第6節
第6節 死神の名を語る者
プシェミシル駐屯地の臨時執務室は、午後の光が細く差し込み、紙の匂いと油煙が混じっていた。石造りの壁は冷たく、窓枠は金属音をきしませて風を漏らす。机の上には、VII局からの内達便が一通。封蝋は正規の色、紐は規定の撚り。形式は完璧だった。
ターニャ・デグレチャフは封を切る前に、紙の重さと縁の裁断を確かめた。紙は官用の厚手、裁断面は機械刃のまっすぐな線。偽造の痕は見えない。形式としては、疑う余地がなかった。
「……署名は“R・ハイドリヒ”。局印はVII局」
彼女は低く読み上げ、指先で押印の縁をなぞった。印圧は均一、朱のにじみも規格通りだ。だが、そこに在るべきではない組み合わせが目に刺さる。署名はRSHAの“絞首人”の名、印は記録部局のもの。権威と事務が無理に接ぎ木されたような、いやな整合だ。
机の隅で、セレブリャコーフ少尉が息をのむ。彼女はいつものように慎重な手つきでメモ帳を開いた。視線は紙面とターニャの横顔を往復し、言葉を選んでいる。
「命令の内容は……?」
ターニャは文面へ視線を落とした。そこには簡潔な行が並んでいる。余計な修飾はなく、指示は短い。
「“境界線上の民間協力者の記録洗浄作業”」
音としては静かだ。だが意味は重い。記録の洗浄――それは法的な抹消ではなく、再分類と注記変更、責任範囲の付け替え、照合台帳の接合点を縫い直す作業を指す。人間の運命を“別の棚”に移すこと。制度の棚は見えないが、そこに置き換えられたものは、二度と元の場所へは戻らない。
「……“洗浄”という表現、ですね」
セレブリャコーフが小さく呟いた。彼女は言葉の響きに、わずかな嫌悪を隠せなかった。血と火薬の匂いより、紙に吸い込まれて見えなくなる記録の方が、時に残酷であることを知っている。
「便利な言い回しです。誰も血を見ない。誰の手も汚れていない。結果だけが静かに変わる」
ターニャは淡々と返し、続けて命令書の末尾を確かめた。実施期限、担当部局、照合台帳番号、転記先の管理記号――すべてが揃っている。完璧すぎるほどに。
「問題は、ここにハイドリヒの署名が置かれていること。権威の付与は文書の重さを変えます。……そして、この局印」
「VII局、記録。つまり“事実はここで決まる”と」
「そういうことです」
窓の外で、曇り空が低く垂れ込めていた。塔の鐘は鳴らず、街は息を潜めている。この“境界”の静けさは、制度の隙間でもあった。
ターニャは呼び鈴に指を伸ばし、通信兵を呼んだ。臨時執務室の隣に据え付けられた簡易の通信台は、古い交換機を通じてベルリンと結ばれている。通かい具合は悪い。だが、記録が動くとき、この線は必ず熱を帯びる。
「VII局記録管理室、文書参照係。優先度は三」
通信兵が短く復唱し、線をつないだ。雑音の向こうで、無感情な声が応答する。名前は名乗らない。RSHAでは、時に名前は不要だ。番号と部署で事足りる。
「文書番号を」
「RSHA/VII/Prz/—六三四一。署名R・H。局印VII。……照合台帳の登録時刻、登録者、受領経路を確認したい」
「確認には上位の許可が必要です」
乾いた声が返る。形式で押し返す、いつもの手口だ。ターニャは少しだけ間を置き、声の温度を下げた。
「では伝えてください。“ハイドリヒの署名が軽いと誰が言った”と」
微かな沈黙。線の向こうで、誰かが小さく息を呑んだ気配がした。名前を使うことが脅しであることを、彼らも知っている。
「……登録時刻、九時四七分。登録者、VII局台帳係二。受領経路、内部便。回付指示、同局長代理」
「ありがとう。最後に、文書の原簿。水印の符丁は」
「“S-白桐”。最新ロットです」
