最終章 最後に笑うもの

 二月の終わり頃に、紗和はようやくディエゴとオンライン上で会う機会を得た。それは、いつものようにボーパルバニー・エースの面子があまり集まらない、昼頃だった。

「FCの大会に、サワさんのチームメンバーとして参加して欲しい?」

 ボイスチャットを繋ぐなり話を切り出した紗和に、ディエゴは訝しんで言った。

 会話をしながらも、ディエゴはマップに映っている敵の動きをしっかり確認している。

「FCは、最近メインでプレイしているゲームじゃないんですけど」

「でも、ディエゴさん以上に適任がいないのよ。私たちの周りでも色々探したんだけれど」

「うーん……」

 ディエゴは、結局昼から夕方にかけての一時間から二時間、紗和の頼みにどう返答しようかと考え続けた。そして、オンラインでの別れ際になるとようやく「僕は別に構いませんよ」と答えた。

「あら、本当?」

「けど、聞いてみないと分かりませんね。多分大丈夫だとは思うんですけれど」

「聞くって……」

 誰に聞くんだろう? と紗和は思った。

 VBAとして大会に出ることに、誰かの許可が要るのだろうか。

 不思議がっている紗和に、ディエゴはこう言い加えた。

「ああ、僕もチームに所属しているんですよ」

「あ、なるほどね」

「とにかく、近いうちに返事しますよ。ちょっと待っててください」


 *


 クソロンゲの髪はしばらくの間、ドレッドでは無かった。癖っぽいロン毛だったのだが、ドレッドの時は基本的にシャンプーをしないクソロンゲであったから、勿論、彼の家の風呂場には男性用の洗髪剤が無かった。だから、新しくドレッドにセットするまでの間、涼子のシャンプーを使うクソロンゲは、若い女の子のような芳香に包まれることとなり、ネットカフェの店員、常連たちは一層彼を気味悪がった。

 クソロンゲが今までのドレッドとは違う、パイプドレッドというもう少し毛を細く束ねた髪型にセットしたのは、涼子が受験を終えた日……前期試験の発表日だった。

 涼子は志望校に合格したのだ!

 この報せに、VBAの一同はほっこりと喜ばしい気持ちになった。ただ、涼子と年を同じくする高梨だけは、これから自分はどうするんだろうという、漠然とした不安を胸に兆すことになった。

 とにかく、今は夏の大会のことを考えよう。と、高梨は気持ちを新たにする。

 日々の練習試合を重ねる毎に、VBAのチームとしての纏まりはどんどん良くなっている。高梨だって、個人的にプロゲーマーがFrontal Collapseをプレイする動画を研究して、自分のプレイを見直す時間も増えた。メンバーの各々が、大会に向けて気持ちを高めている。

 そこで、高梨は再び足りないメンバーのことを心配しだした。

「ところで、この間バアさんが言ってた足りないメンバーの当ては?」と、高梨が尋ねる。

「声は掛けてみたけど、もう少し返事は待ってって」

「上手いの? その人」と、クソロンゲも興味を持っている様子だ。

「撃ち合いはそんなに強くはないんだけど、敵と味方がどう動くのか分かるんだって。私よりはずっと上手よ」

「ほおん」と、クソロンゲは爪で自分の顎をポリポリ掻く。「ロールは……まあ、どっちに来ても俺が調整すりゃ大丈夫……かな?」

 ロールとは、フロントかサイドか、ということだ。つまり、前線で激しく撃ち合うのが得意なのか、オブジェクトへの接触、または防衛が得意なのかどうかなのだが、これらは微妙に向き不向きがあるのだ。フロントは無論撃ち合いに強くなければならないし、サイドは味方の動きをよく見て制圧に掛かるタイミングを掴まなければならない。また、時によってはサイドがフロントに加勢して制圧に掛かることも注意しなければならない。

「大丈夫だと思うわ。彼、フロントだから。スナイパーよ」

「ま、良い返事が貰えるといいすけどね」

 そこで、ドリンクバーから戻ってきたあすみが会話に加わった。あすみも、途中から話は聞こえていた。

「それにしても、バアさんにオンラインの友達が出来ていたとはね。知らなかったよ」

 あすみは感慨深そうに言って、コーヒーを啜る。

「あら、元はといえばあすみちゃんの知り合いなのよ?」

「……ん?」

「ほら、ディエゴさんよ」

「ディエゴ……」

 あすみは紙コップを持ったまま、唸るように男の名前を言う。

「ディエゴ?」

 そんな奴、いたっけ? と、あすみは首を傾げた。

「え、てか、あすみさんの知り合いってことは、ディエゴさんってプロすか?」

「プロ?」不思議そうに呟いたのは紗和だ。

 プロ……プロゲーマーか!

 なるほど、と紗和は思う。今までずっとディエゴが一体どんな生活をしているのか不思議に思っていたのだ。遅くとも昼の十二時にはオンラインになっているのだが、紗和はディエゴが紗和はディエゴがオフラインになる瞬間を見たことがない。彼がFCをプレイしているときはボイスチャットを一、二時間ほど繋げるが、一日中別のゲームをプレイしていることも珍しくはない。

 だが、ディエゴがプロゲーマーというのなら、そんな生活をしている説明も付く。

「あすみちゃん、そうなの?」と、紗和が高梨の質問をそのままあすみに渡す。

 あすみは困惑したように、「いやいや。私、知らないよ」と答えた。

 ディエゴって、誰なんだ……。


 夜、十時頃に帰宅してからも、あすみは考えている。

 自分の知り合いを名乗る男、ディエゴ。

 風呂が沸いていたので、スマートフォンを浴室に持ち込んで「FC プレイヤー ディエゴ」と検索した。特にそれらしい検索結果は出てこない。

 そもそも、プレイヤー名は数字英字漢字ひらがなカタカナを含むことができるし、さらに入力しようと思えばハングル、キリル文字、記号まで設定可能だ。

 ディエゴ……。

 あすみはスマートフォンを風呂の縁に置いて、天井を見上げる。

 なんて字を書くんだ?

 色々な可能性がある。ディエゴ、でぃえご、DEGO、でぃえ5、……。それから、ふと思いついて、もう一度スマートフォンを開いた。そして、「ディエゴ」とシンプルに検索してみた。ページのトップに表示されたのは、ヨーロッパの人名としての解説をしているネット辞書だ。そこに、「Diego」という綴りがあった。それであすみには全部分かった。

 Diegoか。なるほどなるほど。

 あすみはお湯で何度も顔を濯ぐ。

 紗和にディエゴと名乗った男は、過去あすみと間接的に繋がりがあったプロゲーマーだ。尤も、仲間内では「ディエゴ」ではなく「ダイゴ」と呼ばれていた。

 確かに、Diegoはダイゴともディエゴとも読める。後者はセンスがないけれど。

 彼がFCをプレイしていたとは知らなかったが、……彼がバアさんにマップの見方を指南していたのか。道理である時期から上達が早くなったわけだ。

 なるほどなるほど、としばし感心した後、ようやくあすみは「まずいな」と焦り始めた。

 ダイゴ、もといディエゴはあすみの過去を知っているはずだ。

 あすみは、急いで風呂から上がって自室に戻った。それから、スマートフォンでボイスチャットのアプリを開き、ディエゴのアカウントを検索してメッセージを送っておいた。この時間なら、多分彼はチームの練習試合を行っている時間だ。

 しばらく待った後に、ディエゴから返答が届いた。そして、ディエゴとボイスチャットを繋いだ。

「あすみさん!」と、繋がるなりディエゴが声を上げた。

「久しぶり」

「オンラインから消えたから、一体どうしたのかと心配していた所ですよ」

 あすみは元々ボイスチャットのアカウントを持っていたのだが、現在使用しているアカウントも新しく作成したものだ。また、それまでに使っていたFCのアカウントも同様だから、ディエゴとしてはあすみと接触する手段が殆ど無かったのだ。

 唯一、サブアカウントとして教えられた、現在紗和が使っているアカウントを除けば。

「ま、色々あったからね」

「そうなんですか?」

「……ダイゴは知らないのか。あ、ディエゴだっけ?」

 あすみがそう言うと、ディエゴは恥ずかしそうに笑った。

「ダイゴってのは、中学生の時に付けた僕の本名なんですよ。恥ずかしいんで、最近はディエゴって読んでるんです」

「あ、そう。で、私に何か用あったの?」

「そうそう、僕の知り合いで足りないメンバー探してるとこあったんで、あすみさんどうかなって、思ったんですけど」

「アマ?」

「セミプロってところですかね」

「……セミプロ?」

「チームとしてはプロを名乗ってますけど、まだ本リーグ出場経験は無しって感じで。とはいっても、大分前の話なんで、もうメンバー見つけてるかもしれません」

「あ、そう……」

 そのとき、あすみの自室の扉が叩かれた。

 扉の向こうから母親が、「あすみ、もう寝なさい」と言った。スマートフォンのスピーカーで音声を出力しているから部屋から漏れ出ているのだろう。

「ああ!」と、あすみはぶっきらぼうに答えた。

「なんです?」

 あすみは、スピーカーの音量を少し下げた。

「うちの母さん」

「あ、なるほど」

「ところで、私のこと、バアさんに何か喋った?」

「……バアさん?」

「あんたがいつも一緒にプレイしてる、うちのクランメンバーよ」

「え、サワさん? バアさん?」

 ディエゴの中では、あのサワという名のプレイヤーとバアさんというワードが結びつかないらしい。

 確かに声だけでは、意外と年齢って分からないものだ。

 あすみはオンライン上で他人のことをあれこれ喋るのはマナー違反だとは知りながら、紗和が自分のバイト先の同僚であること、結構高齢で、多分六十くらいのおばあちゃんであることを説明した。

「すげーなー……」と、ディエゴはしきりに感心しだした。

 この調子だと、案外彼らの間には日常会話は無かったのかも知れない。

「で、私のこと話したの? って」

 すると、ディエゴは顔は見えないが、まるで頭を振るように「言ゃしませんよ、そんなこと。こっちはあすみさんとサワさんの関係だって知らないんですから」

 あすみはほっとした。

「そう。じゃあ、これからも私に関して変なこと言わないでよ」

「ええ、はあ……。それは、別に構いませんけど」


 *

 

