第10話 旗を掲げる理由
第1節 黒い封筒
国家保安本部(RSHA)という建物は、紙の山でできていた。比喩ではない。廊下の壁沿いに積まれた書類箱、台車のきしむ音、封緘の赤い蝋の欠片、そして紙の粉が舞う空気。銃声は遠いが、タイプライターの打鍵音は近い。ここでは、現実の重さは紙の厚みで量られていた。
その紙の山に、空白が混ざった。
机の上に置かれた通達の一文が、妙に軽かった。記録不存在。取り扱い注意。以上。短い。短すぎる。短い文は責任を薄める。文が短いほど、現場は勝手に解釈しやすくなる。解釈が増えるほど、誰も責任を取らなくなる。
そして、責任が消える場所に、血は集まる。
ターニャ・デグレチャフは、その通達を読んだ瞬間から、建物の空気が少しだけ変わったことを知っていた。誰も声に出さない。だが、廊下の歩幅が微妙にそろう。書類を抱える腕が、少しだけ強ばる。目が合う頻度が減る。見たものを覚えていること自体が、罪になり得ると理解している者の動きだった。
ターニャの机の上には、別種の紙が積まれていた。外交電文の写し、海軍の航路報告、燃料配分表、鉄道の輸送計画、占領地行政の統計。どれも単体では退屈な数字の列に見える。
だが、組み合わせると戦況になる。
紙は嘘をつくが、嘘のつき方には癖がある。数字は誤魔化せるが、誤魔化した結果の歪みは残る。ターニャはそれを読むのが得意だった。軍人の地図読みが地形を読む技術なら、彼女の地図読みは制度を読む技術だった。
黒い机の端に、コーヒーの湯気が細く立っていた。未成年の規則は守る。守るほど、守らせる側の矛盾がよく見える。ターニャは小さなカップを口に運び、苦味を舌の上で転がした。良い豆ではない。だが、必要な刺激は足りる。
背後で紙が擦れる音がした。
ヴィクトーリア・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフが、机の脇に新しい束を置く。書類の角を揃える動きに無駄がない。彼女は捕虜としてこの建物に留置されている。だが、手足として使うには十分に優秀で、何より命令に従う。従うだけでなく、従うための形を整える。
「新規回付の一覧です。署名と局印の照合も済ませました」
彼女の声は丁寧で、硬い。感情が入らないのではない。感情を言葉に混ぜないだけだ。ターニャはそれを好ましく思った。余計な言葉は誤解を呼ぶ。誤解は記録に残る。残った誤解は、いつか処刑理由になる。
ターニャは受け取った束の一枚目を見た。
燃料配分。海軍優先。次いで空軍。陸軍は後回し。誰が見ても不満が出る。だが、表の数字は整っている。整いすぎている。
彼女は次の紙を引き抜いた。
北方方面の航路が、いつもより細かく分割されている。小さな港の名前が増えている。航路そのものが増えたのではない。記録の書き方が変わったのだ。記録の書き方が変わるのは、現場が変わる時ではない。上が変わる時だ。
さらに次。
外交電文の要約。北方の中立国。交渉。供給。通過。曖昧な言葉が並ぶ。曖昧な言葉は、意図を隠すために使われる。意図が隠されるのは、政治が動く時だ。
ターニャは紙を机に並べた。左から、海軍、燃料、外交、鉄道。順番に指で軽く叩く。
北方で何かが動く。
それは軍事の動きではなく、行政の動きとして始まっていた。つまり、戦争が来る。戦争は銃声より先に、名簿で始まる。輸送計画で始まる。治安報告で始まる。誰を守るか、誰を動かすか、誰を消すか。その選別をするために、まず紙が増える。
ターニャはもう一枚、見慣れない書式を引き抜いた。住民登録。北方住民。保護対象。保護措置。保護機関。保護の語彙が、やけに多い。
背後でセレブリャコーフが小さく息を吸う気配がした。彼女は呼吸まで丁寧に隠そうとするが、紙の前では隠せないことがある。
「……妙です」