ターニャは受話器を静かに置いた。耳の奥で雑音がまだ鳴っている。形式上、文書は正規に登録され、内部経由で回っている。水印も直近の供給。偽造の可能性は低い。だからこそ、違和感は大きくなる。
「……形式はすべて揃っています」
「では、本物なのですね」
「形式としては、です」
短い言い回しに、彼女の結論は集約されていた。制度において“本物”とは、正しい手順で登録され、正しい印と署名を持つものを指す。そこに、観測された事実があるかどうかは、本質ではない。
セレブリャコーフが一歩近づき、命令書の文面を覗き込んだ。彼女は慎重に言葉を選ぶ。
「“境界線上の民間協力者”という指定、かなり広いです。党の登録簿、軍の連絡員台帳、警察の密告者名簿……該当者は多岐に渡ります」
「意図的に曖昧にしてあります。広ければ広いほど、運用する側が範囲を定義できる。洗浄作業は、範囲を決める者の権力です」
ターニャはペンを置き、机に片肘をついた。肩の力は抜けている。しかし、視線は硬く冷たい。頭の中で、制度の歯車が回り始める音がした。どの棚を動かし、どの注記を変更し、どの台帳で“別の名”に接合するか。組み合わせが幾通りも浮かび、ひとつずつ毒のない順に並べ替えられていく。
「……まずは、対象の切り分けです。党の協力者名簿は政治的。軍の連絡員台帳は運用的。警察の密告者名簿は地域的。この三つを重ね合わせると、範囲の輪郭が見えます」
「照合は私が」
「お願いします。……ただし、手は遅く。早く動くと嗅がれます」
セレブリャコーフは小さく頷いた。早すぎる清掃は目立つ。制度の再配列は、埃が立たない速度でやるのが良い。静かに、しかし確実に。
扉が叩かれ、通信兵が紙束を抱えて入ってきた。VII局からの追加便、地方警察からの照会、党地区指導部からの問い合わせ。紙は波のように押し寄せる。紙に書かれた命令は、石壁より重い。
「党からです。“視察官殿のご指示に従い、再教育対象の名簿を更新します。ただし、各地区の裁量を尊重のこと”」
「言い換えると、“好きにするが、責任はそちらで”」
ターニャは紙を横へ置いた。党の言葉は常に二重だ。協力を言いながら、責任は回避する。
「こちらは軍。“橋梁地区における住民通行証の照合基準、RSHAの最新通達に合わせて改定予定。行進路に重なる区域の再定義を要請”」
「つまり、通れる者を選び直したい」
「その通りです」
最後の紙は、地方警察からのものだった。インクがまだ乾ききっておらず、署名は震えている。
「“最近、密告者が減りました。『書かれると消される』と広まっています”」
「いい観測です」
ターニャは珍しく、短く評価した。現場の観察は、制度の言葉より正直だ。住民たちは感じ取っている。書かれることが存在を決め、消されることが運命を決める。だから、彼らは黙る。それが沈黙の拡大であるとしても、制度は“観測されないもの”を扱いづらい。
「……沈黙は、洗浄の副作用です。言葉が消える。記録だけが残る」
ターニャは立ち上がり、窓の外を一瞥した。灰色の雲は厚く、街は冷えている。境界は音もなく、形を変える最中だった。
「命令の負荷を分散しましょう。党と軍には“準備行為”の通達だけ。実作業は警察台帳から着手します。小さく始め、大きく終える」
「配分の根拠は?」
「観測しやすいからです。警察台帳は地図と重ねられる。動かした跡が可視化できる」
「了解しました」
少尉は動線をメモに引き、照合作業の段取りを確認する。書類の動き、台帳の版、差し替えのタイミング。目に見えない工兵作業のような工程表が、紙上に無言の橋梁をかけていく。
