虚構世界の夢現境門

千珠沢煌也

序 章 召喚は外なる存在を招くもの

 それは路地裏であった。

 夕焼けの日差しも建物に遮られ、その場所は薄暗いままだった。

 額から頬、顎へと伝って何かが滴る。汗かと思って拭ってみれば、ぬるりと嫌な感触があった。

 赤い。

 手を濡らすそれが、汗ではなく血であると気付くのにそう時間はかからなかった。

 ポタポタと地面に落ちていくのを一瞥すると、神和終耶こうなぎしゅうやは視線を相手へ戻す。

 残りの召喚士は、そこで転がっている男を除けばあと二人。

 鉄の匂いがする。

 息が荒い。視界が霞む。足はダメージの影響か力が入らず、重心も安定しない。

 それでも。


「……───


 虚勢でも蛮勇でも構わない。ただこの時だけ、足の震えが止まるのならば何でも良い。

「こんなところで負けられない。俺は敗北しょうりあきらめない」

「……未召喚者プレーンのくせに邪魔しやがって……」

 スキンヘッドの不良が忌々しげに呟いた。

 知ったことかと心の中で吐き捨てる。

 無力上等。元より武器はこれだけだ。

 ならば粋がれ。

 せめて強がれ。

 力で押されたとしても、その意志だけは貫き通せ。

「来いよ間抜け共」

 一度緩んだ力を引き締める。

 改めて両手で拳を作り、ズタボロの体を引きずるように臨戦態勢を取り直す。


「テメェら全員薙ぎ倒してやるから、精々歯ァ食いしばれ……ッ!!」



「……で、不良に絡まれている女の子を助けるために無策で突っ込んでそのザマと?」


 時は六月二六日。とある学園の一室だった。

 委員会に所属している生徒でなければ用がなく、学校の設備の中でも生徒ではなく教師のために用意されている場所。

 そう、職員室である。

 付け加えると現在は放課後だ。太陽はとうの昔に頭の上を過ぎてはいるが、外から生徒の声は聞こえてこない。

 そして、『どこにでもいる平凡な高校生』神和終耶こうなぎしゅうやの前には、一人の教師がこめかみに青筋を浮かべながら仁王立ちをしていた。

 比良坂雉郷ひらさかちさと。下手をすれば小学生に間違えられるほど小柄で、身長を優に超す長い黒髪が特徴的な、神和のクラス担任である。

 服装は白いブラウスに黒いタイツスカート。これだけ見れば敏腕な女教師そのものだが、低い身長や童顔とミスマッチすぎて先生よりも先にコスプレという単語が思い浮かぶ。

 そんな先生は、わざわざ上から見下ろすために机の上に立っている辺り、上から言葉をぶつけることに重点を置いているらしい。教師なのに机の上に立つとはいかがなものかとも思うのだが、碌な目に合わないのが目に見えているので口にはしない。

 そして、神和も神和でボロボロであった。顔や腕に目立つような傷はもう残っていないものの、シャツやズボンなどで隠れている部分にはまだ包帯が巻かれている。

 しかもこれは一度や二度ではない。もはや不良と関わるイベントは絡まれている人を助けに行くか、因縁をつけられて大乱闘に発展するかの二択になっている。最近は後者が主になっているのも雉郷ちさと先生の悩みの原因タネかもしれないが。

 だからこそ、彼女はその心意気は褒めるとともに解決手段について毎度ありがたく注意してくれるのだが、当の本人は一向に直す気配がない。

 そして、キレると周囲の温度が五度下がるという逸話が比喩表現ではない雉郷先生は、例に漏れず職員室を凍えさせていた。ちょっと耳を澄ませば歯をカチカチさせている音が聞こえるし。

「まったく。大神おおがみさんが助けに来てくれたからその程度で済んだものの……不良とはいえ相手は召喚士です。術士の練度が底辺レベルであったとしても銃火器を持っていることと同義ということは教えたはず。下手をすればもっと酷い怪我を負っていたのかもしれないのですよ?」