 結局、ディエゴはチームの了承も得ることが出来て、晴れてVBAの一員として大会に参加することになった。ただし、メインで活動しているMOBAというジャンルのゲームの練習時間を圧迫しない程度に、という条件が付いた。ディエゴが所属するチームの主な練習時間は二十一時から深夜二時までであるから、FCに割く時間も十分にありそうだ。だが、その間練習を熟せるかどうかは、ディエゴ自身の裁量に掛かっていると言える。

 持続的な集中力に掛けてはメンバーの中でもディエゴは抜きん出ているようだ。

 VBAの面子がディエゴと初めてボイスチャットを繋げて試合したのは、それから三日が経つ頃だった。

「ディエゴさんって、ロールどっち?」

 クソロンゲが尋ねると、

「僕は、まあどっちでも行けますよ。EUですよね?」

 ディエゴがEUと言ったのは、メンバーの配置のことを言う。FCでは最もオーソドックスなスタイルであり、三人が纏まり、残りの二人はそれぞれバラバラにオブジェクトにアプローチする戦術だ。元々ヨーロッパで考え出されたというそのスタイルは、今では世界共通のスタンダードとなっている。

 スタンダードと言っても、五対五の勝負における戦術であるから、紗和たちは特にEUスタイルを採用すると決めているわけではない。EUスタイルに対してのカウンターとなるオールイン(チーム全員がまとまって動く)という戦法も存在するが、敵の動きを注意深く観察することで敵の配備を予想することは可能だ。

 だが、特に異論もなくVBAも世界の標準に則ることに決まった。そもそも他人とチームを組むランクマッチでは殆どそのスタイルであるから慣れもある。

 結局マップへの配備はサイドに二人、フロントに三人で決まった。フロントはあすみ、高梨、ディエゴでオブジェクトへ向かう最も広いルートの何れかを進む。サイドは紗和とクソロンゲだが、迂回するルートでオブジェクト、または敵のフロントを味方と挟み撃ちするために動く。

 実際にディエゴを含めたチームで何試合か練習試合を行ったところ、元来寡黙なディエゴはすぐにチームに馴染むことができた。馴染むというよりは、存在感が無い。

「ディエゴさん、私と試合するときはもっとチームに指示出していなかった?」と、紗和が訝しんで尋ねた。

「だって、このチームの指令役は紗和さんなんですよね?」と、当然のように言う。

 確かに、紗和はそんな役回りが多かった。サイドに回る彼女は敵と接触する可能性が低い分、マップを注視することができるからだ。

「確かに、うちのバアさんはうちの司令塔じゃんね」と、クソロンゲも同意する。

 あすみも否定しない。

 高梨は「責任重大じゃないすか」と、面白がって言った。

 また、五対五の試合を繰り返すうちにVBAのチームとしての弱点も見えてきた。

 これまでクソロンゲと行動を共にしていた紗和は、撃ち合いの弱さが如実にスコアに出た。ダウンしてしまった場合、画面が味方の一人称に切り替わるためマップを分析することができない。その場合、フロントで撃ち合うディエゴが指揮を執るが、紗和がダウンするときディエゴもダウンしている状況は珍しくなかった。

 クソロンゲは敵とばったり出会ったときに、中近距離であるにも関わらず「不埒者!」と唾を飛ばしてナイフを取り出すのが悪い癖だった。

 高梨は撃ち合いの激しいフロントで、悪い意味で存在感が無かった。用いる武器に拘りは無いが、どの武器種でも習熟度は並といったところで、特に投擲物の精度が悪かった。

 ディエゴは、普段のようにスナイパーライフルを愛用するプレイヤーだったが、あすみと高梨の二人に出遅れる場面がちらほらあった。前線での味方との連携にはもう少し上達の余地があるようだ。

 あすみは、単純に口が悪い。

 口が悪いと言えばそれまでだが、これが中々たちが悪いのだ。彼女の針で刺すような苦言の矛先は、主にフロントを張る二人……高梨とディエゴなのだが、特に高梨が萎縮して保守的なプレイをしてしまうのだ。しかも、苦言が大抵真実を含んでいるから余計たちが悪い。

 あすみのこういった性質は、中々抜け出すことの出来ない連敗が続くほど激しくなった。今まで四対四の試合をしていたときはそんなことなかったのだが、五対五の練習試合をするようになってから、明らかに敵のレベルが上がっているのだ。考えてみれば当然のことだが、クランに五人揃えているチームは、どこもかしこも上昇志向の強いチームなのだった。


 *


 各々が各々の抱える課題に取り組む中、三月末日が訪れたのだった。

 高校三年生の卒業式があった。

 その夜、クソロンゲは珍しく自宅のリビングで一人、静かに酒を飲んでいた。近くの酒屋で買った高いウイスキーだ。

 クソロンゲが一人で普段酒を飲むときは映画を見ながらであったり、音楽を聴きながらであったりだったが、この日ばかりは違っていた。ダイニングテーブルの上にはウイスキーのボトルとロックグラスの他には何も置いていない。彼は、しんみりと涼子との思い出に浸っていた。

 そのうち、クソロンゲはそろそろと廊下を歩いて、音が鳴らないように涼子の自室の扉を開いた。涼子はとっくに眠りについていて、部屋は真っ暗だった。開いた扉から入る廊下の明かりだけがクソロンゲの足下を照らしている。涼子は布団にくるまっていて寝顔が見えなかった。

 涼子は本当によく頑張った。

 クソロンゲは改めて思う。もうすぐ、涼子はこの家を出て行くのだ。そう思うと、無性に寂しい気分になる。

 クソロンゲが部屋を出るとき、「お父さん」とくるまった布団から声が聞こえてきた。

「大会、頑張ってね」

「おう」

 それで、クソロンゲは静かに扉を閉めた。


 実はその日、通信制高校に通っていた高梨もひっそりと卒業式に参加していたのだった。たまのスクーリングの日によく見る顔ぶれとは特に親しくもなかったが、高梨はつい出席している顔ぶれの中に彼らを探すのだった。そして、彼らの殆どは卒業式に出席してはいなかった。通信制に通う生徒たちは三年で卒業する人間だけではない。

 私服で参加していた高梨はその足でネットカフェに向かった。彼はとにかく撃ち合いたい気分だった。清々しさと、不安な気持ちがない交ぜになった気分だ。

 その日ブースに顔を出していたのは、VBAの中ではあすみだけだった。オンラインにはディエゴがいた。あすみは既にディエゴと一般チャンネルでフロントの連携を練習しているところだったので、高梨も次の試合から彼女たちに混じった。何故か、あすみは物腰が柔らかかった。その代わり、プレイの方は何となく腑抜けているように高梨は感じた。

 試合の合間にあすみは、

「私、いっつも口悪いでしょ」と話を始めた。

「ま、上品とは言えませんね」とディエゴが茶化して言う。「ゲーマーは口が悪い人が多いもんですからね」

「ま、それはありますよね」と、高梨もあすみが自ら述べたことを否定しない。

「自分でも、いけない、いけないって分かってんだけど」

 そう呟いて、あすみは背もたれにぐいっと凭れる。そして、

「高梨」と、スクリーンの向こうに声を掛ける。

「はい」

 高梨は身構えた。

「悪いけど、馴れて」

「……」

「ははは、流石あすみさんだなあ」と、この場にいないディエゴが暢気に感想を述べた。

「ああ、それと」と、あすみは付け加える。

 高梨はまた身構えた。

「卒業、おめでと」

 高梨は、その瞬間、進学校を辞めた直後の頃や、不安で一杯だった初めてのスクーリングの日、うさみみを探していたあの日々、なんとなく勉強はしっかり熟した今までの高校生活のことを、急にもう過ぎ去ったものなのだという認識を持った。

 本当は今日、誰かにこの言葉を言われるんじゃないかと思っていた。

 高梨だって、それなりに苦労はしたのだ。勿論、そんなことは彼自身にしか知る由のないことだ。

 それから、高梨はますます気合いを入れて試合に励んだ。


 フロントの三人がなんとなく結束を高め、同じくサイドのクソロンゲが大会への思いを新たにしている中で、紗和は焦燥感に駆られていた。指揮役という大役に加えて、彼女には撃ち合いの弱さという弱点を克服できないままでいた。チーム全体としての練習試合に割く時間が増える中で、紗和は個人的な特訓も一日の中に取り入れるようになった。動画配信サイトで、「エイム 上手くなる」と検索して出てきた特訓方法を実践し、上手い人のプレイ動画を参考にして撃ち合いの勘を養おうとしたり、一人の時はフロントに回って積極的に撃ち合うまでした。

 四月の半ばからは、紗和がブースに居る時間は殊に増えた。こうなると、ネットカフェの料金も馬鹿にならないが、彼女はバイトで稼いだ給料を殆どそれに充てた。働いていた頃から割にコツコツと貯金する方であったから、生活費などの心配は無い。

 店員の中には、連日画面の前に居座る紗和を心配する者もあった。それに、紗和は眼鏡を掛けるようになった。元々、年の割には視力の良い彼女だが、最近の集中的な特訓により目が一気に悪くなった。

 それに、撃ち合いの練習ばかりにかまけているわけでも無かった。五対五の戦場は一秒一秒、殆ど千差万別に変化している。戦場となるマップも複数あるから、要所となる地形や、位置の取り方まで研究しなければならなかった。特に強力なのは味方のフロントとサイドが適当なタイミングで結託し、敵を挟み撃ちにする「クロスファイア」という戦法だ。この場合、裏取りに回るサイドは一人でも二人でも良いが、最も重要なのがフロントがプッシュするタイミングを正確に見極めて指揮役の紗和が指示を出すこと。成功すれば敵を一網打尽にすることが出来るが、失敗すれば逆に手痛い損失を負うことになる。