ターニャは命令書に視線を戻した。最後の行、署名欄の下に、肉眼では読みづらい微小な凹凸があった。紙の繊維に刻まれる、活字の圧痕。彼女は机の引き出しから薄いトレーシング用の板を取り出し、下に滑り込ませる。指先で軽く撫でると、凹凸が指に伝わった。これは、同じ機械、同じ活字、同じ圧で押されたものだ。
「……“同じ手”ですね」
セレブリャコーフが覗き込み、目を細める。
「EVAの報告書と同じ圧が出ています。つまり、同じ機械で、近い時刻に処理された可能性が高い」
「報告書が先。命令が後。並び順は重要です」
ターニャは独り言のように言う。観測の記録が先に来て、命令が後から追いかけた。制度が現実に追いつくとき、必ず“誰か”が橋渡し役を務める。その“誰か”が、ハイドリヒの名を使ったのだ。
「……“死神の名を語る者”。誰でしょう」
「名乗る必要のない立場の者でしょう。名が強すぎると、誰も名乗らなくなる」
ターニャは短く笑った。音のない笑いだ。窓の外の雲はさらに低く、光は細い。結論はまだ遠い。だが、手順ははっきりしている。
「まず、命令の“安全弁”を作ります。洗浄対象を段階指定。一次は“照合不足”、二次は“注記変更”、三次で初めて“棚替え”にする」
「三段階……」
「段階が多いほど、途中で止められます」
セレブリャコーフは納得の息を漏らした。制度の作業を分割するのは、致死量を薄める手法だ。ゆっくりと、しかし逃さずに。
「少尉、党の名簿から“再教育済み”の印が付いた者を抽出して。軍の連絡員と重なる者は別棚。警察の密告者は現住所が確認できる者だけ。……基準は“確認可能性”で揃えます」
「了解。……確認できない者は?」
「沈黙として扱う。しばらくは触らない」
少尉の手が止まった。視線がターニャを探り、問いがこぼれる。
「“沈黙”を……残すのですか」
「はい。制度は沈黙を嫌います。しかし、今は“記録の穴”を作っておく必要がある」
「理由は」
「穴は、のちに証拠になるからです」
短い会話の間にも、紙は増えた。届いた電文に、新しい問い合わせ。党の別系統からは、さっそく“名簿の網羅性に不備がある”という苦情が来る。軍からは“橋梁地区の通行基準の即時適用”の催促。警察は“現住所確認に人手不足”を訴える。誰もが、ターニャの机の上に自分の問題を置き、去っていく。
「順番を間違えなければ、全部片付きます」
ターニャは淡々と言い切った。順番は秩序だ。記録は順番で意味を持つ。命令は、順番で毒にも薬にもなる。
そのとき、通信台の鈴が短く鳴った。VII局の番号だ。ターニャは受話器を取った。今度は別の声、甲高いが感情のない声だった。
「VII局、記録照会。照合基準の詳細を」
「二段階認証を追加。現住所確認は町丁単位、住民票の写しに一致する者のみ一次対象。注記は“協力の様態不明”から“連絡の実態不明”へ表現を変更。……それから、命令の末尾に追記。『緊急時を除き、棚替えの前に再確認を要す』」
「承りました。……署名は」
「視察官の名で十分です」
「上位の署名が望ましいですが」
「望ましいものがいつも手に入ると思わないで」
受話器の向こうで、紙をめくる小さな音。短い沈黙ののち、了解が返る。線は切れた。
セレブリャコーフがほっと息をついた。肩の緊張がわずかに抜ける。
「……緊急時の文言、効きますね」
「制度は言葉で動きます。言葉に“ブレーキ”を仕込めば、少しだけ速度が落ちる」
「EVAの件は、どうしますか」
名前が室内の温度をわずかに下げた。補佐官は、依然として現れない。だが、彼女の名は報告書にあり、そしていま目の前の命令書にも“圧”として残っている。
「……まだ、何もしません」
ターニャは静かに答えた。即時の追及は、制度の反射を呼び込む。ここは観測を優先すべきだ。沈黙の側に“証拠”ができるまで、動かない。
「少尉、照合の手を分けましょう。あなたは警察名簿、私は党と軍の重なり。……それと、紙の供給記録を当たって」