「あ、あはは……。三人くらいならいけっかなぁって思ったんですけd

「あ?」

「すみませんなんでもないです」

 視線が更に冷たくなった。それと同時に雉郷先生の後ろに何か這いずり出てきた。

 黒い肌に女性ものの黒い和服。無造作に伸びた髪の間から、鬼の仮面が覗いている。そのおっかない姿は、鬼女と呼ぶに相応しい。

 そして、威圧感は度が過ぎれば可視化するようだ。現在進行系で、鬼女は全身からドス黒いオーラを垂れ流している。

 しかもそれが八人。

 揃いも揃って雉郷先生の影からこちらを睨みつけているのだから、恐怖の度合いはお化け屋敷なんてものではない。『あぁ、怒っている人の後ろに厳つい顔をした仏像が見えるっていうイメージはこんな感じなんだぁ』と現実逃避することでしか体の震えを誤魔化せない。

「……はぁ。まぁ貴方も無事みたいですし、彼女からも感謝していると聞いているのでこの件は置いておくのです」

『一応』と『取り敢えず』を強く言っている辺り絶対に根に持っている。その証拠に雉郷先生の顔が無表情に見える鬼の形相から変わっていないのだ。

「ところで神和くん。相変わらずバイトと喧嘩に明け暮れている毎日を送っているようですね」

「なんか悪意のある言い方に聞こえますけど……まぁ、その通りです」

「生活費を稼ぐためにバイトをする……結構なのです。困っている人を助けるために不良と喧嘩をする……まぁこれも百歩譲って良いでしょう」

 神和の現状を並べ、雉郷先生は一度区切ってから言った。


「さて、期末試験まであと少しですが、少しでも勉強をしていますか?」

「してないですが多分おそらくきっとなんとかなると思ってます」


 根拠もないのにお気楽な発言をしたのがまずかったらしい。

 目の前で雷が落ちた。

 これもまた比喩ではなく、物理的に。

 さて、『どこにでもいる平凡な高校生』だけどちょっと、いやかなり……だいぶ残念おバカな少年のために当たり前の事実を確認しておこう。


 学生の本分は勉強である。



 死ぬかと思った。

 おかわりと言わんばかりに数発の落雷が追加され、鼓膜を貫通するような大音量を叩きつけられたのだ。全身マナーモード。神和はこの時、落雷に怯える犬や猫の気持ちを理解した。

 因みに、あの後正座をさせられみっちりと叱られた。小一時間くらいかかったかと思ったが、どうやら一〇分程度しか経っていなかったらしい。時間の感じ方はこういう時理不尽だ。

 ゲンナリした状態で職員室を出ると、艶のある黒髪をツーサイドアップにまとめた少女が、廊下の壁に背中を預けていた。鞄を二つ持っている辺り、どうやら神和の鞄も持ってきてくれたらしい。

「お疲れ様。出来ればもうちょっと穏便に済ませてほしかったけど」

「それが出来るんなら苦労しねぇよ……。っていうか待っててくれたんだな。それに鞄まで」

「まぁね。はい、どうぞ」

「おう、ありがとな」

 少女───大神陽依おおがみひよりは神和の幼なじみだ。勉学と部活動を両立させ、神和も在籍している二年七組の学級委員も務めている。そんな優等生が職員室に足を運ぶのは、決まってどこかのお馬鹿な少年が絡んでいる時だった。因みに、不良との路地裏バトルで助けてくれたのも彼女である。

 移動の最中、陽依は窓の外へ視線を移す。彼女は化粧要らずの美少女だ。だからこそ、景色を眺めるその横顔も、絵になるほど綺麗であった。

 なお、視線の先には真っ黒焦げどころか大穴が開いている。陽依の表情もどこか引きつっているように見えた。

「……あ、あれだけ大きな雷が落ちてよく壊れないよな、ここの設備。パソコンとか一つや二つは逝ってそうなもんだけど」

「そこら辺は理事長が特注品を仕入れてるらしいわよ。まぁこの学園は召喚魔術を授業に取り込むくらい積極的だから、設備もそれに耐えられるものじゃないとね」

「修復作業も早いしなー。この前も半壊した校舎が一晩で直ってたし」

 私立明星めいせい魔導学園。

 召喚魔術を対象とした研究施設は数多く存在するが、その中でも教育機関と研究機関を兼ねた唯一の学校法人だ。

 東京西部に位置し、中等部と高等部があるため敷地面積はかなり広い。これだけでも結構びっくりだが、姉妹校が国内どころか世界中に存在する。まさかのワールドワイドである。