ターニャは視線を上げずに言った。
「はい。保護という語が多すぎます。通常の行政文書なら、保護は一度で足ります。繰り返すのは、別の意味を包む時です」
セレブリャコーフは言い切った。捕虜にしては踏み込みが深い。だが、踏み込まなければ生き残れない場所に彼女はいる。ターニャはそれを理解している。理解しているから、咎めない。
「裏がある」
「はい」
ターニャは紙を伏せた。伏せても印字は消えない。紙は見えなくしても残る。残るものは、いつか誰かが持ち出す。持ち出す者が味方とは限らない。
扉の外、廊下の足音が一つ止まった。間がある。躊躇いの間。ここは国家保安本部だ。躊躇いは危険の兆候だ。扉が二度ノックされる。
「入れ」
扉が開き、伝令が入ってくる。制服は一般親衛隊のものだが、どこか硬い。訓練された硬さではない。命令を運ぶ人間の硬さだった。手に抱えた封筒が黒い。黒い封筒は、たいてい面倒を運ぶ。
伝令は机の手前で止まり、立ったまま封筒を差し出した。封緘は厚く、蝋の上に印章が重ねられている。開ける前から、誰の権限かが分かるように作ってある。威圧は文章より先に届く。
「回付です。親衛隊全国指導者名義。至急扱い」
ターニャは封筒を受け取った。紙が重い。中身の紙の重さではない。付いてくる権限の重さだ。権限は使えば反感を買い、使わなければ無能の烙印になる。どちらに転んでも刺される。だから、正しく使うしかない。
ターニャは封緘を切った。刃を入れる角度を誤ると、封筒の破れ方で難癖をつけられる。こういう細部に、国家保安本部の人間は執着する。執着できる者ほど長生きする。
中から出てきたのは、数枚の回付文書だった。表紙は簡潔だ。宛先は複数。RSHA内部の複数局。さらに警察系統、占領地行政、そして国防軍の一部部署。範囲が広い。範囲が広い命令は、責任の擦り付け合いを生む。擦り付け合いを生む命令は、誰かが火をつけたい時に出る。
ターニャは本文を読んだ。
北方住民の保護。行政整理。治安確保。要員の移送。各機関は協力し、円滑な実施に努めよ。
美名の束だった。美名は刃物に似ている。握る者は正義の顔をするが、切られる側は血を流す。ターニャは紙の上の美名を眺め、言葉の歪みを探す。歪みは必ずある。人間は完璧に嘘をつけない。嘘をつけるのは制度だけだ。
保護。保護。保護。移送。整理。隔離という語はない。だが、隔離の実務は隠れない。治安確保という曖昧な枠がそれを飲み込む。
ターニャは次のページをめくった。別紙。実施要領。ここからが本体だ。命令は短く、要領が長いほど、現場は強制される。
数行目で、彼女は指を止めた。
北方住民登録の再点検。対象の分類。家族構成の再確認。児童の健康状態の報告。移送に適した者の抽出。教育機関との連携。保護施設への割り当て。
ターニャは、紙を机に置いたまま動かなかった。
(来た。紙の匂いだ。血を隠すための匂いだ。私はそれを嗅ぎ分ける仕事をしている。気に入らないが、得意だ)
内心の言葉は短く切った。長くすると感情が混ざる。感情が混ざると判断が鈍る。判断が鈍ると死ぬ。ここは国家保安本部だ。死ぬのは簡単だが、生き残るのは面倒だ。
セレブリャコーフが、文書の端に視線を落とした。彼女はターニャの表情を読むのが上手くなっている。捕虜は学習が早い。遅い者から消える。
「……レーベンスボルンの要領に似ています」
彼女は断定ではなく、似ていると言った。断定は危険だ。似ているなら、まだ逃げ道がある。逃げ道がある発言は、処刑されにくい。
「似ているどころじゃない。教育と保護施設を使う。要員の移送に、子どもまで含める」
「はい」
セレブリャコーフは言葉を選んだ。
「この書式だと、反対するのが難しいです。保護と教育が表に出ています」
「だからこそ、誰でも賛成できる」
