第9節〜第12節
第9節:灰色の迷宮、アプヴェーア
国家とは、力によって維持される幻想である――その言葉が真実味を帯びるのは、秩序が不明瞭になった時だ。
戦火に包まれたポーランド総督府領。クラクフの薄曇りの空の下に、またひとつ、情報戦という名の血塗られた舞台が静かに広げられていた。
その中心に位置するのは、国防軍情報部――通称、アプヴェーア。名目上は国防軍の参謀本部直轄、だが実態はというと、組織の奥底で潜行する灰色の亡霊のような存在である。
「大尉、先ほどの報告にあった通り、SD側がクラクフ大学の学籍簿を抑えに動いています。あれは例の“リスト”と関係しているかと」
顔色一つ変えずに報告する将校。その声は静かで、しかし確かに冷ややかなものだった。応対するのは、アプヴェーアの現地指揮官――ヘルムート・クラウゼ大尉。痩せ型で神経質な面構え、胸元の鉄十字章がいかにも彼の神経質さを象徴するようである。
「……またSDか。相変わらずあの“ヒムラーの目”どもは、民間人の書類を抑えるのが好きらしい」
クラウゼは皮肉を混ぜながら机上の報告書に視線を落とした。そこに綴られていたのは、国防軍が独自に進める占領地安定化計画の内情、さらにSDとゲシュタポが裏で嗅ぎ回る動き、そして極秘に計画されていた「東部官吏粛清計画」――。
これらすべてが、アプヴェーアの情報網に引っかかっているという事実は、皮肉にもこの組織の有能さを示すものであった。
だが、それでも彼らはいつも後手に回っていた。
なぜなら――あの少女が、すでに先回りしているからだ。
「ターニャ・デグレチャフ中尉……ふむ。やはり貴女が動いたか」
クラウゼがぽつりと呟いた名前。それは彼にとって、避けがたい“幻影”のような存在だった。
国家保安本部より派遣されたとされる特使でありながら、その振る舞いはあまりに自由。内務省の官僚とも軍の将校とも異なる冷徹さを備え、しかも、その裏に“ある意図”があるのでは――と、アプヴェーア内部ではささやかれていた。
「彼女が手を回した以上……我々が主導権を握るのは難しいな」
参謀将校たちの間でさえ、あの少女の正体については明らかにされていない。ただひとつ確かなのは、あの金髪の幼き将校が“ヒムラーの代理”として各地を回っているという事実である。
ヒムラーは、自らを国の構造そのものに重ねることで親衛隊の影響力を拡大していた。ゲシュタポの恐怖、SDの観察、そして今、この情報戦の分野においても――彼の影はあらゆる階層に染み込んでいる。
「まるで、灰色の迷宮だな」
クラウゼは椅子にもたれかかり、目を細めた。
アプヴェーアという情報の迷宮。それは外部の敵に対する防諜機関であるはずが、いつの間にか、内なる“同胞”と火花を散らす情報戦の渦中に立たされていた。
彼らは銃を使わず、言葉を、報告を、裏帳簿を用いて戦う。
そしてその戦場の先に、どれほどの悲劇と喜劇が待っているか――彼らは、知っていた。
静かに灰が舞うように、クラクフの空を覆う陰影は、戦火だけでなく、疑念と策略によっても濁っていた。
第10節:沈黙の矛、双頭の諜報戦
国家の命運は銃火の奔流だけでなく、時として一枚の報告書、あるいは一言の囁きに左右される。
それが諜報の世界であり、情報という名の武器を巡る戦争においては、敵味方の区別すらも曖昧だ。
まさに、静寂に包まれた戦場——銃声なき死闘である。
クラクフの保安本部に程近い、旧行政区画の一角。
瓦礫の中に佇む煉瓦造りの建物、その地下に広がる作戦室では、今日もまた火花の散る「報告合戦」が繰り広げられていた。
「……それで、アプヴェーア(国防軍情報部)の方ではこの件をどう解釈した?」
声を発したのはSDの所属する若い将校、階級章からすれば中尉級。
均整の取れた軍帽、よく手入れされたモールスキンの軍服。その表情は飄々としていて掴みどころがない。
対するは国防軍の制服に身を包んだ参謀将校。アプヴェーアの出先機関として駐留していた彼は、不快そうに眉根を寄せた。
「当然ながら、過剰反応と見ている。我々の資料ではパルチザンとの関連性は乏しく、単なる脱走兵と現地民の小競り合いと判断している。そちらの“創作”が行き過ぎているのでは?」