 また、現代文や数学といった教科以外にも、『使役術』という名称で召喚魔術が時間割に組み込まれている。魔術の基本知識や能力の使い方、召喚士が守るべきレギュレーションを教えることが主な目的だ。

 その他にも、無償で提供される学生寮に、学園が提示する学力と出席日数の条件を満たせば無料になる授業料、召喚魔術に成功すれば給付される返済不要の奨学金制度などなど。おそらく、生徒が自由に学ぶ上で不要と考えられる障害を、限界まで取り除いた教育機関だ。

(設備が特注、修復速度も尋常ではないとすると、この学園ってもしかしてオーバーテクノロジーを抱えまくる秘密組織なんかと繋がってるんじゃないか? ……やめよう。ロマンはあるけど真実マジだったらなんかおっかないし)

 そんな少年の適当な思考は、幼なじみの何気ない一言で現実に引き戻された。

「それで? テスト勉強やってないんだって?」

「……………………はい」

「一応、理由を聞いておこうかしら」

「バイトですっかり……頭の中からすぽーんと……」

 横からため息が聞こえてきた。やれやれという感じではなく、雰囲気的にダメな子を見た時の反応に近い。実際にやられると相当メンタルに来るあれだ。

「……アンタ、バイトのシフト結構入れてる上に、それ以外は喧嘩ばっかりでロクに時間も取れてないんでしょ? 少しずつでもいいから勉強しなきゃ中間の二の舞になるわよ」

 ご尤もである。

 この不良少年は試験前に毎回似たような状況になるのだ。焦燥感でてんやわんやしているところを優等生の幼なじみに助けてもらい、なんとか試験を凌ぎきるところまでがテンプレである。猿の方がまだ学習能力があるだろう。

「ま、今回も頼ってくれれば協力するわよ。テスト範囲の内容もまとめ終わってるから」

「助かります……」

 正直言って、陽依の授業は下手な先生よりも分かりやすい。神和に勉強を教えるために、準備を整えていたのではないかと考えるほどの領域である。なお『家庭教師』に時間を割きすぎて陽依自身の点数がガクッと落ちた時には流石の当人も苦笑いしていたし、次の試験ではしれっと満点を取って名誉を挽回してきた。自分の幼なじみはすごいのである。

「っていうか何度も助けてもらってる身でこう言うのもアレだけど、普段の勉強に加えて俺の面倒見るとか大変なんじゃないのか? 無理しないでいいんだぞ」

「本当に今更ね、別に無理なんてしてないわよ。それに、アンタに先輩って呼ばれたくないし」

「いやー流石にそれはないだろ。……えっ、ないよな?」

 優しい幼なじみは笑顔であった。

「そうね、追試は定期テストより簡単らしいからきっと大丈夫よ、後輩くん?」

「初めから赤点と留年を可能性に入れないで!?」

 短く笑われた。どこまでが冗談だったのか分からないが、心臓に悪いのでやめてほしい。

「ようやく終わったか。今回もすごかったな。この調子で行けば世界有数の避雷針になれるぞ」

「んな訳ねーだろダラズ。ってか大佐こそどうしたんだ?」

「同志に普及するためにエロゲを持ってきたのがバレた。今からその説教だ」

 なんと変態とエンカウントした。

 持ち込み発言に関しては陽依に軽くドン引きされているが、彼も神和のクラスメイトだ。

 筋肉質を通り越してムキムキの肉体を持ち、文字通り神和よりも頭一個背が高い。そして特筆すべきは、いつも頭全体を隠す被り物をしていることだ。目の部分だけくり抜いた通販のダンボールを被っていることが大半だが、季節に合わせてかぼちゃやら獅子舞も被る。因みに今日は山羊だった。

 アニメやゲームに影響され、作品に出てきたことを調べては実践してを繰り返し、今や全知全能と揶揄されるほどの天才へんたい。周囲から畏怖と敬意と軽蔑を込めて大佐と呼ばれている。

 だが完璧は存在しない。そんな変態大佐にも弱点があるのだ。

「因みに誰にバレたんだ?」

「………………………………………………………………………………………………雉郷先生」

 それは女性。

 大人だろうと子どもだろうと女性に意識を向けられたらフリーズする。陽依とは比較的まともに会話できるが、それでもちょっと睨まれただけで抜け殻のようになる。気絶して数時間意識が戻らないなんてこともザラだった。