 以前、「責任重大じゃないすか」と高梨は笑っていたが、本当にそうなのだ。

 責任重大だ。


 ただ、紗和は気付かなかったが、彼女は指揮役として最も重要な職務の一つを放棄していた。

 それは、チームの粗を指摘すること。

 紗和は、それが自分の役目だとは思いもしなかった。だがあすみが、彼女自身もまた意識はしていなかったが、その役割を補完していた。


 *


 六月に入る頃だった。

 この頃は練習試合の相手は、ディエゴかクソロンゲが連絡を付けて選んでいた。連絡手段は、普段から使っているボイスチャットのアプリで練習試合の募集を取りまとめているチャンネルに参加し、頃合いになれば全体チャットに試合を希望している旨のメッセージを流す。すると、そのチャンネルに参加している種々様々なクランの連絡役がそれに応えるというわけだ。その他にも、ディエゴとクソロンゲの個人的な繋がりで練習試合を組むこともあった。

 その日は、いつものように練習試合を五時頃から夜九時まで掛けて行う予定で、シフトを同じくしたあすみと紗和が、早めにブースに入っていた。

 あすみは、席を一つ空けて座っている紗和の変わり様に驚いていた。ここのところの紗和は、明らかに撃ち合いが強くなってきている。サイドで撃ち合いが発生するとき、大抵は一対一の勝負にもつれこむのだが、紗和はしぶとく生き残るようになっていた。相手を撃ち殺すときもあれば、勝てないと悟って引き返し、クソロンゲと合流するときもある。少なくとも、勝敗の判断ができるだけ大きな前進と言える。

 だが、あすみが驚いたのは彼女のプレイだけではない。

 ……なんか、老けたかな? と、日頃ファミレスで顔を合わせるあすみでさえ思うのだ。

 紗和は上達する分だけ老化が進んでいくようだった。前よりも目が落ち窪んでいるように見えるし、白髪も増えている気がするのだ。しかし、当の紗和にはそんなことは全然気が付かないでいるようだった。自分は今日も元気だ、と思っている。

 確かに、最近のVBAの勝率は上がってきているけれど……。

 バイト先やブースでそんな紗和の様子を見ていると、あすみも正直安堵した。今、このバアさんがリタイアすると大会で勝つことなど夢のまた夢だ。

 やっぱり、このバアさんはタフなんだ。とあすみは思っていた。

 紗和が、店内の中央にあるドリンクバーに向かって歩いて行った。あすみはそのとき、自分が苦手としているマップ全体の見方を考察する記事を読んでいて、肩がこり始めた所だった。あすみは昔から文章を読むのが苦手なのだ。

 首をぐりぐり回しながら、なんとなくドリンクバーに向かう紗和を眺めていると、遠目からは「こてん」と擬音が付くような倒れ方をした。

 あ、バアさんが転んだ。と、あすみは思った。そのときはあまり深刻には考えていなかった。

 だが、実際は倒れたのだった。

 紗和は急にめまいがして、そのまま足がもつれてすっ転んだのだ。

 紗和自信も、大したことはないと思ってすぐに立ち上がった。それで、そのままドリンクバーで紙コップに氷とカルピスを入れて、席に戻ってきた。

「さて、と」と、紗和はFCのログイン画面を開く。

 あすみが目を丸くして紗和を見ていた。口は中途半端に開いている。

「さて、と。じゃないよ!」

 紗和は、先ほどの転倒で額から血を流していた。受け身を取れなかった紗和は、地面に頭を打ち付けてしまったのだ。

 結局、すぐに止血はしたもののその日の練習試合は取りやめとなった。紗和はしきりに「私、大丈夫なのに」と文句を垂れたが、後からブースに来た他の面子の判断も一致していた。人一倍勝ちに拘るあすみでさえ、紗和の体を気遣った。オンラインでこちらの状況が分からないディエゴも、「我々も少し休んだほうが良いかもしれませんね。チームとしての動きは、仕上がってきてますし」とフォローした。

 思えば、最近のVBAの面子は殆どがゲーム漬けだったのだ。そんな生活に慣れているディエゴは別として、他メンバーも疲れを見せ始めている所だった。

 予選は一ヶ月後に迫っている。

その日から、紗和はしばらくブースに顔を見せなかった。

 

 *

 

 あすみは、厨房の中央の壁に張り付けられているカレンダーを捲って見た。そこには、アルバイトたちがシフトを入れるのを避けて欲しい日が、各々の名前の記入によって記されている。紗和の名前は無い。

 あすみはこの一週間、紗和とはファミレスでもブースでも顔を合わせていない。月の初めに店長から配られたシフト表には、今日も紗和のシフトが入っているようなのだが、彼女の姿は無い。代わりに、近所の丸々とした体型の主婦が入っている。

 あすみは流石に不審に思った。

 もしかして、打ち所が悪かったんじゃ……。

 考え始めると、わけもなく心臓がドキドキ鳴り始めるのだ。この日、あすみはとうとう紗和の行方を調べることにした。

 取り敢えず、唯一とも言える当ては店長だ。店長ならば、紗和がシフトから外れている理由は本人から聞いているだろう。

 さっそくあすみは、厨房の通路奥にある従業員の休憩スペースでパソコンのキーボードを叩いている店長に、

「店長、バアさんどしたの?」と尋ねた。

 店長はブラインドタッチが出来ないらしく、画面とキーボードとを忙しなく見比べつつも、「バアさんって、伊藤さん?」と言う。

「そう、伊藤さん」

 紗和は、伊藤紗和だ。

「伊藤さんね、この間倒れて入院してるんだってさ」と、こともなげに言う。

 あすみは、何か変な聞き違いをしたのかと一瞬思った。だが、店長の滑舌は良いのだ。「倒れた、って……」と、繰り返すように言って、それから言葉を繋げられなかった。

 あのタフなバアさんが倒れた。

「あの、歩道橋あるじゃない。あそこで倒れてるのを通りかかった人が見つけたんだって」と、店長が補足する。「本人は過労ではないっちゅんだけど、まあ、あの人も年だからねえ」

「入院って、悪いんですか?」

「いや、そんな深刻なもんでもないらしいんだけど、……俺も詳しくは聞いてないんだ。まさか、過労ってことはないだろうけど」と、店長はあくまで自分の潔白を主張するように「過労ではない」ということを主張する。

 確かに、このバイト自体はそう大変なものでも無いはずだ。紗和のシフトは、多くて週に四日だ。紗和に仕事を押しつけて虐めているような雰囲気も皆無だ。

 あすみは、店長から紗和の入院先を聞き出してから、皿洗いの仕事に戻った。

 あのタフなバアさんが倒れた。

 バイトによる疲れではない、ということは……。

 あのタフなバアさんが、ゲームをしすぎて倒れた。

 全く、程度ってもんがあるでしょ。と、あすみは内心で紗和を責める。

 ゲームのやりすぎで倒れるって、ないわ。

 そのとき、あすみはうっかりライスを盛る平べったい皿を一枚床に落として割った。厨房に居たバイトや調理師たちの視線を感じたあすみは「失礼!」と言って、割れた皿を拾うとした。皿の破片は思ったよりも鋭利な割れ方をしていて、あすみは親指を切ってしまった。

「ちっ」

 親指の腹から、赤い血が流れた。

 その日の仕事は手に付かなかった。


 *


 あすみは入院している人間のお見舞いなど初めてだったから、見舞いの品などは何が適切なのか見当も付かなかった。多分過労のせいだろうから、そんなに長引きはしないだろうと見当は付けていたが、そうなると余計何を持って行けばいいのか分からない。

 母親に相談したところ、食べるのに手間の要らないフルーツなどが良いだろうというアドバイスを貰った。あすみも、なるほどと思った。

 その会話の流れで、「あすみ、バイトの同僚のお見舞いに行くなんて珍しいことするじゃないの」と母親が言う。

「いや、バアさんにはいつも世話になっているというか、世話しているというか……」

 母親が不審そうな顔つきをする。

「ほら、今度のゲームの大会で出るメンバーでもあるから」と弁解するようにあすみは補足した。

「メンバーって、その同僚さんが? ゲームの?」

「そう」

 母親は何かを思案するような顔つきになる。あすみは、母親のこういう顔を家では滅多に見ることがない。


 紗和の入院している病院は、ネットカフェやファミレスなどがある方面とは駅を挟んで裏側にあった。病院の向かいには、以前クソロンゲ宅に陣中見舞いで尋ねたときに買い物した大型ショッピングセンターがある。車通りも多く、賑やかな通り沿いにある。病室は、四人部屋で、入り口側の二つのベッドは空いていて、紗和は窓際のベッドの一つを割り当てられていた。向かいでは恍惚としているような老人が、飽きもせずに窓の向こうの景色を見ているのだった。しかし、先程子供か孫と思われるような年齢の女性が見舞いに来ていたときは、打って変わって元気そうに、ニコニコしていたから呆けているわけではないようだ。それで、見舞客が帰った後は、ひっそりと感情の無い顔に戻って窓の外を見ている。

老いるってこういうことなのか、と紗和は思った。

 今日で三日目の入院日になる。昼頃に妹が様子を見に来ると言っていた。五日程度で検査するための入院だから見舞いは要らないというのだが、妹は聞かない。

 それにしても、暇だ。そういえば、妹が気を利かせてなんだかパズルの載っている雑誌を買ってきたのだが、いまいち集中できない。いつの間にかパズルから意識が飛んで、FCのマップを辿っているのだ。どういうルートが最短か、最も安全か……撃ち合いに負けないか……クロスファイアに繋がる導線……オブジェクトにアプローチする刹那……そんな思考を追っているうちに、紗和も傍目には呆けたような表情で天井を見上げている。

 そのとき、病室の扉が開いて、杖を突いた老人が入ってきた。向かいの患者の見舞客かな、と思っていたら、杖を突いた老人は何故か真っ直ぐ紗和のベッドの横へやってきた。

 髪の毛は殆どが白髪で、前髪は眉の辺りで綺麗に切りそろえられている。後ろの方は首の付け根で切りそろえられている。丁度、市松人形の髪を白くして長い髪を切りそろえたような感じだ。

「伊藤さん?」と、老人が言う。

 紗和は曖昧に頷いた。見た目では自分より老いている気がしていたのに、声を聞いたら何故か自分と丁度同じくらいの年齢に思えた。

「あの、病室の前の名札を見て、もしかしてって思ったんだけど」

 そう言って、自分と同じくらいの年齢の老女が笑う。紗和には何が何だか分からないが、彼女にとっては紗和の名前が愉快らしい。

 紗和の不審そうな目に気が付いた老女はかしこまって、

「あすみが、いつもお世話になっているそうで」と大義そうに頭を下げた。

 実際大義なのだろう。彼女の足が悪いのは見て分かる。

 紗和は慌てて「あ、どうぞお座りになってください」と椅子を勧めた。「あすみちゃんの……?」

 あすみちゃんの、なにかしら?