「……ああ、なるほど。ではこの焼け焦げた検体や、斧で解体された将校の遺体は幻影か?」
乾いた笑いが室内に散る。
アプヴェーア将校は鼻を鳴らすと、分厚い革表紙のファイルを叩きつけた。
「現場が錯綜していることは認めよう。しかし、異常の定義すら曖昧なこの都市で、なぜ“そちら”の判断が絶対であると言える? SDは……幻を事実に仕立てることを、まるで芸術のように嗜む」
皮肉を込めた言葉は、その場にいたもう一人の存在を意識してのものだった。
そう、部屋の奥、窓もない壁際にて、仄暗いランプの灯火の下で記録用紙を綴る少女——ターニャ・デグレチャフ中尉がそれである。
年端もいかぬ少女の姿をした親衛隊将校。
だが、その眼光は冷徹そのもので、言葉を発せずとも周囲の空気を制していた。
「情報とは解釈の産物に過ぎません。現実を正確に捉えることと、それをどう運用するかは別の問題です」
沈黙を破ったのはターニャだった。だが、その声音に感情の抑揚はほとんどなく、ただ事務的な口調であった。
それでも、部屋の空気が一変するには十分だった。
「軍と警察が別の資料を揃え、異なる結論を導き出すことなど日常茶飯事です。しかし、ヒムラー長官は結果を求めておられる。そこに誤差があってはならない」
「……ヒムラー“長官”? なるほど、貴官は——」
アプヴェーア将校が言いかけたその瞬間、SD将校が咳払いとともに割って入った。
「デグレチャフ中尉は国家保安本部の正式な調整官だ。我々の命令系統に関する指摘は控えてもらおう。でなければ、これは軍紀違反の議題とさせてもらう」
冷ややかな視線が飛び交う中で、ターニャは何事もなかったかのように記録を続ける。
ヒムラー直属の意志。
国家保安本部の沈黙の刃。
そして、その存在自体が政治的圧力であり、内務と軍との境界線を曖昧にする火種。
——そう、それこそが彼女の役割だった。
無数の矛盾と欺瞞が折り重なるこの戦場において、真に恐るべきは、銃でも大砲でもない。
沈黙の中で記録し、選別し、情報を武器として再構築する者たち。
彼らこそが帝国を“支えている”のである。
そしてその裏で、ターニャは今も冷静に、ある仮説と、ある未来図を頭の中で練り続けていた。
新兵器の開発情報。
未知の異常現象に関する報告。
そして、崩壊の兆しを孕む帝国の行く末——
それらは、交渉の材料にも、亡命の保険にもなる。
だが、それを実行に移す日が来るか否かは、まだ彼女自身すらも分からなかった。
すべては「情報の流れ」が教えてくれる。
だからこそ、今はまだ“沈黙”を保つべき時である。
第11節:沈黙の報告書
報告書とは何か?
紙の束に過ぎない? 否。正しくは、保身の盾であり、疑念の矛でもある。
誰が、何を、何時、何処で、何故――そして誰の許可で行ったのか。それらの問いに対する形だけの回答、それが報告書という名の官僚的呪詛だ。
「中尉、例の件、まとめておきました」
そう言って手渡されたのは、国防軍情報部――アプヴェーアへの宛名が記された、封緘された報告文書であった。
表紙には「備忘用」「非公開指定」と朱字が走り、検閲済の印影が無数に押されている。いかにも事後処理の産物であることを物語っていた。
「ご苦労。……さて、問題は“どの程度まで”真実を伝えるかだが」
そう呟いたターニャの声に、室内の空気が一瞬硬直した。
誰もが知っている。報告書とは、事実の全てを書き連ねるものではない。それは“読む者に対してどのような印象を与えるか”を操るための精密な構成物に過ぎない。
報告書の体裁は整っている。だが、内容の濃淡は“恣意的”であり“演出”だ。
「我々が把握している情報のうち、どこまでアプヴェーアに伝えるべきか……」
机上に置かれた地図の上に、親衛隊とSD、そしてアプヴェーアの活動領域がそれぞれ色分けされている。
重複する部分は少ない。されど、重なる部分こそが――最も血なまぐさい利害が交錯する場所であった。
「ここはSDの管轄として、動きを伏せておく。……こちらは敢えて誤情報を含めて記載、向こうの分析力を見極めよう」
冷徹な指先が地図をなぞるたびに、誰かの運命が塗り替えられていく。
ターニャの背後に立つSS曹長が小さく息を呑んだ。
「中尉、それは……情報操作では……?」