「生きて帰れよ……」

「俺、この説教が終わったら家で撮り貯めたアニメ消化するんだ……」

「それダメなヤツじゃん……」

 大佐はこちらを振り向かないままサムズアップして職員室に向かっていった。

 今の雉郷先生は誰かさんのせいで気が立っている。五分も保てば上出来だろう。

 説教中の落雷が目に見えるからだろうか。陽依はどこか少し急かすように、とある方角を指差した。

「ほら、行くんでしょ『補習』。付き合うわよ」



 落ちかけた夕日が校舎を照らしている。

 神和が受ける『補習』とは、先生がでーんと構えて、生徒が教科書やらノートやらと睨めっこしながら勉強するイメージがある補習ではない。

 そもそも『補習』の科目が通常科目ではないのだ。

 それは、この学園及びその姉妹校でのみ取り扱う特殊科目。

 素質や血筋に関係なく誰にでも扱える魔術であり、これまで科学で証明できなかった唯一の超常。

 即ち、召喚魔術。

 だが、召喚魔術の存在は別段秘匿されているわけではない。魔術の使用に必要な手順はインターネットで誰でも閲覧することが出来るのだ。

「一応、召喚魔術について復習しておきましょうか」

 目的はおそらく暇つぶし。儀式場が別棟にある関係でそれなりに歩く必要がある。普通は入学当初に使用してそれっきりであるため、頻繁に訪れることは想定されていないのだ。

「召喚魔術には『力』が流れている土地、召喚の門として機能する魔法陣、召喚獣を喚ぶための詠唱が必要よ。召喚獣は術者に最も縁がある超常的存在……まぁ例として挙げるなら妖怪とか神様が喚ばれるわ」

「で、召喚獣と契約するとその力を自由に行使できる召喚士になれる、と」

「そういうこと。なんだ、ちゃんと分かってるじゃない。復習する必要なかったわね」

 この手法は現時点で最も信用できる条件であり、事実、この手法を確立させたこの学園で失敗した例は聞いたことがない。

「ま、どうやら例外は存在するらしいけど」

「やめろ泣くぞ」

 情けない脅し文句が漏れるのも無理はない。神和は一度も召喚に成功していないのだ。

 因みに、一番初めに召喚魔術を実行したのは中学に上がった時である。詠唱を終えた後に起きた僅かな衝撃波以外何も起こらなかった。監督役の教員と揃ってぽかーんと虚空を見ていたことを今でも覚えている。

 それ以降も『補習』と称して召喚魔術を試しているのだが、発動する気配すらない。これはもう奇跡的な確率で神和の召喚に不具合が起きているか、召喚獣側から『ごめん無理』と拒絶されているかの二択だろう。

「なぁ陽依ぃー。何で俺だけ召喚できないんだと思うー?」

「さぁね。気合が足りないからとか?」

「お前は召喚する時気合入れたのかよ」

「全然」

「ですよね……」

 そう、例に漏れず隣を歩く陽依も立派な召喚士なのだ。召喚獣は天照大神あまてらすおおみかみ。神和は神話にそれほど明るくないのだが、どうやら日本神話のサイコウシンでありコウソシンというヤツらしい。これを初めて聞いた時『なんのこっちゃ』と首を傾げたが、心優しい悪友が『簡単に言うとすごくて偉い神様だ』と教えてくれた。世の中は理不尽で満ちている。

 ……これ以上このことについて考えていたら軽い鬱になりそうだ。別のことを考えることにしよう。

「にしても、今日の雉郷先生の寄り道授業よく分からなかったなぁ」

 大佐の格好からも何となく察せるだろうが、この学園の校則は緩いところが幾つかある。学習範囲を終えていれば余った授業時間で何をしても良いというのもその一つだ。もちろん他のクラスに迷惑をかけないだとか、授業中であるため課題をやってはいけないだとか、そういうルールに則ることが前提の話になるが。

