ろにいれば、皆、従う」
その言い方に、レルゲンが反射で噛みついた。語彙は輸送と補給だった。嫌悪を、軍の実務に落とす癖が出ていた。
「従う従わないの話じゃない。研究者を一箇所に集めれば、移送と警備が増える。列車は研究者のために走らない。燃料も護送も前線の手当が先だ。現場の足を止める案は、戦力を削る」
ドクトルは肩をすくめた。
「だから、前線の都合は捨てるべきだ。私の仕事が成功すれば、前線の都合など無意味になる」
会議室が一瞬だけ静かになった。党の担当者は魅力を感じた顔をした。福祉部門の女性は青ざめた。警察側は無表情のまま、鉛筆の先だけを動かした。
ターニャはこの応酬を一往復で打ち切った。続ければ、場が感情と夢で埋まる。夢は紙を増やすだけだ。
「話を戻す。ここは福祉の名目で動かす案件だ。研究の統一は別件として分離する。混ぜると決裁が増える」
ドクトルが不満そうに言った。
「分離すれば遅くなる。私の計画は同時進行で動くべきだ」
ターニャは言葉を変えて、同じことを繰り返さないようにした。主張の芯は同じでも、言い方は変える。ここで同じ型を使うと、後で刺される。
「遅いか早いかではない。決裁が通る形かどうかだ。通らない案は、速度以前に失敗する」
党の担当者が口を挟んだ。
「では、基準はどうする。現地は混乱するぞ」
ターニャは机の上の議事録用紙に、線を二本引いた。二本の線は、表と裏を分ける線だった。
「基準は二重にする」
福祉部門の女性が恐る恐る聞いた。
「二重、というのは」
「表向きは福祉基準だ。保護、医療、就学、家族再統合。文書は柔らかい語で構成する。そこは君たちが主導しろ」
女性は息をついた。少しだけ救われた顔になった。
ターニャは続けた。声は同じだった。柔らかくはしない。柔らかくすると誤用される。
「もう一つは安全基準だ。治安上の隔離、移送、身元照合の保留。これは警察と国家保安本部の管轄にする。表の文書と矛盾しない文言に落とす。矛盾したら、現場が好きに解釈する」
警察側が短く言った。
「隔離の条件は」
「三類型に限定する。暴力行為の疑い、身元不明、組織的関与の疑い。これ以外で隔離を増やす運用は禁止する。例外は申請制にする」
ドクトルが頬を引きつらせた。
「それでは甘い。科学的に選別すれば、もっと正確に――」
ターニャは遮った。遮り方は短く切った。感情ではなく停止だ。
「正確さはいらない。運用可能な線が必要だ」
ドクトルが反発した。
「私の基準は、君の線より精密だ。精密な方が誤りが減る」
ターニャは一息で切り返さなかった。精密という語は魅力がある。魅力がある語ほど、政治が欲しがる。だから危険だ。
「精密は現場を縛る。縛るほど、現場は抜け道を探す。抜け道が出た時点で、精密は意味を失う」
党の担当者が不満そうに言った。
「君は科学を嫌うのか」
ターニャは嫌うという言葉を否定しなかった。否定すると議論が長引く。短く、手続に戻す。
「科学は便利すぎる。正しさの形を取るから、都合の調整ができなくなる。政治は都合を処理する仕事だ。正しさを振り回すと、責任の所在が消える」
ドクトルが笑った。今度は声も出した。
「政治の都合か。つまり君は、嘘を作るのが得意なんだな」
ターニャは表情を変えなかった。嘘という語も便利だ。便利な語は、攻撃にも逃げにも使われる。
「嘘ではない。文書上の整合だ。矛盾があれば現場が壊れる。壊れた現場は、軍の輸送にも党の統制にも警察の治安にも害になる」
レルゲンが低い声で言った。嫌悪が混じっていたが、語彙は軍規だった。
「君の整合は、軍の手を汚す。護送と列車に乗るのは軍だ」
ターニャはその論点を一往復で終わらせるために、数で返した。数は感情を切る。
「輸送枠の番号を付ける。枠がない移動は無効だ。軍の足を止める移動は最初から発行しない。軍規の負担は増やさない形にする」
レルゲンは黙った。納得ではない。だが、監視の形が決まった顔だった。
ターニャは議事録に視線を落とし、決定事項を読み上げた。読み上げは、後で逃げ道を潰す。
「表の福祉基準は福祉部門が文言案を作成。期限は四十八時間。裏の安全基準は警察と国家保安本部で条件を三類型に限定。例外は申請制。申請先は一つ。書式は共通様式とし、表と裏で用語を一致させる。矛盾する語は禁止」
福祉部門の女性が震えながらも言った。
「用語を一致させる、というのは……」