 確か、以前聞いた話ではあすみちゃんの年齢は二十前半とかなんとか。

「あすみの、母です」老女はまた大義そうに椅子に座った。「高齢出産で、ね」

 まあ、ある話か……と紗和は思った。妊娠を経験したことが無い紗和には、高齢出産の大変さがいまいちピンとこない。

「こちらこそ、いつもあすみちゃんにはお世話になっています。私は……」と、紗和はそこで詰まった。

 私とあすみちゃんの関係を、何と説明したものか。単なるバイト仲間ではないし、クランメンバーであると説明してもピンと来ないだろう。だが、あすみの母親が、

「うちのあすみとは、ゲームでは戦友と伺いました」とフォローした。

 戦友か。そう言うと少し格好が付きすぎるが、まあそんなものだろう。

「あいにく、私はあの手のものがさっぱり分からなくてね」

 紗和は頷く。

「あの子が随分熱を上げているとは知っていたんだけど。まさか私みたいな年の人もやっているとは知らなかった」

 紗和は頷く。頷いた切り、会話が少しの間途切れた。紗和はあすみの母親の顔を見ながら、どことなく見覚えのある顔だと思っている。しかし、随分記憶を掘り起こしても答えが出てこない。かなり昔の出来事かも知れない。

「ねえ、伊藤さん」と、あすみの母親が座りながら杖を突いて紗和に顔を近づける。「勝負師の世界で、最後に笑うものが誰か。あなたには分かっている?」

 紗和は、そのとき自分を見つめていた鋭い眼を見て「あっ」と思った。外見とは想像も付かない、若い熱さのある目付きだ。

 こんなことが、あるのか。

「答えはね……勝利者でもなく、敗北者でもなく、最後まで挑んだもの……そんな人たちが、最後の最後にだけ笑うことが許されている」

 あすみの母親はそう言い切って、大義そうにしっかり杖を突いて立ち上がった。それから「やれやれ」とでも言うように内反足の左足を手で擦った。

「私もね。まだまだ。これから」

 それから、左肩を上下させる歩き方で病室を出て行った。

 紗和は病室の窓から雨の降る駅前の通りを見ていた。普段、あの辺りを通ることは無いが、何故だか懐かしいような気持ちだった。シャッターばかりの商店街、廃れた布団屋があった所にはコンビニが立っている。


 *


 あすみが紗和の病室を訪れようとしたとき、病室には既に先客が居たらしく、半開きになった病室のスライド扉からボソボソくぐもって聞こえていた。

 先客かな?

 こっそり覗くと、ベッドに横たわっているババアとババアそっくりのババアが喋っている。そして、ババアそっくりのババアの横に、二十代半ばから後半くらいのスーツを着た男が座っている。

 ババアは勿論バアさんだ。ババアそっくりのババアは……多分、妹さんだろう。隣に座ってるのは甥か。

 あすみは時間を改めようとドアの前で反転したところで、

「ゲームなんか、辞めなさいよ!」という大声が筒抜けになって聞こえてきたので、あすみは驚いた。そして、なんとなくそれからの彼女達の会話を、病室入り口の側で盗み聞いてしまった。

 声を荒らげる紗和の妹は、それから声を潜めてしまったから、聞き取れたのは断片的な内容だった……検査入院……過労……血管が……。

 紗和の声は、割とはっきり聞こえる……梨が食べたい……パズルがつまらない……私は元気!……。

 ……病人……動脈硬化!……検査……。

 間に入って、取りなすような男の声も聞こえる……まあまあ母さん……老後の趣味……。

 ……黙りなさい!……。

 それきり男は黙ったようだ。

 ……駅前の景色……半世紀!……。

 ……動脈硬化!……脳卒中!……。

 ……私は元気!……。

 ……動脈硬化!……。

 ……私は元気!……。

「お姉ちゃん、過労死する寸前だったのよ!?」と、これはまた大声で響いてきた。


 あすみは、以前の年末年始に紗和もシフトを増やせと店長に抗議したことを思い出していた。「過労死しちゃうから」と、そのとき店長は言った。

 過労死。

 紗和の妹の必死な説得を盗み聞きしているうちに、あすみは「過労死」というものの正体が掴めてきた。

 過労死とは、死因なのだ。

 ……当たり前だ。三文字目が「死」なんだから、過労死が発生すると人は死ぬのだ。

 そして、「過労死」は「過労死」ではないのだ。「過労死」とは、度重なる心身へのストレスにより引き起こされる動脈硬化、心神喪失、抑鬱、それらが導く、脳梗塞、心臓麻痺、自殺……。

 あすみにとって、「脳梗塞」や「心臓麻痺」というワードは、「過労死」よりももっと身近に感じられる死だった。

 バアさんは、タフだ。

 ……タフだから、無茶をする。自分ではそれが無茶だと分からない。

 その結果、入院しているのだ。


 *


 紗和が「もう疲れた」と病人のようなことを言って妹と賢治を帰らせたあと、本当に紗和は「もう疲れた」という気分だった。

 そもそもこの入院というのも、救急車で運ばれた紗和に動脈硬化の疑いがある、という医者の言うことを信じた妹が、半ば無理矢理に検査入院させたものなのだ。それは紗和が抱えているリスクを計量するための、医者が勧めたことだった。

 やれやれ、と紗和は思う。

 そのとき、また見舞客がやってきた。

 何か見舞いの品を持っているあすみが静かにスライド扉を閉めて、とぼとぼ紗和の近くに歩いて来た。

「あすみちゃん」と、紗和は顔をほころばせる。

 あすみが来て、紗和はとても嬉しかった。

 あすみはベッドの横の宅に見舞いのフルーツを置いて、自分は椅子に座った。

「バアさん……」

 ベッドで半身を起こしている紗和は、なんだかいつもよりもずっと老けて見えた。

「今朝、あすみちゃんのお母さんと少し話したのよ」と、嬉しそうに言う。

「母さんが?……ああ、そう」

 そういえば、この間母親に見舞いの品を相談したとき、紗和の入院先を尋ねられた。

 そうか、あの外出が嫌いな母さんが……。

 ……そんなことはどうでもいい。

「バアさんさ、もうあんまり無茶してネットカフェ来ない方が良いよ」

 紗和はガッカリした。

「なによ、あすみちゃんまでそんなこと言うの?」

「だって、動脈硬化って……」

「あら、聞いてたの?」

「……脳卒中、って……」と、あすみは俯いてしまう。

 バアさんが脳卒中になったら、バアさんが死ぬかもしれない。それは、全く可能性が低いわけではない、現実味のある未来だ。

 もしそうなったら、悲しい。と、あすみは純粋に思った。

「あすみちゃん、私は大丈夫。元気だから」と、何故か紗和が元気付けるように言う。

 あすみは顔を上げて、

「バアさんさ、……いい加減、現実見た方が良いんじゃないの」

「現実?」

「このままFCの練習を続けたら、バアさんは死ぬかもしれない」

 そして、あすみはまた俯く。

「そんな現実なら、私はとっくに直視してるのよ。あすみちゃん」

 あすみは顔を上げて、「え?」という顔をした。

「あすみちゃん。私はね、大会で勝つためなら死んだって良いという気分なのよ」

 紗和は、全く平然としている。いつもの、無闇に人の良さそうな笑顔でそう言うのだ。

 あすみは背筋に寒気が走った。紗和が、冗談でも何でもなく、本当に、本気で勝つためならば死んでもいいと思っていると、肌で感じたのだ。

「死ぬかもしれないのよ!?」

「わかってるわよお」

「ゲームやりすぎて死ぬって、そんなことないわよ!」

「ゲームだって、真剣勝負には変わらないわ」

「変わるよ!……」あすみは、一つ息を飲み込んだ。それから、

「所詮、フィクションよ!」と言った。

 その瞬間、何の前触れもなくあすみの瞳の奥が燃えるように熱くなった。眼球の奥から次々と熱いものが流れ出して、止めようがなかった。それから、自分は泣いているのだと気が付いたあすみは耳まで赤くなった。

「でも、あすみちゃんは元プロなんだから、フィクションだって、ただのフィクションじゃないってことを知っているんじゃないの?」

 あすみは何も答えない。

「VBAにはあすみちゃんがいるんだから。それにディエゴさんだっているんだから、きっと勝ち抜けると思うわ」と、紗和は俯いて泣いているらしいあすみに優しい声で言う。

「……違うよ……」

 俯いたままのあすみが呟いた。

「何が違うの?」

「私は、元プロなんかじゃ、ない……」と、嗚咽の合間に言葉を繋ぐ。

 紗和は、あすみが発している言葉の意味がよく分からなかった。

「私、ただの、……」それから、歯の間から勢いよく息を吸って、

「ただの、代行業者だもの」と言い切った。

 それから、あすみは黙って俯いたまま、とぼとぼ病室を出て行った。

 