「“戦争”における情報とは、常に操作されるものでしょう。無垢な真実ほど役に立たないものはない。貴官もそれを忘れないように」
声は穏やかで、まるで日常会話のようだった。
だが、そこに込められた言葉の刃は鋭く、そして静かだった。
SDからアプヴェーアへの“報告”はすでに調整済みである。
真実の一部を見せ、残りを沈黙の裡に封じる。
それは保身のためではない。統制のためである。
ターニャ・デグレチャフ中尉はヒムラーの影であり、ラインハルト・ハイドリヒの“口”でもある。
口を閉ざすことで真実の価値を高め、必要なときにだけ開かれる。
それが――沈黙の報告書。
第12節:記録と抹消
書類とは、奇妙な力を持つものである。そこに記された情報が一個人の生死を決定し、時として一部隊の存在を歴史から抹消することさえ可能にする――それが、この第三帝国における「行政」の本質であった。
国家保安本部の地下階層。書類棚が並び、黴の匂いとインクの残り香が漂うそこは、まさに帝国の「記録」と「抹消」が交錯する沈黙の戦場であった。
ターニャ・デグレチャフ中尉は机上に整然と並んだ報告書に目を通していた。顔に浮かぶのは無表情、だが脳裏では冷静な演算が繰り返されている。
「総督府付き政務官シュトラッサー、対党連絡協定に反し、独断で住民登録制度を改変。……ふむ、秩序の名の下に。」
静かに、彼女は朱色の判を手に取り、報告書の所定の欄に無言で押印する。
その行為は、机の向こう側に控える副官の手によって即座に処理される。送信先は特高警察と党の組織局、そして作戦担当のSD現地班。
やがて、クラクフ郊外のとある邸宅に突入命令が下されるだろう。寝静まった午前二時、玄関を叩くことなく扉が破られ、標準化された手順で政務官とその家族が連行される。抗弁は記録されることなく、罪状は即日処理され、照会もなく帳簿から名が消える。
それは、行政的かつ手続き的な「抹消」――。
「党地区指導員リープケ、報告書にて『占領地における民族統合政策は、党独自路線であるべき』との記述……ほう、興味深い主張だ。」
皮肉のように笑みを浮かべ、彼女はペンを走らせる。
そこに記された文字は簡潔だった。「思想的乖離により、配置転換不可。是正指導困難。記録削除を勧奨す。」
わずか三行。だがそれが彼の運命を定めるには十分であった。程なく、彼の名は党の指導者名簿から抹消される。存在の理由と経歴が断ち切られ、書類上の死者となる。彼を知る者の記憶が曖昧になるころ、彼の書斎もアーカイブも処分され、もはや誰も彼の名前を語らない。
それが「削除された党員」の末路である。
だが、記録の改竄と抹消は、時にさらに大きな単位で執行されることがある。
ターニャの眼が、ふと分厚いファイルへと移った。標題には「第412占領行政小隊:行動逸脱および指揮系統不在による自治活動疑義」とある。
内容は、ある地方都市に派遣された占領地行政官が、現地住民との協調を優先し過ぎた結果、規律逸脱と中央の指令無視により半独立的な運営を行ったというものだった。
命令に従わぬ官僚。逸脱を容認した指揮官。そして無力な軍の駐屯部隊。
「……軍との関係性は難しい問題だが……これは、面子の問題ですらないな。命令体系の崩壊は、帝国全体への裏切りと同義だ。」
ペン先が、ファイルに「解体・記録統合」と書き記す。
即日、対象部隊は行政機構から削除される。将兵は全員再配置の名目で分割送致、隊旗は保管命令と共に焼却処分、上官には地方への左遷が命じられる。報道には一切載らず、事実そのものが存在しなかったかのように封印される。
まさしく、「記録」の調整こそが最終的な「真実」を定義するという、この時代の狂気の論理である。
ターニャは判を置き、整然と処理されたファイルを一瞥した。
「……記録が存在しないのなら、それは最初から起きなかったと同じ。抹消の技術こそが、帝国の秩序そのものだ。」
灯りに照らされたその瞳に、感傷も憐憫もなかった。ただ、冷えた理性と、恐るべき事務処理能力によって構成された国家機構の末端――いや、むしろ中枢を成す人物の顔が、そこにあった。
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