 その中で、教師側が唐突に授業の科目とは関係ない話を始めることがある。無論強制ではない。興味がなければ別に聞かなくても怒られないし、邪魔さえしなければ、居眠りをしたりボードゲームをしたりしても構わないのだ。そんな脱線前提の授業のことを、生徒の間では密かに『寄り道授業』という俗称で呼ばれている。雉郷先生の寄り道授業の分野は概念や思想などを引っ括めた『哲学』であり、過去には『シュレディンガーの猫』や『ラプラスの悪魔』などを説明されたことがあった。今回の議題は確か『万物照応』だったはずだ。

 雉郷先生的には知見を広げて将来に役立ててほしいといった想いがあるのかもしれないが、一高校生である神和にとってはやはり『なんのこっちゃ』である。

 ふと、陽依の方に視線を戻す。

「……何だその意外そうな顔は」

「だっていつも寝てるじゃない」

「流石に昨日の今日で寝られるほど肝は据わってないです」

 不良と大乱闘から雉郷先生の説教までの流れはお約束だ。

 ただでさえ怒りを極限まで抑えて授業をしているというのに、そんな状態の雉郷先生の前で堂々と寝たらどんな目に合うか想像もつかない。ひょっとしたら本気であの雷が脳天に落ちるかもしれない。

 閑話休題それはさておき

「あれ、確かナントカカントカとウンタラホニャララの理論って何か続きがなかったっけ」

「続きっていうか、想像を膨らませたってだけじゃないかしら。あの話し方だと、理論自体は雉郷先生の持論っぽいけどね。あと名称はマクロコスモスとミクロコスモス。横文字が苦手なら大宇宙と小宇宙で覚えなさい。何よナントカカントカとウンタラホニャララって。字面から何も伝わってこないじゃない……」

 万物照応。

 あらゆる事象は他全てと感応し、照応しているとされる理論。

 マクロコスモスとミクロコスモスはそれと類似する思想であり、二つは互いにリンクしているという思想のことを指す……らしい。基本的に大宇宙は世界そのもの、小宇宙は人体を表しているとされ、どんな些細なことであっても、それは世界の何かしらの本性や能力の一端であるといわれている。現在は科学の発展によりその神秘性を失っているものの、錬金術や占星術などにおいては重要視されていた理論だったようだ。

 雉郷先生の持論は、今思い出しても突拍子もない理論だった気がする。



『イメージするのが難しいですか? ではもっと身近なもので例えてみるのです』

 雉郷先生は、くるくるとチョークを回しながら、まるで歌うように続ける。

『貴方たちの中にも一人や二人、空想の世界を作り出したことくらいあるでしょう? あぁ、空想科学SFやハイファンタジーなどを書いている作家さんみたいな話ではないのです。「あの子は自分に気があるかもしれない」とか、「宝くじが当たったらどう使おうかな」とか……その程度で構わないのですよ』

 言い換えるのであればifの世界。今見ている世界を基準に、『もしかしたら』を前提とした仮想の世界。

『私は、それらの世界は確かに存在していると考えているのです。しかし我々は人間で、神話に登場するような神様ではありません。ですからその世界は安定せず、妄想で終わってしまうのです』

 力が足りないとも言い換えられるかもしれない。神ではない自分たちにとって、それは『夢』でしかない。人間の見る夢は、目が覚めた時に消えてしまう。記憶に残らないものも多いし、残ったとしても短期間で忘れてしまうものがほとんどだ。

『───? ?』

 誰もが頭の中で空想世界を思い描くように、自分たちの世界も何者かに定められているかもしれない、ということなのだろう。

 証明なんて出来ない。この理論も雉郷先生の持論であり、やはり『万物照応』の理論から想像を膨らませただけと考えたほうがしっくり来る。

 この仮説を信じろとは言わなかった。本人も信じられないような話であると理解していたのかもしれない。

 だから、その時はこう締めくくったのだ。


『そうやって考え方を変えて、視野を広げることが重要なのです。ただ凝り固まって、一つの見方しか出来ないままでは、いつか足をすくわれますよ』



 ……思い返してみても『なんのこっちゃ』から変わらなかった。

 だいたいそれなら最初から『視野の狭い見方はダメなのです』と言えば良いのに、何で宇宙やらリンクやらの小難しい単語ばかり並べていたのだろう。おかげで頭の中はぐちゃぐちゃである。