「水印のロットですね」
「はい。“S-白桐”の供給表。いつ、どの局に、どの束が回ったか」
「了解」
少尉が扉へ向かい、足音が遠ざかる。静けさが戻る。ターニャは一人、命令書の行間に指を置いた。紙は冷たく、指先にわずかなざらつきが残る。紙はいつも無言だ。だが、それは沈黙ではない。紙の沈黙は、記録であり、命令だ。
窓の外、街路に薄い霧が出はじめていた。石畳は湿り、灯りが早くともり始める。境界の街は、夜に入る前の一瞬だけ、静けさの密度を高める。音が遠くなり、呼吸が近くなる。
ターニャは机の隅に積んだ別の紙束に目をやった。そこには、午前に受け取った“存在しない視察記録”の写しがある。EVA名義、VII局経由。彼女は二つの紙を並べた。報告書と命令書。圧の線は似ている。並べると、機械の癖が、わずかに浮かぶ。
「……観測と命令が、同じ手を通っている」
言葉は誰にも向けられていない。確認であり、覚え書きだ。観測が先に動き、命令が後から追う。観測者は沈黙し、命令書は喋る。その矛盾は、制度にとって矛盾ではない。制度は、観測者の沈黙より、紙の声を聞く。
扉が開き、セレブリャコーフが戻ってきた。彼女の腕には、警察名簿が三冊、貸出帳が一冊。肩は軽く上がり、呼吸は早い。走ったのだろう。
「貸出帳に異常。名簿の写しを持ち出した記録、署名が不明瞭なものが二件。日付は同日、時間は近接」
「時間を」
「九時三九分と四四分」
ターニャは視線を紙から上げた。朝九時台。VII局の登録時刻、九時四七分。帳面の数字が、一本の線で結ばれていく。
「……“橋”ですね」
少尉は瞬きし、すぐに頷いた。彼女の理解は速い。
「観測記録の写しが貸し出され、すぐに登録。続けて命令書が作られた」
「つまり、“誰か”が橋を渡した」
「はい。“名”を使った誰かが」
室内の空気は、冷えているのに、どこか乾いていた。湿った霧が窓の外を覆うほど、ここでは紙が乾く。紙が乾くほど、記録は固定される。固定された記録は、動かなくなる。動かないものは、重い。
「……少尉。今日はここまで。夜は静かにしておきましょう」
「了解しました」
「報告書も命令書も、動かさないで。位置も変えない。明日、もう一度観る」
「観る、ですか」
「はい。制度は言葉で動きますが、観察は目でやるものです」
セレブリャコーフは短く頷いた。扉が静かに閉まる。足音が廊下に消える。
ターニャは椅子にもたれ、目を閉じた。外の霧はさらに濃く、灯りは滲む。彼女の内側には、恐れに似たものが微かに芽吹いていた。書かれざるものへの感覚、沈黙への敬意。制度の正統が紙の上で増殖するほど、観測されないものの影は濃くなる。
机の上で、二つの紙が並んでいる。報告書と命令書。どちらも完璧な形式をまとい、どちらも冷たく、どちらも重い。だが、その間には、名のない橋が一本、確かに渡されていた。
その橋を渡った者は、誰なのか。死神の名を語り、記録を動かすだけの力を持つ者。名乗らないことで、名を最大限に使う者。
窓の外で、鐘が小さく鳴った。時刻を告げるのではなく、境界の街が夜に入ることを知らせる鐘。音は短く、余韻は長い。音が消えると、紙の存在だけが残った。
ターニャは目を開け、ゆっくりと息を吐いた。明日、観る。言葉よりも、先に。紙の向こう側にある沈黙が、どのような形で現れるのかを。
そして、橋を渡った“誰か”の足跡を、記録ではなく、観察で追うために。
夜が明けると、プシェミシルの空は灰のような薄光を落としていた。
ターニャ・デグレチャフは、いつもより早く執務室へ入った。机の上には、昨夜と同じ位置に二通の紙――EVA名義の報告書と、ハイドリヒ署名の命令書。昨夜、少尉に指示した通り、誰も触れていないはずだった。
だが、机に灯をともして近づいた瞬間、彼女の眉がわずかに動く。
紙の端が、ほんの数ミリだけずれていた。
人間の癖は残酷に正確だ。誰かが紙を手に取り、戻したのだ。
触れた跡は、わずかな油の痕。インクの端に薄く滲みがある。
まるで誰かが夜のあいだに「観察だけ」をしていったかのようだった。
「……セレブリャコーフ、鍵は?」
「保管庫の封印は無傷でした。巡回も問題なしです」
「では、誰かが内部から入った」
短い断定。
それ以上の説明は不要だった。RSHAの建物において、“外部から”よりも“内部から”の侵入の方がはるかに多いことを、彼女たちは知っている。
ターニャは椅子に腰を下ろし、命令書をもう一度読み返した。
文面は昨夜と同じ――だが、違うものがある。
ページの下に、細い鉛筆線で一文が書き加えられていた。
《洗浄の対象は、言葉ではなく、人である》
その一文を見た瞬間、セレブリャコーフが息を詰めた。
「……誰が、こんな……」
「書き加えたのではなく、“残した”のです」
ターニャは紙の下に指を滑らせ、筆圧の方向を読む。
線は上から下へ、左から右へ――署名と同じ圧力の癖。つまり、命令書を作成した“同じ手”によるものだった。
夜のあいだに、命令書は完成したのではない。
命令書は、今もなお“書かれ続けている”。
ターニャは静かにペンを置いた。
紙の上に沈黙が広がる。
「……制度が命令を書くのではありません。制度は、命令を書かせるのです」
セレブリャコーフは黙って頷いたが、胸の奥で何かが引っかかっていた。
――“書かせる”とは誰が? 制度という無機的な構造が、人間に筆を取らせるのか。それとも、人間が制度を利用して自ら命令を生成するのか。
そのとき、通信兵が扉を叩いた。
報告書の束を抱えている。
「VII局より追加通達です。“同文書の重複登録が確認されたため、照合を停止中”とのことです」
「……重複登録?」
ターニャは受け取った報告を読み、目を細めた。
そこにはこう書かれていた。
《RSHA/VII/Prz/—6341-A/RSHA/VII/Prz/—6341-B 二通存在》
「二通……?」
「はい。登録番号が同じ。つまり、命令書が“二重に存在”している」
セレブリャコーフが読み上げる声は、緊張に濡れていた。
制度の中で“二重登録”は致命的だ。どちらが本物でも、もう一方が存在してしまえば矛盾は発生する。
だが帝国の制度は、矛盾を“訂正”せず、“上書き”で解決する。
――つまり、どちらかが「消える」。
「どちらを残すつもりでしょうか」
「それを決めるのは、“誰の名を信じるか”です」
ターニャは淡々と答えた。
ハイドリヒの署名は重い。VII局の印も重い。だが、重さが釣り合ったとき、制度は“先に動いたもの”を優先する。つまり、観測が早かった方だ。
「観測記録が先行していれば、命令は後付けになります。……EVAの報告が先でしたね」
「はい。時刻で言えば数分の差です」
「数分あれば、制度は十分です」
ターニャは報告書と命令書を重ねた。
紙と紙の間に、わずかな空気が入り、ぱちりと音を立てた。
その音は、二つの記録がまだ“完全に一つになっていない”ことを示していた。
窓の外で、鐘が鳴った。
灰色の街に低く響く音。人の気配はない。
この沈黙こそが、RSHAの現実だった。
「……もし、この二通を両方とも“正”としたら?」
「制度が壊れます」
「ならば、壊れる前に“正しい方”を作ればいい」
ターニャは冷静に言い、机の上の紙を整理し始めた。
書類の順序を入れ替え、ペンを取る。
インクを確かめ、記録番号を新たに書き換える。
彼女の筆跡で、三通目の文書が静かに生まれる。