ターニャは皮肉を口にした。皮肉は安全な武器だ。直接的な非難ではない。だが、理解する者には刺さる。刺さること自体が牽制になる。
扉の外で、また足音が止まった。今度は止まり方が違う。躊躇いではない。監視の止まり方だ。国家保安本部の廊下は、いつも誰かが誰かを見ている。見ていることを見せるのが目的の場合もある。
ターニャは椅子にもたれず、背筋を伸ばした。黒服の襟元が僅かに擦れる。象徴としての制服は、こういう時に役に立つ。威圧は相手の判断を鈍らせる。鈍らせた判断の隙を、制度で縛る。
机の隅に、別の書類が置かれている。局内の連絡票。VII局からの問い合わせ。文書管理の照会。内容は薄い。薄いが、薄い紙ほど匂いが強い。
ターニャはその連絡票をひと目で読み捨てた。問い合わせを装った牽制だ。こちらの動きを知りたい者がいる。ハイドリヒ派か、それとも別の派か。どちらでもいい。派閥が何であれ、こちらの仕事は変わらない。
ターニャはヒムラー名義の回付を、紙の束の一番上に置いた。置いた瞬間、机の上の秩序が決まる。この命令を中心に、周辺の紙が意味を持つようになる。燃料配分も、航路報告も、住民登録も、全部が一本の糸でつながる。
北方へ向けて、帝国が動く。
だが、動かすのは軍だけではない。名簿を整える者、輸送を管理する者、治安を作る者、そして口実を生む者。そのすべてが動く。動く者が増えるほど、事故は増える。事故が増えるほど、責任の擦り付け合いが起きる。擦り付け合いが起きるほど、国家保安本部の仕事は増える。
ターニャは紙の上に指を置いた。指先が、印字のわずかな凹凸を感じる。インクは乾いている。乾いているのに、臭う。言葉が臭う。権限が臭う。
「少尉。回付先を全部書き出せ。局ごとに分けろ。国防軍に飛んだ分は、宛先の部署名まで確認しろ」
「了解しました。宛先一覧を作成し、照会が必要な箇所は付箋で明示します」
セレブリャコーフはすぐに動いた。机の脇の小さな作業台に移り、タイプライターの前に座る。姿勢が正しい。打鍵音が一定のリズムで鳴り始めた。国家保安本部では、この音が鼓動の代わりになる。
ターニャは次に、住民登録の様式を見直した。分類項目が多い。多すぎる分類は、現場を疲弊させる。疲弊した現場は、適当に埋める。適当に埋めた名簿は、適当に人を殺す。だが、適当に殺されるのは困る。殺す側も、殺される側も、後で面倒になる。
ターニャは紙を二枚抜き取り、赤鉛筆で線を引いた。
夕刻の国家保安本部(RSHA)は、昼より静かだった。静かというより、音が整理されていた。残るのは紙をめくる音、椅子の脚が擦れる音、遠くの廊下を通る足音。そのどれもが、誰かの生活音ではない。制度が動く音だった。
セレブリャコーフが作った宛先一覧は、もう机の端に固定されていた。書き直しの余地を残さない配置。ターニャはそれを眺めながら、別の束を開いていた。北方の住民登録様式を、局内向けの運用文書に落とし込む準備だ。書式を整えるだけなら事務仕事だが、ここでは書式が人を運ぶ。
扉が叩かれた。二度。控えめで、機械的で、手癖のないノックだった。局内の誰かが真似できる類の音ではない。体温が薄い。
「入れ」
扉が開く。そこに立っていたのは、補佐官EVAだった。いつも通り表情が薄い。黒い髪が乱れていない。埃を連れてこない。足音がしない。彼女は人間というより、記録装置に近かった。
EVAは一礼し、机の上に薄い封筒を置いた。封筒は黒ではない。だが、扱いは黒い封筒と同じだった。中身を見れば分かる。見た時点で責任が生まれる。
「これだけ」
声は短い。無駄がない。説明を削った言葉は、相手に考えさせる。考えた結果は相手の責任になる。そういう作法だった。
ターニャは封筒を開き、内容を引き抜いた。紙は数枚。だが、書かれているのは要約ではなく、観測そのものだった。受信記録の一覧。時刻。送信元の区分。中継点。暗号文の形式。ここまでは普通だ。
異常はその先に並んでいた。
欄が、同じ形で抜けている。欠落が偶発ではない。欠落が整理されている。欠落はいつも、同じ位置で切れていた。まるで、誰かが定規を当てて切り落としたように。
ターニャは紙を机に並べ、欠落の位置を指でなぞった。欠落の癖は、犯人の癖だ。
セレブリャコーフが気づいて、横から覗き込む。彼女は覗き込み方にも礼儀がある。無断で踏み込まない。踏み込む時は、一言添える。
「……同じ形式です。欠落の位置が揃っています」
「揃えたんだ」
ターニャは短く言った。語尾を整える余裕が減っているのを自覚した。内部実務では、丁寧さは命を守らない。守るのは整合だ。整合は短い言葉で作れる。
EVAは椅子に座らない。机の端に立ったまま、ターニャの指先だけを見ていた。彼女はいつもそうだ。人の顔ではなく、仕事の動きだけを見る。人間関係を作らない代わりに、証拠を作る。
「北方の通信が増えた。増え方が不自然だ」
「どの程度だ」
「通常の二倍。中継点が増えた。欠落も増えた」
必要なことだけが落ちる。余計な感想はない。感想がない報告は扱いやすい。扱いやすいが、怖い。人間が怖いのではない。制度が、その報告をどう使うかが怖い。
ターニャは一枚の紙の端を軽く叩いた。欠落が揃っている。つまり、沈黙が設計されている。沈黙が偶然でないなら、そこに意思がある。
(偶然の顔をした妨害だ。しかも丁寧に整えてある。存在X。お前は、いつも紙を汚す)
内心の名前を口に出す気はなかった。証明できないものは、外に出した瞬間に弱点になる。だが、名前を与えないと、敵は輪郭を持たない。輪郭のない敵は計算できない。計算できないものは嫌いだった。
ターニャは紙をまとめ直し、封筒には戻さず机の中央に置いた。置いた事実が、そのまま次の判断の根拠になる。
「次は何だ」
EVAは迷わなかった。
「調整。治安。記録。移送。名目は行政整理」
短い言葉の並びが、黒い封筒の文言と重なる。偶然ではない。別の線から同じ結論が出ている。つまり、命令は一枚の紙で降ってきたように見えるが、実際は複数の部署が同じ方向へ寄せている。
寄せる力が強いほど、逆らう余地はない。
セレブリャコーフが小さく息を吸った。丁寧語を崩さないまま、緊張だけが増える。
「具体の指示は、まだ来ていませんね」
「来る。来ないわけがない」
ターニャは断定した。断定できる形で材料が揃っている。材料が揃っているのに指示が来ないのは、誰かが手を入れているからだ。手を入れている者が、こちらの反応を見ている可能性が高い。
ターニャは視線を上げ、EVAを見た。EVAは瞬きが少ない。こちらが見ても、見返さない。観測者の癖だ。
「欠落の揃い方は誰の手だ」
「分からない」
分からないと言い切るのは、勇気ではなく精度だ。EVAは分かることだけを言う。分からないことを断定しない。だから信用できる。信用できるが、心が落ち着くわけではない。
ターニャは机の引き出しから、赤鉛筆を一本取り出した。紙に線を引くためではない。頭の中の線を固定するためだ。
「少尉」
呼びかけに、セレブリャコーフの背筋が整う。
「はい」
「移送の名目を三類型に限定して文言を作れ。現場が反証しにくいものだ。使う順番まで決める」
「了解しました。住民保護、労務動員、治安上の措置……の三つで起案します」
「治安の措置は言い方を変えろ。隔離の臭いが出る」
ターニャは言い切った。軽い命令語は使わない。指示は紙に転写できる形にする。
「……『治安上の居住移転』として整理します。隔離という語は一切使いません。運用上の条件も明文化します」
「条件は二つでいい。増やすな。増やすほど逃げ道になる」
「了解しました。二条件に絞ります」