「……うーん」

「陽依?」

 腕を組む幼馴染は少し眉をひそめながら、

「それよりもテスト勉強した方が建設的だったんじゃない?」

「……ちょうど自分でもそう思い始めてきたところです」

 話が一段落したからか、もう一つ思い出したことがあった。

「そういえば聞き忘れてたけど、よく俺があそこにいるって分かったな。勘か?」

「まさか。偶々帰り途中で声をかけられてね、多分アンタが助けた子よ。で、その子が教えてくれた場所の周辺を片っ端から調べていったの」

 場所を案内させなかったのは陽依の優しさだろう。不良に絡まれて傷心しているだろうに、もう一度同じ場所に戻れというのは酷である。そのため、神和が気になったのはそこではなく、

「……あそこって相当路地裏あったと思うんだけど」

「そ、だから虱潰し。アンタだって昔、そうやって私のこと見つけてくれたじゃない?」

「確かにそうだけど……っと」

 目的地に到着した。

 まるで豆腐のような石造りの建造物。神和の『補習』教室だ。

 巨大な門が静かに佇み、来訪者が戸を開ける時を待っている。

「やっぱり駄目な気がしてきたよお姉ちゃん」

「取ってつけたように姉呼ばわりしない。気持ち悪いわよ」

 冗談半分で泣きついたら容赦なく一刀両断された。ついでに鞄も奪われた。早く開けろと言っているらしい。

 観念して扉に力を込める。それなりに年季が入っているため、扉は少し重い。体重をかけながら押し開けると、内装が露わとなった。

 私立明星魔導学園の代名詞。召喚魔術の儀式場。

 といっても髑髏どくろや水晶などといった『それらしいもの』が置いてあるわけではない。

 あるのは中央に刻まれた大きな魔法陣。そして、それを囲むように転々と設置してある篝火台だけである。

 篝火台に灯る火は周囲を淡く照らしており、静謐な室内を不気味に演出している。しかし見渡せば目に入る換気用の穴がその雰囲気を見事にぶち壊していた。篝火台に関しても理事長が『雰囲気が出るから』と適当に置いただけであって、特にこれといった意味はない。設備や機材は軒並み特注のくせに肝心の召喚魔術はこの有様だ。何だか色々雑である。

「ほら、ここで見ていてあげるから行ってきなさい」

 頼れるお姉ちゃん(同い年)に背中を押され、諦め半分で陣の前に立つ。

 期待はない。自信もない。半ば惰性で続けていることは否定しない。

 それでも、と思ってしまう。

『もしかしたら』を捨てられない。

 だから。

 静かに目を閉じ、意識を集中させる。


「───五大の素、五行の元。秘匿されし七大神秘、人が束ねし奇跡をここに。これは万象の理を解くもの、個は万物の礎を築くもの」


 唱えるだけで空気が変わり、風もないのに炎が揺れる。

 激しい運動をした後に感じるような血液の流れとも違う、言葉だけでは表現できない何かが、体の中を走り回っているような感覚があった。


「───杯の探索、石の創造、聖なる祈り。終わりなき旅のはて、深淵に潜む獣を見つめよ。首に鎖を、手足に枷を。虚ろなる影はこうべを垂れよ」


 召喚魔術を行使する際に何度も感じた奇妙な感覚。もはや親しみすらある現象であっても、その感覚に慣れることはない。


「───我は天の恵みに叛逆し、迫る災禍に反骨す。其は夢幻の郷にて顕界げんかいのぞむ者。魂の輪より出ずる門、和する現身を標とし、この呼び声に応えたまえ」


 そして、告げる。

 本来であれば詠唱中に悟るはずの、召喚獣の真名も分からないまま。


「汝の名は『4xil4s』。流出せし神威を以て、我が意思を示せ!!」


 直後だった。

 魔法陣が反応し、一陣の風が吹き荒ぶ。

 灯火は消え、舞い上がった塵埃に視界を奪われた。

 ……知らない現象だった。

 召喚獣の名前を告げた時、声にノイズが走り、自分でも何を言っていたのか分からなかった。そもそも人の言葉であったかさえ定かではない。そんな曖昧な状態のまま、視界が晴れるのを待つ。

 顕れた存在を見て、神和は言葉を失った。

 魔法陣の上。『それ』は佇むように浮遊している。

『それ』は人型だった。

『それ』は一三の翼を携えていた。

 白く長い髪と、髪色とは対照的に黒い軍服。クロスされたベルトからは赤い腰布が垂れており、鎧のような強剛なブーツを履いていた。

 その目もまた異質であった。本来白いはずの部分は深淵のように真っ黒で、瞳は炎のように爛々と燃えている。

 顔立ちは一言で美しいと表現できるが、顔だけでなく体のシルエットに至るまで男にも女にも見えた。中性的というわけではなく、男と言われたら男に見え、女と言われたら女に見えるという曖昧な印象を受けるのだ。

 浮いているので正確には分からないが、それでも神和より身長は高い。一九〇程度はあるのではないだろうか。

 神々しさと禍々しさ。その両方が入り混じっており、形容するための表現が浮かんでは消えていく。どんな単語を並べても、どれもしっくりこなかった。

 神ではない。天使の類だとも思えない。

 しかし強引に、そして端的にまとめるとするならば。

(悪魔、なのか……?)

『名を名乗れ、人間』

「ん、えっ!?」

『獣』の声が思考に線を引く。

 機嫌を損ねたかとも思ったが、何故か言葉の節々に感情を感じない。

『名を名乗れと言ったのだ』

「……神和。神和終耶だ」

『……コウナギ……?』

 その時明確に、黒い『悪魔』は眉をひそめた。そしてぐっと、腰を折るようにして顔を寄せる。どうやらこちらの顔を確認しているらしい。一通り神和を観察すると、元の姿勢に戻っていった。

真名まなを示せ』

「真名を示せって言われても……生徒手帳を見せればいいか?」

「かしらね。ほら、アンタの鞄」

 いつの間にか神和の隣に移動していた陽依から自分の学生鞄を受け取ると、その中から生徒手帳を取り出して『召喚獣』に提示する。

『…………成程。下げて構わん』

「何か分かったのか……?」

『貴様が気にすることではない。さて、私の力を欲する謂れを聞こうか』

「えっ」

「えっ」

『ん?』

 神和どころか陽依まで固まった。というのも、ここまでの時点で想定外の連続だったのだ。

 召喚魔術が授業として扱われる以上、基本的な知識は持っている。既に風化した知識の中では、召喚する際の呪文詠唱時に召喚獣の真名をさとり、召喚された召喚獣に術者じぶんの名前を告げて契約が完了。その後、召喚獣は召喚士の中に消えていく、というのが召喚魔術の一連の流れだ。事実、これまで見てきた召喚士もその流れに沿って契約を完了させていた。

 また、召喚獣と会話が成立したという例は聞いたことがない。詳しい理由は不明だが、過去に行われた召喚獣とのコミュニケーションはどれも失敗しているのだろう。そのため、召喚獣は心を持たず、それに伴って感情や意思も存在しないとさえいわれている。

 召喚獣の能力は契約が締結する時に理解するため、意思疎通を必要としない。だからこれまで、意思疎通の意義に関して話題にあがることは少なかった。これは世間的にも、学園の認識にも当てはまる。

 前例のないイレギュラーであった。

「聞くのか? 召喚獣が、そんなことを……?」

『愚問だな。「おのが力で何を為すのか」などという疑念は道理だろう。……それとも、科学と同調現象に囚われた知能ではこの程度の変数も受け入れられないのか?』

「それは……」

『下らん感性だな。私が虚影に倣う義理などないだろうに』

 確かに言う通りではある。理由がいかなるものであれ、神和の召喚獣はそういうものなのだと納得するしかない。今ここで契約しなかったとしても、目の前の悪魔らしき存在以外が召喚に応じるとは限らない。いや、そもそもこれまでの経験から、応じない可能性の方が高いだろう。

 ともなれば、選択肢は一つしかない。

「……分かった、言うよ」

『悪魔』の顔は変わらない。

 地上より少し離れたところから、人間を見下ろし、見定めている。

『───では問おう。何故力を欲する。今ここで、貴様の真我を示すが良い』

 どうせこの先も行動を共にするのだ。いずれ知られることではあるし、隠すようなことでもない。

 だから。

「俺は───」

 邪悪な眼光に立ち向かうように。

 その願いを宣言する。


「俺は、ヒーローになりたいんだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る