 所詮、フィクションか。

 取り残された紗和は、ぼんやりと思う。向かいの老人は、今の会話が全く聞こえなかったかのように恍惚と窓の外を見ている。紗和も、なんとなく窓の外を眺めた。

 その言葉は、あすみちゃんにだけは言って欲しくなかった。と、心の底から思った。


 *


 病室を飛び出した後、あすみは一人でネットカフェ近くの橋を渡っている。

 欄干に手を掛けて、一人、川辺を眺めた。

 いつからだ? とあすみは自問する。

 いつから、こんなにゲームの勝利に執着するようになっていたんだ……所詮はフィクションだろ?……始まりは……。

 中高の頃からゲームは好きだった。母親に影響されて、幼い頃は囲碁もやったが、あすみにはどうも才能が無かったようだった。そして、あすみは代わりにゲームをするようになったのだ。フィクションだとは分かっていても、勝ちに拘って少ない友人は自分の前から去った。

 始まりは、あすみが東京の私立大学に通っていたとき。通っていたのは、なんとか一年間勉強に集中して入学することのできた、千代田区にある割と全国に名の通っている大学だ。あすみは涼子のような進学校には通っていなかったから、これは中々躍進だった。だが、一年次の単位を無事取得して次の年、あすみはネットカフェで佐久間という女と知り合ったのだった。

 そうだ……佐久間……。

 あの女に出会って、代行業者という人種を知った……佐久間も代行業者だった……。

 それに、佐久間は一流と言って足らないくらいのゲーマーだった。彼女が何かしらのゲームのプロを名乗っていないのが、あすみには不思議なくらいだった。自分よりも若く見える佐久間の年齢は分からないが、過去に就業を経験していたということを何かの折に聞いた。だが、彼女の素性に関することはそれくらいしか知らない。もしかしたら、佐久間という名前も偽名かもしれない。

 あすみは撃ち合いの腕を見込まれて佐久間に誘われたのだった。それに、あすみも代行というものに興味があった。そのときは、それが禁止されていることだとは思いもしなかった。当時は、まだFCは開発もされていなかったから、何か他のFPSだった。あすみはタイトルを覚えていない。とにかく、五対五がスタンダードのオーソドックスなFPSだ。

 あすみの初めての代行業は、佐久間と共に一日もランクマッチをプレイすれば簡単に達成できる程度のものだった。

 あっけない、とすら思うものだった。

 しかし、後日になって実際に佐久間から報酬を貰ったとき、あすみは予想していたよりずっと嬉しかった。報酬と言っても、大した金では無かったが、ゲームの腕で金を稼ぐ、ということが快感だった。

 佐久間と名乗る女は、一年後にあすみの生活圏から消失した。理由は全く聞かされなかったが、それからもあすみは佐久間から学んだ代行のノウハウを受け継いで、大学在学中は一心に代行業務を続けた。あすみには代行を依頼する心理は理解出来なかったが、SNSで依頼を募集している限り、需要は続いた。

 自宅のインターネットから業務を行うのは、極力避ける。過去に代行が発覚したときに、自宅の回線からゲームのサーバーに全く繋げなくなったことがあると、佐久間に聞いた。そのため、あすみはそのころからネットカフェに通っていた。

 そのうち、大学の単位を全く取れない時期があって、あすみは何故大学に入ったのか分からなくなって辞めた。母親にはインターネット関係の仕事をしていると言って、家にはそこそこ金を入れていた。


 大学を辞めたあとのあすみは、代行業の効率化を図る為に、フラフラとオンラインで業務の相棒となる実力者を探した。結局、FCの他、複数のタイトルで代行業務を行っていたチームにあすみが加わる形になった。リーダーを務めていたのは「Anci」というハンドルネームの男で、仲間内ではアンシーと呼ばれていた。アンシーは身内意識の強い男だったが、あすみが利益を享受する分には何の問題も無かった。

 しかし、あすみが現在のバイト先で勤め始める、数ヶ月前のこと。

 シーズンの変わり目でもあったFCでは大型アップデートがあった。武器種の増加に加えて、マップの追加、新たなゲームモード「コンクエスト」のローンチ……さらに、細かなシステムアップデート。その「細かなシステムアップデート」の中に、代行業者を締め出すものがあったのだった。

 あすみも、そのシステムのことについて詳細なことは知らない。とある大手ゲーム専門ニュースサイトの記事では、個々人のKDAやキーボード入力の癖などをディープラーニングで分析しているらしい。とにかく、このシステムの導入によって、FCでの代行業は殆ど出来なくなってしまった。

 チーム内でFCの受け持ちだったあすみは、勿論他のタイトルに手を伸ばそうとしたのだが、アンシーがそれを咎めた。お互いの領分を侵犯することは、チームの規範に反するというのだ。

 そうなると、チームでのあすみの役割が無くなる。

 あすみは食い下がったが、最終的にはアンシーと勝負をして、あすみが勝てばアンシーの受け持つタイトルをあすみのものにするという約束を付けた。

 一対一のデモリッションだ。しかし、あすみはアンシーに完敗を喫したのだった。

 それからチームを出て行ったあすみの稼ぎは目に見えて減った。ほんの数年の間に、代行業を取り巻く環境は大きく変わっていて、需要はアンシーのチームのような大手に流れるようになっていた。依頼者、というよりはインターネットの住人たちは保守的になっていたのだ。

 

 代行の稼ぎが悪くなってバイトに勤め始めた頃、気の食わないフリーターの男に「フリーターか?」と聞かれたことを、あすみは思い出す。

 あすみは、フリーターだ。大学中退以来、働いたことはない。

 ……あの時は、見栄を張った……まさか、バイト先のバアさんとクランを組むことになるなんて思わなかった……。

 尤も、そのときのあすみは嘘を吐いていたわけでは無い。「ゲームで金を稼いでいた」というのも、事実は事実だ。「プロゲーマーか?」という質問にイエスと答えた覚えも無い。

 だが、罪悪感はあった。

 罪悪感があすみの内心に兆し始めたのは、高梨が川辺の草むらで見事なブレーンバスターを決めた夜。うさみみ事変の夜だ。そのとき、あすみは高梨にこんなことを聞かれたのだった。

「そういえば、あすみさんって元プロゲーマーなんだって?」

 あすみは、はっきりと、言うなら今だ、と思ったのだった。違うと言えば、それで終わる話だった。しかし、

 軽蔑されるかもしれない、という考えがあすみの頭を掠めた。

 自分が元プロだと思われているという事実は、少なからずチームの結束に寄与していたと考えた。そうなると、チームが瓦解するかもしれない。

 それは嫌だな、とあすみは思った。

 あすみにとってのVBAは既に、代行ではない、地に足の着いたフィールドだった。

 このチームで勝ち上がりたい。

 あすみは、いつの間にかそう思うようになった。


 *


 ブースに入ってきたただならぬ雰囲気のあすみを見たとき、クソロンゲと高梨は揃ってギョッとした。

 あすみは無言で自分の席に座って、ヘッドセットを掛けて、ボイスチャットに繋いだ。ディエゴもとっくにオンラインだった。

「バアさんは、もうすぐ戻ってくるよ」

「なんだ、あすみちゃんバアさんに会えたの? ファミレス?」

 あすみは肩を竦めた。話をごまかすときの癖だったが、ディエゴには勿論、スクリーンを挟んだ向かいの二人にも見えていないことに気が付いて、「ま、そんなもんだね」と適当にごまかした。

 バアさんは、必ず戻ってくる。

「とにかく、それまでは私たちだけでもセットプレイに磨きをかけよう」


 *


 途中休憩の時に、高梨が席を立って真っ直ぐ喫煙室へ向かった。クソロンゲも、お茶を一杯飲んでから喫煙室へ向かう。

 それから、彼らはいつものように話を始めた……。

「なんか、あすみさん様子変じゃなかったすか?」

「変だった」

 クソロンゲはアメスピの箱をトントン叩く。彼はこの音が好きなのだ。

「バアさんに何かあったかもしんないじゃんね」

「何かって……」

「この間、倒れたじゃんねえ」

「……どうします?」

 クソロンゲは、高梨の不安そうな顔を見た。そういえば、彼は二十歳未満なのに煙草を吸っている。

「俺たちにはどうしようもないよ。あすみちゃんの言う通りに、セットプレイに磨きを掛ける位なもんだね」

「まじすか?」

「そうさ」

「……まじすか?」

 クソロンゲは、アメスピを咥えながら高梨の頭をわしゃわしゃ擦った。

「根本的に、俺たちには他人が破滅することを止める権利はねえんだよ」

 それから、煙草の先の灰を落とす。

「高梨君さ、俺の本名知らないでしょ?」

「え?」

 高梨は、今までのクソロンゲや涼子との会話、自宅の様子、顔なじみの店員から聞いた「クソロンゲ」という男の話を聞いたときを思い返した。しかし、クソロンゲの本名は今まで一度も聞いたことがない。

「まあ、俺も高梨君の下の名前とか知らないけどね。……俺たちはそれなりの付き合いになるけど、お互い知らないこと一杯だよ。でも、それでいいんだよ……リアルで顔付き合わせたって、俺たちの関係の根っこはFC……オンラインにあるんだ。だから、俺はクソロンゲでいられるのさ……いたいのさ」

「……」

 それから、少しの間煙草の煙を吸うためにお互い黙った。

 再び口火を切ったのは、やはり高梨だ。

「クソロンゲさん、大会が終わったあとのこと、何か考えてます?」

「あー、終わったあとねー」

 クソロンゲは、大会が終わったあとのことを少し考えてみた。

「涼子の大学も夏休みだし、旅行にでも行こうかな」

「解散しませんよね? VBA」

「それは……なんとも言えないな」

 大会が終わったら、VBAは解散となるのだろうか?

 それは誰にも分からない。

 ただ、これが最後だとは思いたくないという気持ちは大なり小なりメンバー全員にあった。高梨もそうだった。しかし、彼には大会が終わったあとに考えていることがあるのだ。

「……俺、大会終わったら受験勉強しようかなって」

「ほう?」

 クソロンゲは、また新しくアメスピに火を付けた。

「涼子さんに影響されたわけでもないんすけど、ちょっと、俺も」高梨は新しい煙草に火を付けないまま熱っぽくクソロンゲに語る。

「挑戦、してみっかなって」

「いいじゃんね」と、内心誇らしいような、なんとも言えない温かい気持ちを抱いてクソロンゲが言う。受験勉強を始める時期としては、かなり中途半端だが、何も目指さない若者でいるよりは随分良いと思った。

「これって、俺、破滅に向かってますかね?」

「さあ……そんなことないんじゃないか?」

 そう言って、クソロンゲは笑う。

「それに、仮に高梨くんが破滅に向かっていたって、俺に止める権利は無いしね」

「ま、そうすよねえ……」

 自分の人生のことだ。

「ただ、応援するよ。俺たちに出来ることは、それくらいしか無いんだけど」

 破滅と挑戦は紙一重だ。


 *


 後日になって、紗和はブースに復帰した。その代わり、紗和はしばらくの間バイトを休むことになった。仕方のないことだが急な話だったので、補充であすみがそっくり紗和のシフトに入ることになった。

 VBAが全員集まったとき、紗和とあすみは互いのこと……紗和が脳梗塞のリスクを未だに抱えていて薬も服用していること、あすみが元プロゲーマーなどではなく、ただの代行業者であったことに関しては、一言も喋らなかった。

 ただ、シフトをあすみに押しつける形になった紗和が申し訳なさそうに、

「あすみちゃん、ごめんね」と言った。

 実際あすみは目の回る様な忙しい日々だったが、「別にいいわよ」と顔色を変えずに答えた。「私とバアさんの関係って、こういうもんじゃん。気にしないでよ」

 紗和も、それで気持ちに整理が付いた。

 それからは、練習試合を繰り返すだけだった。


 *


 予選大会はオンラインで行われ、一日目に最大二試合、順調に勝ち上がれば、二日目に準決勝、決勝というスケジュールで進行する。ここで優勝まで勝ち上がれば、今度はオフラインの東京大会となる。本戦は、多くのプロチームが参加する。予選から勝ち上がるチームもあるし、シードで出場が決まっているチームもある。

 あすみはどうしても一日目のシフトを休むことが出来なかった。紗和の穴埋めでもあったし、あすみ自身、私がやるべきだとも思っていた。

 チームはそれなりに仕上がっている。勿論完璧とは言えないが、少なくとも戦略、戦術は幾つか手札を用意した、というところだ。

 あすみは、その日汗だくでプレートの焦げを擦り落としていながらも、戦術のあれこれを細かく思い返して予習していた。考えるまでもなく体が勝手に付いていくと思うが、緊張していてそうせざるにはいられなかった。

 それから、ホールでちょろっと接客を熟して、テーブルの上のペーパータオルや食器などの補充をした。その間も、FCのマップを頭に思い浮かべては手を止めた。

 少し経ったころ、あすみは何かおかしな感じがした。

 ……?

 出口近くの会計に掛かっている時計を見る。針は十七時三十分を指している。上がりまであと三十分。

 一試合目は十九時半から開始される。ただし、参加選手は十八時三十分にはオンラインになりエントリーをしなければならない。ファミレスからネットカフェまでは大体徒歩十分で付くから、シフトの後に真っ直ぐネットカフェに向かえば余裕で間に合う。

 しかし、……何か落ち着かないな。

 あすみは、中途半端な時間で客が疎らなホールを見回す。特に異常はない。緊張のせいだろうか?

 そのとき、厨房から出てきた店長が、あすみを見て不思議そうな顔をした。

「あれ、小池さん。まだ上がってないの?」

「え?」

 あすみは、壁に会計のところに掛かっている時計を見る。まだ十七時三十分。店長も、あすみも視線を追って時計を見る。すると、

「あれえっ?」と声を上げた。「この時計、止まっちゃってるよ、電池切れかな?」

「えっ!?」

 あすみはもう一度時計をよく見る……長針が止まっている!

「今何時!?」

 店長は、あすみの変な迫力にびびりつつも、腕時計で時刻を見た。

「今は……十八時二十四……あ、いま二十五分になったよ」

 あすみは一気に血の気が引いた。

 間に合わない。走ったって間に合わない。

 絶望だ。

 それから、VBAの面々がきっと自分を軽蔑するだろうと思った。

 足に力が入らなくなった。

 ……落ち着け。

 所詮、フィクションだろ……と、あすみは自己暗示のように念じる。

 このまま、二度とネットカフェに行かなきゃいい。それで終わりだ。バアさんにしたって、バイトをさっさと辞めちまえば顔を合わせることもない。勝てるかどうかだって、分かりゃしない。そもそも、チーム全体の練度だって私の満足の行くものじゃ無かった……。

「……上がります……」

「あ、うん。お疲れ様ー」

 あすみは、とぼとぼ裏手にある更衣室に向かって歩き出した。その途中で急に、

「駄目だ」と、ハッキリ思った。

 それからは、あすみは飛ぶような勢いで、制服のまま入り口から出て行った。

 表通りは信号が、

 あすみは瞬時に考えて、店舗の裏手に取って返した。こちらの遊歩道なら、橋まで信号に引っかからなくて済む。

 あすみは猛然と走りながらも、高梨がここらで決闘していたことを思い出した。

「俺、うさみみがフィクションだったとは思えないんすよねえ」という、高梨の言葉が不意に蘇った。

 私にだって、そういうものはある。

 スマートフォンで時刻を確認する暇も作らず、あすみは街灯に照らされる遊歩道を、ゴツゴツとブーツを鳴らしながら走っている。普段あまり運動する方ではないから、すぐに太ももとふくらはぎの筋肉が麻痺するように重くなっていった。

 間に合うか……!?

 全身から汗を噴き出しながらも、なんとか橋に辿り着いた。ここから駅までは殆ど一直線だ。あすみは、途中見知った顔と擦れ違った。どうでもいいとは思ったが、向こうから声を掛けてきた。

「おう、小池さん。乗ってくかぁい」

 フリーターの男だ。

 ……ちょっと待て!

 あすみは、急ブレーキを掛けた。

 振り向いたフリーターの男は、自転車を転がして歩いていた。

 僥倖だ、とあすみは思った。何かを言おうと思ったが、息が切れて言葉が出せなかった。

 だから、あすみはフリーターの男を蹴飛ばして自転車を奪った。それからは猛然とネットカフェまで自転車を漕ぎまくった。ビルに着くと、あすみは入り口近くに投げ飛ばすように自転車を置いて、もつれる足を引きずりながらなんとかネットカフェの入り口に辿り着いた。そこで、ハッと気が付いた。

 財布を更衣室のロッカーに忘れている。

 あすみは再び血の気が引いた。財布の中には会員証が入っている。最近はスマホのアプリが会員証の代わりになるらしいのだが、あすみは億劫がってそちらに乗り換えていなかったのだ。

 受付に立っていた店員は、ファミレスの可愛い制服を着た汗だくの女を見てギョッとした。しかし、その女があすみだと分かって、

「いーから、早く! 後でいーから!」と慌てて叫んでブースの方を指差す。

 ブースの方では、今か今かとあすみを待っていた常連が目を丸くしてこちらを見ていた。

 間に合うか!?

 あすみは滑り込むようにいつも座っている席に座り込んだ。エントリーは、専用のサイトでアカウントIDとパスワードを入力して完了となる。誰かがもう用意していたのだろう、あすみが座った時にはもうその画面で、アカウントIDが入力された状態だった。

「パスワード!」と誰かが叫んだ。

 あすみは、ものすごい速さで、それでいて絶対に打ち間違えのないように気を付けて入力し、エンターキーを押した。

 エントリー完了。という文字が表示されるシンプルなページが出てきた。

 間に合った!?

 画面右下のデジタル時計を見ると、丁度今、表示が18:30に変わった。

 間に合ったっぽい。

 あすみの全身から力が抜けた。もう今日一日は何もしたくない気分だった。

 ……いや、試合があるだろ。と、あすみは気合いを入れ直す。

「あすみちょおん!」と、唇をひっくり返して汗を流していたのはクソロンゲだ。「うもおぉぉぉ!」

 あすみは、息切れで声が出ない。ただ、手をパタパタさせた。

 常連の一人の女性が、気を利かせてあすみに一杯の水を持ってきた。氷は入っていない。

 ありがたい。本当に、ありがたい。

 あすみはそう思いながら、一息に水を飲み干した。それで、なんとか声が出せるようになった。

「うもおぉぉぉ!」と、クソロンゲは体を揺らしながら呻く。

「悪い、悪い」

「あすみちょーん! うもおぉぉぉ!」

「悪い、悪い」

 まだまだ息が切れているあすみが言えることはそれだけだ。

「にしてもとんでもない格好で来たもんですね」と茶化す高梨も、額には汗を浮かべていた。「雨にでも降られたみたいじゃないすか」

「悪い、悪い」

 紗和は、いつものような人の良さそうな笑顔で微笑んであすみを見ている。

「あすみちゃん、風邪引かないようにね」

「悪い、悪い」

「あすみちょーん! うもおぉぉぉ!」

 あすみはクソロンゲから金を借りて、フェイスタオルと地味なTシャツを受付で買った。そのあと、トイレに入った。着替えながらあすみは、

 今日ばかりは勝つくらいしないと割に合わないな、と思った。

 実際、初めに当たった相手にVBAは圧勝した。


 *


「一試合目の相手は、今回初参加のようですね」

 ボイスチャットでディエゴが感想を呟いた。

 正直、戦略や戦術どうこうの問題でなく、単純に個人的なプレイヤースキルがVBAの方が上回っていたという試合内容だ。

「初参加というんなら、俺たちだって初参加すよ。これ結構いけるんじゃないすか?」

「それは、なんとも言えないですね。我々も初参加ですし、チームとしてのレベルが分かりませんから」

「次の相手は?……GTC?」と、あすみが対戦表を見て呟く。

「グレート・田中・クランの略だってよ」とクソロンゲが補足する。

「ふざけた名前だな……」

 あすみは顔を顰める。

「しかし、油断は出来ませんよ。実力者はこういう名前を好むこともありますからね」

「次も、勝てると良いわねえ」と、紗和が言う。

「勝つさ」と、あすみが答えた。


 *


 先攻はVBAに決まった。マップは、埠頭を模した地形で、西の方には海が拡がっていて、大きな船が停泊している。この船の中は地上から侵入可能で、入り組んだ内部にA地点がある。そして、東の方にはコンテナが整然と積まれている地帯があり、コンテナの上によじ登ることが出来るポイントが複数あるため、三次元的な撃ち合いが展開されやすい。そして、B地点は地上の、開けた所にある。

 一ラウンド目は、紗和の指示でB地点に攻め入ったこちらのフロントと相手のサイド一人が大通りで互いを発見し、VBA側が一人をキルした。恐らくサイド……斥候役だ。間もなく敵のオールインがBに来ると予想した紗和は、自分の居たA地点から慎重に敵の初期位置近くの通路を回って裏を取ることにした。その間に、オブジェクトへ直行していたクソロンゲがB地点に爆弾を仕掛けた。

 それから、スモークグレネードを侵入経路に焚いた敵側が、B地点のコンテナ上に侵入した。そして、予め爆弾近くの高所に位置取っていたディエゴが敵のスナイパーと撃ち合いになり、ダウンした。だが、敵のスナイパーは別の角度から狙ったあすみのアサルトライフルによって直ちにダウンした。そのとき、紗和が「プッシュ」という指示を声で送った。

 高梨とクソロンゲは直ちに敵が潜んでいると思われるコンテナの影にグレネードを投げ込んだ。運良く高梨のグレネードが敵一人に的中してダウンさせた。あすみも敵の進行方向にエイムを置きながら、敢えて間髪を入れて撃って自分が近づいていることをアピールした。すると、狙い通りに、残りの二人があすみをクロスファイアしようと動いた。

 そこで、紗和が一方を背後からサブマシンガンで撃ち殺し、あすみは物陰にフラッシュバンを投げ込んでから、飛び込んで最後の一人の頭を撃ち抜いた。

「悪く無いわ」と、あすみは満足そうに呟いた。

 完全に、こちらが戦略で勝利した。こちらのデスはディエゴのみ。


 続く二ラウンド目は、VBAが防衛側となる。このラウンドは紗和が予想を外して、フロントの進行していたB地点とは反対のA地点に爆弾を仕掛けられた。ただし、物陰から侵入経路の様子を窺っていたクソロンゲが迅速に報告をしたために、完全な五対五の撃ち合いに持ち込むことが出来た。こうなると、あすみの撃ち合いの強さが如実に出てくる。しかもA地点はあすみの最も得意な地形だ。

 こうして、二ラウンド目は高梨と紗和のデスという被害を出したものの、無事爆弾の解除に成功して勝利することが出来た。


 三ラウンド目、B地点に一人潜行して様子を窺っていたクソロンゲが、フロントと運の悪い遭遇の仕方をしてダウンした。A地点にはフロントの三人と紗和が潜行していたが、敵は一人も来なかった。

「B、オールイン」と紗和が簡潔に指示を送る。

 ここで相手が編成を変えてきた。リスクはあるがEUスタイルのカウンターとして採用される、一カ所に全戦力を投下する「オールイン」と呼ばれているスタイルだ。

 紗和がA地点に爆弾を仕掛けた。四人は、それぞれ配置について敵の侵攻に備えた。

 入り組んだ地形の五対四は、まず最前を一度って居た高梨が敵のライトマシンガンの弾に当たってダウン、続いて、侵入経路にスモークが展開される。紗和は入り込んだ敵を一人ダウンさせたものの、クロスファイアを受けてダウン。ディエゴはスナイパーライフルで遠隔の敵に弾を当てたが、運悪く殺しきれずに、フラッシュバンをまともに受けてダウン。最後にあすみが残った敵のクロスファイアを受けてダウン。VBAは敗北した。

 常連たちは、固唾を飲んだ。敵は、二つのスタイルを使い分ける。EUとオールイン。 大丈夫、こっちの方が撃ち合いが強い。

 ……しかも、今度はこっちが攻める側だ。と、紗和は冷静に分析する。

 四ラウンド目、VBAはA地点にオールインで攻めた。運良く敵は狙いを外してEUスタイルに戻っていたから、出くわしたサイド一人を易々とダウンさせることに成功した。そして、そのまま爆弾を設置する。

 紗和がA地点を選んだのは、当然あすみが得意とする地形だからだ。この展開は前のラウンドが終わった瞬間に紗和が指示を出したので、各メンバーは適した投擲物を持ってきていた。

 そして、A地点での四対五の撃ち合いに勝利したVBAは、準決勝進出を決めた。

 常連たちは大いに喜んだ。常連に交じって、店員も何人かがこっそり彼女たちの画面を覗いていた。


 *

 


 試合が終わったあと、高梨はヘッドセットを投げ飛ばすように外して、腕を上げた。そして、「よっし!」と声を上げた。

 今の試合を見ていたギャラリーも、VBAに疎らな拍手を送っていた。

 クソロンゲは、緊張が途切れたのか空気が抜けたように椅子に沈み込んでいる。

「高梨もクソロンゲも、あんまり気を抜かないでよ。明日も試合あるんだからね」と、額の汗を拭いながらあすみがたしなめる。

「でも、今の試合は良い勝ち方だったわねえ」

 紗和も興奮しているようだ。

「まあ、それはそうね」

 あすみは紗和の体調を気にしながら答えた。

「次の対戦相手は……OGですか……」と、ボイスチャットからディエゴが深刻そうに呟いた。

 クソロンゲも対戦表を確認して、「オリガミか」と呟いた。

「知ってるんすか?」と、ヘッドセットを装着し直した高梨が尋ねる。

「関東の方の大手プロチームですよ。MOBAでの彼らは知っていましたけど、FCにも手を広げていたとは知りませんでしたね」

 オリガミは、正式名称「OriGami Gaming」で、クランタグのOGは慣例に則って「OriGami」から取っている。前年度成績は本戦二試合目敗退。


 *


 予選一日目を終えた一同は、早い時間にブースから出て行って帰路についた。勿論、あすみはスマートフォンのアプリ会員証に乗り換えた。

 紗和とあすみは、橋の辺りまでは同じ道だったので共に帰った。彼女たちが一緒に道を歩くのはかなり珍しいことだ。大抵紗和が先に帰るし、ファミレスからはあすみがとっとと着替えてネットカフェに行くのだ。

 橋の半ばで、

「あすみちゃん、明日勝てると思う?」と紗和が尋ねた。

 あすみは、何も言わずに肩を竦めた。


 *


 オリガミは初めからEUスタイルでは無かった。マップを縦横無尽に駆け回る一人と、二人のグループを二つ作って積極的にクロスファイアを狙いに行く、最近韓国で流行りだしたというメタを採用していた。オブジェクトに対する攻撃力、防御力がEUのそれより低くなる代わり、味方の寄りが早く、小規模戦闘では優位があるという評判だった。ただし、個々のプレイヤーが敵の動きや味方の動きを注意深くマップから読み取る技術、味方が敵の裏に回るまで、少人数でも生き残る技術が必要とされ、所謂「プロ仕様」のスタイルだった。

 このスタイルは、「ツーマン」と呼ばれている。

 VBAは、一試合目、二試合目とラウンドを落とした。スタイルによる得意不得意が如実に出て、紗和やクソロンゲが接敵したフロントに寄る前に、相手の二人グループ、若しくはスナイパーの一人がこちらのフロントをクロスファイアするのだった。

 これまで行ってきた練習試合では、ツーマンスタイルを使う相手に遭遇したことが無い。

 紗和は焦っていた。

 しかも、一人で動いている相手のスナイパーが凄腕なのだ。遠隔の高所からのロングショットを易々と決めてくる。そのため、サイドが迂闊に動けない。

「バアさん」と、二ラウンドと三ラウンドの合間の待機時間にあすみが声を掛けた。「落ち着いて」

 紗和は、素直にあすみの言うとおり落ち着こうと深呼吸した。

 ……最新のメタだわ。攻略情報もまだ出回っていない。

 最大の問題は、こちらのフロントが二人のグループに接敵したとき、押し切れずに相手の増援をまんまと待つ形になってしまうことだ。……ということは、接敵した後のフロントの動きが間違っている。

 間違っている?……正解はあるのか?

 とにかく、やってみるしかない。

「次、フロントが接敵したらスモーク投げて姿を隠してください」と紗和は指示を出し始めた。「それと、ロンゲさんは私と一緒に動いてね」 

 

 三ラウンド目は、VBAが取った。

 ツーマンスタイルに対して、咄嗟に紗和が考え出した作戦は次のようなものだった。

 まず、フロントが接敵した場合、すぐにスモークグレネードで味方の位置を隠す。それから、一人が遮蔽物に隠れて制圧射撃を行う。この制圧射撃には、敵にこちらの存在感を示す狙いと、二人のグループをその場に釘付けにする狙いがある。フロントから分離した二人は、逆側のオブジェクトに対して、慎重に、素早く移動する。

 こちらのサイドは、フロントがスモークを焚いた地点に十分敵が寄った時間を見計らって、爆弾を設置する。こうなると、フロントから分離した二人が爆弾の設置箇所に合流して、少なくとも四対五の勝負に持ち込める。

 スモークを焚いて殿を勤めたのは高梨だった。「俺、撃ち合いよえーっすから」と言っていたが、なんとか頑張って寄ってきた敵の一人をダウンさせ、完全にVBAが有利になる展開に持ち込んだ。

「流石サワさんですね」と、ラウンドの合間にディエゴが褒めた。「もう一端の知将ですよ、知将」

「けど、次のラウンドで相手がツーマンを使ってくるかは分からないわよ」と、あすみが言う。

「勿論分かってるわ」

 相手のスタイルは、高度なツーマンを使えるということは、それだけではない、ということだ。EUだってオールインだってあり得る。

 後手に回る勝負だ。


 しかし、続く四ラウンド目は紗和の読みが当たって、相手はB地点にオールインで来た。基本的にオールインは爆破側で採用されやすく、EUだけではなく、様々なスタイルに対してのカウンターとなる。ただし、そんな爆破側のオールインにも唯一弱点とも言える対応策がある。それは、防衛側がオールインすることだ。

 敵の集団が侵入経路に姿を見せた時、唯一顔を出して監視していたディエゴが味方に敵の到着を告げた。それからディエゴのみが撃ち合う素振りを見せて、敵を十分に引きつけた後は物陰に隠れていた他のメンバーがクロスファイアをして、敵を殲滅した。

 これで二対二。次のラウンドで勝負が決まる。


 最終ラウンドは両者EUスタイルの、互いが最も慣れている形の試合となった。

 VBAは、そのラウンドで敗北した。


 *


 彼らの最後の試合を終えた後、VBAのメンバーは近くの焼き肉屋で卓を囲んでいた。

「ディエゴが今日でVBAを卒業するとはねえ」と、クソロンゲが残念そうに呟いた。

 敗退したあと、ボイスチャットでディエゴはそう言った。元々補充のメンバーとして今回の大会に参加したのだ。彼にはこれからメインでプレイしているゲームのシーズンが控えているのだ。だが、ディエゴ自身も、VBAを脱退することを惜しがっているようだった。

「……こういうのって、卒業とは言わないんじゃないの?」

 前髪を弄りながらあすみが言う。

「そうかな? にしても、予選ベストフォーか。初めて参加した大会でこの成績なら、俺たち結構強かったんじゃないか?」

「そっすよねえ?」と、高梨もクソロンゲに同意する。

 負けたというのに、場の雰囲気はあまり重くなかった。彼女たちはまだ試合が終わったという気がしていないのだ。紗和にはそれが不思議だった。

 そういえば、紗和はこういったチームでの敗北を経験したことが無いのだ。だが、この場にいる者は全員そうだった。皆、各々の人生で一人ぼっちの敗北を経験して、今日まで生きてきた。

「予選ベストフォーね」

 確かに、初出場でこの成績はそう悪いものではないかもしれない。そもそも、VBAには去年からFCを始めた者だっている。だが、負けに変わりは無い。そもそも予選は三ブロックに分けられているから、正確にはベストフォーのチームはたくさんあるのだ。

「負けは負けだね」と、呟いた。

 そのとき、注文したビールが運ばれてきた。


 そういえば、VBAの面子が食事の席を共にしたことはこれが初めてだった。高梨は未成年だからビールではなく麦茶だったが、クソロンゲはかなり飲んで、あすみもそれなりに酒を飲んだ。紗和は、初めの一杯を飲んでからは麦茶に切り替えた。そもそもあまり酒を飲む習慣はないし、動脈硬化には一杯くらいが良いそうなのだ。

 最初の内は、今日までの試合を振り返って、反省会のようなものを行っていた。しかし、いつの間にか話の主題が今までにあった珍プレイ好プレイ、うさみみ事変や、涼子との決闘などにシフトしていって、すっかり場の雰囲気が温まってきた。そして、急に居住まいを正した高梨が、こう切り出した。

「すいません、俺も今日でVBA卒業です」

「高梨君が? どうして?」と、紗和が目を丸くして聞いた。

 顔が真っ赤になっているクソロンゲが「高梨君は、これから受験勉強に取りかかるじゃんね」と代わりに答えた。

「ほう?」

 あすみも多少酒で顔を赤くしていたが、酔っ払っている様子は無かった。

「うん、まあ、そういうわけでね」

 高梨は何故か照れている。

「目当ての大学はあんの?」と、あすみが尋ねた。

 高梨は東京にある私立大学の名前を挙げた。そこは、以前高梨が東京の観光へ行ったときにたまたまキャンパスを目にして、進学校に在籍中は密かに目星を付けていた大学だった。

 すると、あすみは控え目な笑い声を漏らした。

「私の母校じゃない」

「まじすか!?」

「……あ、ごめん。私中退してたわ」

「なんだよそれ!」とクソロンゲも大いに笑った。

 紗和も可笑しいのか、ニコニコしている。

「中退って、あそこ勉強厳しいんすか?」

 高梨は真剣な表情で尋ねた。彼にとっては笑い事ではないのだ。

「いや? そんなことないわよ。だって、私が中退したのってゲームばかりしていたからだから……」

 言いながら、あすみは自分の大学時代を遠い過去に思った。あれは、何年前のことだったのだろうか? 代行業者の佐久間と知り合ってからは、次々と舞い込む代行依頼とネットゲームのシーズンに追われて、その間のリアルのことは殆ど覚えていないのだ。

「あすみちゃんさ、……ていうか、皆に聞きたかったけど、なんでそんなにゲームに熱中すんの?」

 一同は揃ってクソロンゲの顔を見た。それから、すぐに思案するような顔つきになった。

 クソロンゲは、仲が良くなったゲーマーには大抵この質問をするのだった。そして、彼らの、こんな顔を見るのが好きだった。

「俺は、」と、初めに答えを出したのは高梨だった。「俺は、通信通ってたときは勉強もしてたけど、それでも時間が余ってしょうがなかったからかな。そんで、そんときの彼女に誘われたんだったなあ」

「そういや高梨君、初めはオンラインRPGでレアアイテム探してたじゃんね。うさみみ」

「そっす。ま、それ以前からも色々とやってたんすけどね」

 高梨は、その頃のことを思い出して、なんだかしんみりした。紗和とあすみが決闘していたときなんかは「何をゲームに真剣になってんだ」と思ったものだ。

「バアさんは?」と、クソロンゲが紗和に質問を向ける。

「私は、定年退職して、やっぱり時間を持て余していて、趣味を増やしたかったからねえ」と、紗和はゆっくり説明した。

「……でも、どうしてゲームだったんだ?」

「あすみちゃんに誘われたのよ」

「誘ってないわよ」と、あすみが突っ込みを入れる。「バアさんが勝手に私に付いてきて、勝手に私の隣に座って、勝手にゲームを始めたんじゃないの」

 しかも、勝手に始めたくせに、分からないことがあると、すぐに隣のあすみに助けを求めたのだ。尤も、あすみがお節介を焼いた部分もある。

「……そう。そうだったわねえ」と、紗和は思慮深いような声で呟いた。

「で、あすみちゃんは?」

 クソロンゲは、最後にあすみに質問を向けた。

「私?」

 あすみは、卓に肘を突いて考え込んだ。

「だって、私は本当に――」

 そこで、手の甲で目許を擦った。口の形は「に」の形で固まったままだ。

 紗和は、泣いちゃったのかな? と思った。

 しかし、あすみのくぐもった笑い声が聞こえてきた。そして顔を上げて、晴れやかな笑顔でこう言った。

「本当に、ゲーマーだからさ」

 その後話し合って、メンバーが二人抜けたVBAは解散するということに話が決まった。


 *


 帰り道、あすみと紗和は二人で歩いていた。今日は一試合目で敗退したから、食事をした後でも、もうすぐ九時を回るというところだった。暑い夜では無かったが、昼間の温度がまだ輪郭を残しているような、ぼんやりとした温度だった。橋を渡ろうとしたところで、どこかから焼き鳥の香りが漂ってきた。見ると、河原の方で楽しそうに七輪を囲っている若い男たちの集団があった。

 紗和は、楽しかったなあと思った。

 これからのことは何か考えがあるわけでは無かったが、これで終わりだとは絶対に思いたくなかった。これが最後の勝負をした夜だとは思いたくなかった。しかし、紗和の考えとは裏腹に、あすみは敢えて紗和をゲームから遠ざけようとしているようだった。先ほどVBAの解散を提案したのもあすみだった。

 ゲーマーの世界で最後に笑うものに、紗和はなりたかった。

 川辺の七輪の灯りをぼんやり眺めながら歩いていた紗和は、橋の半ばで隣を歩いていたあすみがいないことに気が付いた。後ろを振り向くと、あすみは欄干に寄りかかって街灯の明かりを反射する川辺を鋭い目付きで眺めていた。

「本当に……」と、あすみが話を始めた。

 紗和は、瞬間的に先ほどのクソロンゲの質問のことだと確信した。

 何故、ゲームに熱中したのか?

「本当に、なりたかった」

 紗和は、その場で黙ってあすみが喋るのを聞いていた。

「勝ち続ければ、本当になれるって、ずっと信じてた」

「……」

「フィクションだって……嘘だって……いつかは、本当になるって信じてたの」

 そこで、あすみは目許を手で擦った。今度は本当に泣いていた。

「本当に、なれるって、信じてた」

「……」

「ほんの少しで、良かったの」

 紗和はゆっくり頷いた。

「ほんの、少しの『ほんとう』で……良かったのに」

 それからあすみは欄干にしがみつくように嗚咽して、紗和には聞き取れない言葉をぽつぽつと喋った。ようやく聞き取れた言葉は「勝ちたかった」だった。

「そうよねえ」と、紗和も頷きながら、少しだけ涙を目に浮かべながら同意する。「ほんの少しでも、良かったわねえ」

 紗和の言葉を聞いたあすみは、さらに深く嗚咽した。

 ゲームで百回勝利を収めても、人生で勝利したことにはならない。所詮、ゲームはフィクションだ。

 そのとき、あすみの頭にある考えが浮かんだ。あすみは即座にその考えを否定した。

 馬鹿馬鹿しい考えだ、と思った。紗和の体調のことも思った。それでも、その考えは涙が流れる程、強い意志になってあすみの口を動かすのだった。

「……ねえ、バアさん……」

「何?」

「……バアさんさ……」

 あすみは、顔を上げた。頬は涙に濡れていたが、目付きはしっかりと紗和を見ていた。

 紗和はその瞬間、彼女によく似た目を、遠い昔、雨の降る日に見たことを思い出した。

 そして今、目の前にしている自分より一回り、二回りも若い女がこんなことを言うのだ。

「……コンティニュー、する?」

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フィクション みとけん @welthina

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