「同じ人間を、表では保護対象、裏では隔離対象と書けば矛盾になる。矛盾は暴走の入口だ。表では保護の手続、裏では保留の手続にする。扱いが違っても、言い回しは揃える」
ドクトルが鼻で笑った。
「言葉遊びだな」
ターニャは即答した。言葉遊びと呼べる者は、現場を知らない。現場は言葉で動く。だから言葉は武器になる。ただし、ここで武器という語を使うと余計な比喩になる。ターニャは比喩に逃げない。
「言葉は命令だ。命令が曖昧なら、現場が独断で動く。それを止めるのが制度だ」
警察側が淡々と聞いた。
「隔離の解除条件は」
「解除条件も三つに限定する。身元照合が完了、暴力行為の疑いが解消、組織的関与の疑いが消えた。解除は文書で残す。残らない解除は無効だ」
党の担当者が渋い顔で言った。
「君は解除まで縛るのか」
「解除が縛られていないと、現場が勝手に解除し、後で責任が消える。責任が消えた案件は、党内部の争いに転化する」
党の担当者は黙った。党内部の争いという語は、誰も好きではない。好きではないが、現実だ。
ドクトルは最後にもう一度だけ、科学の話へ戻そうとした。戻し方が巧妙だった。直接言わない。提案書の端を指で叩いた。
「ならば、少なくとも検査票は入れるべきだ。健康診断は福祉の名目で通る。点数ではなく分類にする。私が書く」
ターニャはそれを受け取り、言い換えた。ここで同意に見える返事をすると、ドクトルの勝ちになる。拒絶に見える返事をすると、党が揺れる。必要なのは、権限の線を引き直すことだ。
「検査票は入れる。ただし、作成権限は福祉部門に置く。ドクトルは助言者に限定する。助言は議事録に残す。助言を現場命令に転用することは禁止する」
ドクトルの笑顔が消えた。
「私を飾りにするのか」
「飾りではない。責任構造だ。福祉の名目で動かす以上、福祉が署名する。署名しない者の文言は採用しない」
レルゲンが小さく息を吐いた。軍の負担を増やす案が、ここで少しだけ抑えられたと感じたのだろう。嫌悪は消えていないが、監視の優先順位は変わる。
ターニャは議事録担当へ言った。命令は制度語彙で固めた。
「本日の決定事項を文書化し、条文形式に落とせ。用語の揺れは禁止。表と裏の整合を優先しろ。署名者以外の追記は却下。期限は二十四時間」
「了解しました」
会議室の扉の近くで、EVAがずっと黙っていた。彼女は議論に口を挟まない。挟まないことで、場を監視する。監視が説明を伴わない時、最も嫌な形になる。
ターニャが席を立つ直前、EVAが一言だけ言った。
「整いました」
それだけだった。判断の説明も、根拠も、ない。だがEVAの言葉は、紙より重いことがある。誰が整えたのかが、書かれていないからだ。
ターニャは廊下に出て、歩きながら息を吐いた。吐いた息は白くならない。建物の中は暖かい。暖かい場所ほど、人は残酷な決裁をしやすい。
セレブリャコーフが横に付いた。彼女は会議中、余計なことを言わなかった。言わないことで支える。支え方としては正しい。
「少尉、表の文言案の監修は私がやる。用語の揺れを潰す。裏の条件は警察と擦り合わせる。矛盾が出たら、理由を先に書く」
「承知しました。矛盾が出た場合の理由付けも、書式に入れますか」
「入れる。理由がない空欄は、現場の自由になる」
セレブリャコーフが頷いた。
「空欄は残さない、ですね」
ターニャはそこで言い方を変えた。繰り返しは禁物だ。型が残ると、次に利用される。
「欠けた箇所が出たら、欠けた原因を記録する。原因が記録されていれば、責任が逃げない」
EVAが背後にいる気配がした。振り向く必要はない。見ない方が安全なものがある。見れば、関係が固定される。
ターニャは歩幅を変えずに、内心だけを短くまとめた。
(整った、か。綺麗に揃ったものほど崩れる時は早い。あの悪趣味は、そこを狙う。存在X、お前は余計な場所を踏む)
次の紙束が、すでに待っているはずだった。福祉の名目は紙を呼ぶ。安全の名目も紙を呼ぶ。名目が増えれば、誰かがそこに紛れ込む。
紛れ込む者が敵国ならまだましだ。敵国は目的が見える。内部は見えない。見えないものは、事故に偽装できる。
ターニャは廊下の角を曲がり、記録班の部屋へ向かった。事故に偽装される前に、偽装できない形へ落とす。落とすのは紙だ。紙は奇跡に勝てないことがある。だが、紙は奇跡が嫌う形を作れる。
その形を作るのが、調整官の仕事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます