第5節〜第8節



第5節 無意味な命令


 それは、命令というにはあまりに内容に欠け、命令でないには形式が整いすぎていた。


 国家保安本部(RSHA)の中枢区画に設けられた一室。無窓の壁と沈黙の照明に包まれた、監視と監視の狭間にあるような執務室にて、ターニャ・デグレチャフSS大尉はその紙片を見下ろしていた。


 命令書の表題は、単に「指示事項」とだけ記されていた。

 発令元の署名は存在せず、印章すら押されていない。

 だが、その代わりに、配布経路は“VII局確認済”と記載されていた。すなわち、この命令が意味を持つか否かは、“受け取った者がどう解釈するか”に完全に委ねられているということだった。


(……また、こういうやり口か)


 ため息すら浮かべず、彼女は思考を切り替える。

 内容が空白であることは、何をしてもいいという意味ではない。むしろ、何をすれば“望まれた行動”と見なされるかを、受領者自身が読み取らねばならない。


 命令は制度であり、制度は解釈によって成立する。

 国家保安本部において、形式は実質を凌駕するのだ。


「つまり、“何もするな”という命令か、“すべてを報告せよ”という命令か……どちらにでもなる」


 誰に向けたでもない独白が、室内の空気をさらに硬質にした。


 紙片にはわずかな痕跡があった。

 インクの滲み、紙繊維の歪み、指の圧痕。

 誰かが確かに手を通した痕がある。

 だが、それが誰であったかを追跡する術は最初から排除されていた。


 ターニャは椅子から立ち上がり、封筒を再び手に取った。

 そこには、もう一枚、小さな紙片が残されていた。


「判断は現場の裁量に委ねる」


 それだけが、書かれていた。


 命令とは、内容がなくとも命令である。

 制度がそれを命令だと認識した瞬間、無内容の紙は“正当な行動根拠”へと変質する。


 だからこそ危険であり、だからこそ美しい。


(制度が沈黙する時、人間は言葉を捏造する)


 そのことを、誰よりも深く理解しているのがターニャであった。


 壁の向こうには、すでに別の監視者が配置されているかもしれない。

 この“命令”が誰の意志なのかを問うことに、意味はない。


 あるのは、命令が発されたという“事実”だけ。

 そして、それをどう運用するかという“解釈”だけである。


 ターニャは命令書を封筒に戻し、灯の消えかけた卓上ランプの明かりに目を細めた。


「命令は命令だ、たとえ空文でも」


 その声は静かでありながら、何かを起動させるための呪文のようでもあった。






第6節 EVAの軌跡


 国家保安本部(RSHA)の記録保全庫、その第二補遺区画。金属製の棚に無機質なフォルダーが並ぶこの空間は、過去という名の亡霊を封じ込めるために存在する。光は少なく、空調の唸りだけが時間の流れを物語っていた。


 ターニャ・デグレチャフSS大尉は、手袋越しに一つの資料束を取り上げた。

 それは、EVA――かつての補佐官にして、現在は行方不明とされる人物の行動履歴を示すものだった。


 内部識別コードは不明。だが、使用されている分類記号と文書整理手順からして、VII局の影が濃厚だった。


「“思想偏差リスト”と銘打たれていないのが、むしろ不気味だな」


 皮肉とも独白ともつかぬ声でそう漏らすと、ターニャは記録を一枚ずつ丁寧に繰り始めた。


 文書には、EVAの行動軌跡――訪問先、連絡手段、非公式接触の形跡などが克明に記されていた。それは制度上の報告というよりも、観察者の主観を多分に含む“記述的記録”だった。


「……同伴者不明、移動経路未申請。だが所持品は正規手続き通過済み。隠しもしないというわけか」


 記録の末尾には、手書きで数行の注釈が添えられていた。


(彼女は忠誠に準ずる。だが、目的は異なる可能性あり)


 この一文が意味するのは、忠実な行動の内側に潜む“別種の動機”の存在である。すなわち、命令への従属ではなく、信念による自律的な行動。


 それが制度の一員として賞賛されるか、それとも危険思想とみなされるかは、解釈者次第だった。


「思想的分岐点……か。制度に従いつつも、制度の外に目を向ける。それを裏切りと断ずるか、進化と捉えるかは、上層の気分ひとつ」


 RSHAにおいては、忠誠とは行動の一致ではなく、“意図の予測可能性”にあった。従っていても、予測不能な意図は排除対象となる。


 資料の一枚に、EVAがターニャと共に視察した辺境施設の写真が添えられていた。

 二人の姿はそこに明確に映っていたが、視線の方向がまるで異なっていた。


(わたしは現実を見ていた。彼女は……何を見ていた?)


 問いは答えに至らず、ただ沈黙だけがその場に降り積もった。

 ターニャは資料束を元の棚に戻し、無言で背を向けた。


 忠誠とは何か。

 それは、この機構において常に問われ、同時に常に黙殺される命題だった。






第7節 規律なき戦線


 国家保安本部(RSHA)において“統一”とは神話である。少なくとも、外部に示される硬直的な命令体系と制服の装飾が、内実においても一枚岩を保証するものではないことは、職員であれば誰もが知っている常識だった。


 だが、その“常識”が限界を迎えつつある――そうターニャ・デグレチャフSS大尉が実感したのは、数日ぶりに再開された内部ブリーフィングの場においてだった。


 報告は錯綜し、文書の出所はあいまいになり、誰が何を監視し、誰に何を報告すべきかの基準すら崩れていた。IV局(ゲシュタポ局)は治安維持の名の下にVII局の資料庫を監視対象に加え、VII局は“記録保持の観点から”SDのフィールド報告を収集し始めた。


「まるで、制度が自己分裂を始めたようなものだな」


 ターニャの呟きは、自嘲と冷笑をないまぜにした調子で発された。書類という武器で世界を構築してきた制度が、いまやその武器を自らに向けている。


 RSHA内の構造は、表向きには一貫した指揮系統を保っていた。だが現実には、各局がそれぞれの目的と保身、あるいは純粋な権力衝動に従って独自に動いていた。


 SDは、かつての“冷笑の中枢”としての沈黙をかなぐり捨て、現場との接触を強化しつつあった。だがその“接触”は、往々にして命令なしに行われ、しかも誰の命令であったかが追跡できない。


「VII局から“監視の対象に関する補足要請”だと? まるで、こちらの懐を測っている」


 EVAが読み上げる文書を受け取りながら、ターニャは眉を動かさずに言葉を継いだ。


「そしてSDからは“協力の申し出”。言い換えれば、情報の引き渡し要求。相互信頼なき情報共有ほど、危険なものはない」


 机上に並べられた書類群は、もはや統制された体系ではなかった。それはまるで、崩壊しつつある規律の断片――命令書、報告書、要請文、密告――の集合体であり、そこから読み取れるのは秩序の維持ではなく、権力の漂流だった。


 ターニャは、ふと手元の紙に視線を落とした。

 それは、IV局から発せられたとされる命令書であったが、送付元の署名が欠けていた。加えて、日付の記載も曖昧で、文言も曖昧な仮定表現を多用していた。


「この文書は、意図的な空白で構成されている。内容よりも“誰がそれを扱うか”が問われている」


 言い換えれば、命令の中身はどうでもよく、その処理過程において“誰がどこに立っていたか”が、後に秩序の線引きを定める基準となるのだ。


 それは制度の末期的症状である。


 すでにRSHAは、内部で自己分裂を開始していた。命令が権威を失い、観察が観察を呼び、密告が密告を生み出す。


「……規律なき戦線、か。好戦的な混沌とは皮肉なものだ」


 ターニャは静かに席を立ち、壁に掲げられた作戦地図を見上げた。

 そこには、誰の意図とも明記されぬ矢印と番号が、幾重にも重なっていた。


 RSHA本部の地下では、今日もまた、誰にも知られぬ“戦争”が進行していた。






第8節 暗号通信Dコード


 国家保安本部(RSHA)本部の一角、誰の出入りも記録されない補助資料室。その壁面には、旧式の無線傍受装置が並び、使われなくなった暗号表や通信記録が埃をかぶって積み上げられている。


 セレブリャコーフSS少尉は、まるで偶然のようにして、それを見つけた。


 彼女が手に取ったのは、黄ばみかけた記録用紙の束。その一枚にだけ、見慣れた構造を持つ暗号文が印字されていた。


 ──Dコード。


 それは旧来の陸軍暗号体系に端を発する、いわば“過去の遺物”である。

 しかし、その内容は、奇妙なほどに最新の命令文構造と一致していた。


「まさか、こんなところで……」


 セレブリャコーフは、無意識に息を呑んだ。紙面に記された単語群は、彼女が数日前に上層から受領した機密指令書の文面と、構文、語順、修辞に至るまで、酷似していたのだ。


 ──偶然だろうか。


 だが、RSHAにおいて“偶然”という概念は、まず疑うべき対象である。

 旧式のコードが現代の指令と符合するなど、単なる一致では済まされない。


 彼女はその記録を手に、誰にも見られぬよう密やかに資料室を後にした。


 その日の夕刻、ターニャ・デグレチャフSS大尉の私室にて、報告はなされた。


「この形式、Dコードと呼ばれる旧式の暗号です。ですが、どうも最近の命令体系と……」


「一致している、と?」


「はい。構文だけでなく、内容の断片も同様です。しかも、それが“記録に存在しない発令”と一致しているとなれば……」


「命令の二重構造、あるいは隠匿伝達の形か」


 ターニャは、静かに頷いた。RSHAでは命令の“痕跡”そのものが情報管理の要であり、発令履歴を消去した上で情報を渡すという形式がしばしば用いられる。

 だが、今回の問題はその痕跡の形式があまりに古いことにあった。


「……つまり、我々は知らぬうちに、過去の“幽霊”と会話していたわけだ」


 黒皮の手袋に包まれたターニャの手が、Dコードの印字面を指先でなぞる。

 その指先が止まったのは、命令文中の一語——《フェニックス》だった。


「再生を意味するのか、それとも……」


 ターニャは椅子に深く背を預け、沈思した。


 仮にこの通信が意図的にRSHA内部へ“埋め込まれた”ものだとすれば、それを為した者は、現行の命令系統と旧式の通信体系、双方に通暁している必要がある。


 つまり、過去において“消された”はずの何者か——あるいは、制度に殺されなかった者。


「これは……我々を監視するだけでなく、“試している”可能性がある」


 セレブリャコーフが息を呑む。

 それは、あまりに大胆で、あまりに論理的な推論だった。


 命令を“再利用”すること。

 それは命令の正当性を制度的に上書きする手段である。


 もし誰かがこの旧式コードを用いて、過去の命令体系から現在の行動指針を“生成”しているとすれば——RSHAの制度それ自体が、知らぬうちに他者に“演算”されている可能性がある。


「おそらくこれは試金石です、大尉。誰がこれに気づき、どのように反応するか……それが見られている」


「ならば、我々は何も知らぬふりをしよう。さもなくば、次に試されるのは“忠誠”そのものだ」


 薄暗い室内、二人の影だけが床に長く伸びていた。

 命令という名の幻影が、いまも静かに組織を揺らしている。




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