セレブリャコーフはすぐに手帳を開き、短い箇条書きを作った。彼女の箇条書きは読みやすい。読みやすい文書は長生きする。長生きする文書は、いつか誰かの凶器になる。だから、凶器になって困らないように作る必要がある。
ターニャはEVAの資料に戻り、欠落の揃い方をもう一度見た。欠落は、通信そのものを消したのではなく、記録の側を削った形だった。つまり、情報の遮断ではない。情報の配分だ。見せる相手と見せない相手を選んでいる。
誰が選ぶ。何のために。
答えは一つではない。北方作戦の準備は、軍と党と親衛隊の利害がぶつかる。そこへ科学者と兵器の話が混ざれば、政治はさらに濁る。濁るほど、国家保安本部の出番になる。
ターニャは机の上の黒い封筒の回付文書を手に取り、宛先一覧と重ねた。重ねると、見える。ここに送っている。ここには送っていない。送っていないのに、動く準備が進んでいる部署がある。つまり、別ルートがある。
ターニャはコーヒーを一口飲んだ。冷めている。だが、冷めた方が頭は冴える。温度が下がれば、匂いが分かる。
「EVA」
「何」
「これを出した相手は、私に何をさせたい」
EVAは少しだけ間を置いた。考えるふりではない。言葉を最小に切るための間だ。
「手続きを整えさせる。反対を封じる。後戻りできない形にする」
ターニャは笑わなかった。だが、内心で小さく舌打ちした。正解すぎる。正解すぎる構図は嫌いだ。自分が駒に見える。駒として使われるのは構わない。だが、使われ方まで他人に決められるのは癪だった。
「分かった」
短く返した。返事が短い時ほど、彼女は腹を立てている。
EVAはそれ以上何も言わず、机の端にもう一枚だけ置いた。白紙に近い。だが、端に小さな数字が並んでいる。受信番号。欠落番号。欠落番号が、規則的に飛んでいる。規則は意思の証拠だ。
ターニャは紙を取り上げ、指で番号を叩いた。一定の間隔。一定の幅。一定の切り口。
沈黙には型がある。型がある沈黙は、作られた沈黙だ。
ターニャは椅子から立ち、机の上の書類を束ねた。束ねた瞬間、頭の中の判断も束ねる。散らばったままでは、誰かに拾われる。拾われた判断は歪められる。
「少尉。起案は今夜中に一度形にしろ。明朝、私が言葉を削る。削った文面で各局へ回す」
「はい。文書化して、現場が誤用できない形にします」
「それと、保護と労務で二段にする。表は保護だ。裏は労務だ。順番を間違えるな」
「了解しました。表の説明が先に立つよう構成します」
ターニャは頷き、机の横に置かれた宛先一覧を指で軽く叩いた。次に触れるべき相手が見えている。国防軍。参謀系の窓口。輸送の責任部署。彼らは必ず嫌がる。嫌がる者ほど、裏で動く。裏で動く者ほど、証拠を残す。証拠は武器だ。
扉の外の足音がまた止まった。今度は複数。誰かがこちらの部屋の気配を測っている。測ったところで、やることは変わらない。変えれば、変えた事実が残る。残る事実は撃たれる。
ターニャは黒い封筒の回付文書を手に取り、封筒の外側を見た。封筒の黒は、いつも通り不愉快だった。だが、不愉快は仕事の合図でもある。
彼女は低く言った。自分に言うように。だが、部屋にいる二人にも届く音量で。
「行政整理だ。そう書いておけ。だが、実務は移送の準備になる。紙を先に固める。現場に余計な自由を残すな」
セレブリャコーフが頷く。EVAは頷かない。ただ、視線だけを動かし、資料の端を揃えた。その仕草が「理解した」の代わりだった。
ターニャは机に戻り、赤鉛筆で一行だけ引いた。北方。住民登録。移送。治安。記録。線は短い。短い線ほど、命令として強い。
彼女は紙を閉じ、次の紙を開いた。仕事は終わらない。終わらないことが、この建物の正常だった。
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