文頭にはこう記されていた。
《補正報告書 RSHA/VII/Prz/—6341-C》
《内容:記録上の二重登録を防ぐため、命令書を暫定的に停止》
《責任者:視察官 ターニャ・デグレチャフ》
署名欄に、自分の名前を書く手がわずかに止まる。
制度は沈黙を嫌う。だから、彼女が沈黙を守るためには、制度の中で“嘘を正しい形”にするしかなかった。
「……虚偽報告、ですね」
「虚偽は、制度においては“矯正”です。言葉の定義を変えれば、罪は消える」
セレブリャコーフの表情は複雑だった。
だが彼女は黙って頷き、印刷局への回付準備を始めた。
「沈黙を守るために、記録を偽る……」
「逆説的ですが、最も制度的な行動です」
ターニャの声は静かだった。
まるで、制度の倫理そのものを語るかのように。
紙を閉じ、封をする音が響く。
それが、帝国という巨大な機構の心音のように思えた。
昼前、VII局から短い返信が届いた。
その文面には、冷たい定型文が並んでいる。
《補正報告書 RSHA/VII/Prz/—6341-C 受理》
《登録時刻 九時五分/照合担当 VII-3/備考:形式上の整合確認済み》
――受理。
たったその二文字で、ターニャの“虚偽”は真実になった。
制度は、形を持ったものを信じる。
そして形を持たない沈黙は、信仰にも似た価値を持ち始める。
午後になり、セレブリャコーフが報告に戻ってきた。
「EVAの通信、届きました」
「……どこから?」
「局回線ではありません。無線通信です。暗号はDコード。発信元は特定不能」
「内容は?」
少尉は封筒を差し出した。中には短い紙片。
印字ではない。打鍵式の電報紙に、たった一行だけ。
《観測者は記録の外に立つ》
ターニャは、その文字を黙って見つめた。
無線の震えがまだ指に残っているような気がした。
たった一行、だが、そこにある冷静な断定が、制度のどんな命令文よりも重く響く。
「……“外に立つ”?」
セレブリャコーフが呟く。
「ええ。制度の外。命令の外。記録の外。……そこに観測者が立つという意味です」
「つまり、EVAはまだ観ている、と」
「あるいは、制度そのものを観測しているのかもしれません」
ターニャは小さく息を吐いた。
彼女の中に生まれていた恐れが、今、形を持つ。
“観測”が制度の外で行われるなら、制度は何を信じるのか。
記録が言葉を持たないなら、沈黙をどう扱えばいいのか。
「……沈黙は、制度の鏡です。見る者がいなければ、何も映らない」
「ですが、見る者がいれば」
「制度は、また形を変える」
ターニャの声には、どこか遠い響きがあった。
外では風が強まり、窓を鳴らしていた。
灰色の空は薄く裂け、雲の隙間から白い光が差し込む。
彼女は机の上の命令書をもう一度見た。
署名は、やはり“R・ハイドリヒ”。
だが、今やその名は重さを失い、ただの記号としてそこにあった。
「……死神の名を語る者は、いつだって制度の中にいる。外ではなく、内側に」
「それが誰であっても、ですか」
「そうです。たとえ、それが私自身であっても」
静かな声が、石壁に吸い込まれていった。
EVAの沈黙、ハイドリヒの名、そして制度の記録――
それらはすべて、一本の細い糸で繋がっているように思えた。
だが、その糸の先には、誰の手も届かない闇があった。
観測者はそこに立ち、沈黙を記録に変えようとしている。
ターニャは立ち上がり、窓を開けた。
冷たい風が頬を撫で、書類の端を揺らす。
灰色の空の向こうで、鐘の音が鳴る。
それは死神の足音ではなかった。
制度が“次の命令”を生成する音だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます