第111話坐視

 

 人には絶対に譲れない者がある。

 それは人の長所だ。生きていく上で大切なことだ。だが、時に人はそれにのめり込んでしまうことがある。

 北條にとって外に出るということが正にそれだ。

 抑圧からの解放。狭い世界からの脱却。そして、かつての世界への憧れ。

 北條一馬と言う男は、どうしようもない程外の世界というものに焦がれていた。

 ジドレーを誘き出すために利用された少年の言葉は北條の胸に突き刺さった。

 外に出ることを夢見る少年は、自分以上に狭い世界にいる少年に自分を重ねてしまった。

 結末は見えた。

 蛮勇の主人の歩みは止められない。

 ルスヴンは1人の少年の命をここで見限った。





 瓦礫や死体が散乱する戦場を歩く吸血鬼。

 300年間第1の門を守り続けた怪物は匂いを辿っていく。

 その後ろに続くのは眷属にした元人間——下級吸血鬼達だ。彼らは全員地獄壺跡地を囲むように炎が出現して逃げられなくなった者達だ。

 人間を見つければ見境なく襲い掛かり、ネズミ算式に数を増やしていく。

 既に殆どの者が吸血鬼の餌食になった。


 彼らの向かう先にあるのは巨大な氷柱だ。

 近づくにつれて中にいる者達の姿が見えて来る。氷柱は氷であると言うことは忘れる程透明度が高かった。

 ジドレーが目を見開き、歓喜の笑みを浮かべる。

 氷柱にいたのは、ミズキと少年。周囲を吸血鬼に囲まれて2人は青ざめている。

 1人足りないということはジドレーも分かっていた。だが、目の前の少年のことしか考えられなかった。


「俺の、ものだ」


 ねっとりとした視線が少年に絡みつく。その視線に怯えた少年はミズキにしがみ付いた。

 その行為が、ジドレーを刺激するとも知らずに。

 まるで、ミズキが少年を抱えているかのような態度。これは私のものだという主張をされたとジドレーは受け取った。

 その怒りは下級へと伝播し、主人のものを取り返さんと氷柱に群がっていく。


 下級吸血鬼が牙を、爪を立てて氷柱を砕かんとする。

 後ろから続々と来る吸血鬼に前の吸血鬼が押し潰され、血肉を撒き散らす。思わずミズキと少年は視線を逸らした。だが、どこもかしこも同じような光景ばかり、表情は青ざめ、体の震えは大きくなる。

 更に、ガリガリガリガリッ‼と削るような音が一気に周囲から聞こえるのだから、恐怖は大きくなる一方だった。


 しかし、ジドレーからしてみればまだ取り返せないのかと言う気分だ。

 一分一秒でも早く自分のものを取り返したいのだ。

 苛立ちのあまり、下級吸血鬼の群れの中にジドレーは飛び込む。下級の吸血鬼でも破れなかった氷柱は、ジドレーにとっては薄い膜程度のもの。

 今度こそ大切に扱おう壊そう——ミズキの腕の中にいる少年を見て、ジドレーは笑みを浮かべる。

 氷柱へと飛び掛かるジドレーを目にし、ミズキと少年は体を強張らせた。


「何時まで、何時まで待たせるのッ⁉」


 我慢できないとばかりにミズキは叫ぶ。

 次の瞬間、飛び掛かるジドレーのがら空き背中に北條が氷結を叩き込んだ。





 氷柱に吸血鬼が群がる姿を北條は見ていた。

 本当ならば飛び出していきたい。しかし、そんなことをしたら折角のチャンスも無駄になる。

 飛縁魔の感知能力を掻い潜った時のように、北條は体温を極限まで下げた状態で、瓦礫の一部に身を隠し、待機する。

 そして、その時を待ち続けた。

 ジドレーが痺れを切らし、隙を晒す時を——。


 格闘技による戦闘は無意味だと理解した。それだけのスペックの差が北條とジドレーにはあった。

 唯一通じるのはルスヴンの異能のみ。

 ジドレーが飛び上がり、隙を晒した瞬間。北條はジドレーの背中に氷槍を叩き込んだ。


 ジドレーも流石に空中では踏ん張ることが出来なかった。

 吸血鬼の群れの中に落ちて行く。地面に叩き付けられるが、当然ながらジドレーは大したダメージは受けていない。

 煩わしい者がまた出て来た。その程度の意識しかない。

 少年に向けるものとは違う、殺意が混じったものを向けるジドレー。衝動的に北條は動いた。

 連打である。

 接近戦では勝てない。異能による戦いでしか活路はない。

 氷槍を生み出しては周囲にいた下級の吸血鬼も巻き込んでジドレーに叩き付けていく。それはまるで機関銃だった。


 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドッ‼


 絶え間なく音が響き、粉塵を巻き上げる。

 その粉塵の中から、氷槍を砕いて北條に迫る影が1つ。ジドレーだ。分厚い鉄板すら貫く氷槍をものともせずに、ジドレーは北條に牙を立てる。

 ジドレーにとっては煩わしい者は全て殺さねば気が済まなかった。氷槍の中でも動けたにも拘わらず、少年ではなく北條を優先したのはそれが理由だ。


「————⁉」


 ジドレーの牙が北條に突き刺さる。かと思いきやジドレーの牙は北條の体をすり抜けた。理解不能な現象にジドレーが眉を顰める。

 一瞬動きの止まったジドレー。その隙を突くように今度は横から巨大な氷の鉄槌が振るわれた。

 横に吹き飛んだジドレーに襲い掛かったのは、

 それは金城を騙す際にも使用したデコイだ。

 背中から一撃を加えた後、北條は直ぐに再び体温を極限にまで下げて離脱した。そこから先は映像に合わせて異能を使っていただけだ。

 ジドレーと真っ向から戦って勝てる程北條はうぬぼれていない。囮を使い、デコイを使い、卑怯と言われても勝つことを重視した。

 全く同じ姿の人物がジドレーの視界に映る。ジドレーは疑問よりも先に煩わしさが出て来た。


「殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すうぅッ‼」


 苛立ちが高まる。何故こんなにも邪魔されなければいけないのか。自分は平穏が欲しいだけなのに。全く面倒なことをしてくれる。

 向かって来る巨大な氷の塊を薙ぎ払う。その度にジドレーの体には霜が降りかかった。

 北條が使っているのは、弱ったと言えど最強を謳った吸血鬼の異能。積み重ねれば、上級吸血鬼の体を弱らせることが出来る。

 異能を受ける度に、少しずつ、少しずつジドレーは体の機能を低下させていった。

 そして、一際大きい氷の塊を殴りつけた時、氷が砕かれると同時にジドレーの拳から血が流れた。


「(弱ってるッ。この調子で行けば勝てる‼)」


 僅かな勝機を見て北條は確信する。

 身体能力では勝てないが、異能ならば勝てる——と。


「(ルスヴン更に出力を上げるぞ‼)」

『ストックなんぞ考えるな。さっさと片付けろ』


 勝機が見えたことで北條も勢いづく。0が1になった。その程度だが、それでも北條には希望が持てた。


『空中じゃあ身動きは取れない。封じ込めるのなら今だぞ』

「(了解ィッ)」


 ルスヴンの言葉に頷いた北條が動く。

 ジドレーが砕いた氷が、空中にばら撒かれた氷石が形状を変える。

 大小関係なく、氷石が繋がっていき、1つの檻を作り出し、同時にマイナス500度の冷気を送り込む。

 ジドレーに攻撃手段はない。氷で閉じ込めるとその氷を砕かれて終わるだけだが、冷気を殴っても体に溜まる霜は振り払えない。風や空気を叩いても氷は砕けない。


「(地面に落ちる数秒——その間にお前の体を使い物に出来なくするッ)」


 檻は完全に完成し、中では冷気の嵐が吹き荒れる。人間であればとっくに凍結死しているが、ジドレーはその中で平然としていた。

 北條にジドレーは視線を向けた。

 目と目が合う。


「————‼」


 何かをしようとしている。そう直感した。



「(ルスヴン、アイツの異能は⁉)」

『怪力だよ。あの胸デカ小娘と同じ空中では意味のない異能だ』


 異能を警戒した北條がジドレーについてルスヴンに尋ねる。

 ルスヴンは安心させるように問題ないと口にする。だが、次の瞬間2人は目を見開いた。


「な——嘘だろ⁉」

『馬鹿なッ⁉』


 目の前で。出てきたのは透明な触手のようなもの。


「ルスヴン⁉ あれはどういうことだ⁉ もしかしてアイツ異能を2つ持っているとか言わないよな⁉」

『言うものか‼ ——まさか彼奴、余に偽の情報を掴ませていたとでも言うのかッ⁉』


 思わぬ事態に言葉でのやり取りをしてしまう北條。傍から見れば1人で喋っているようにしか見えないが、それすら忘れてしまっていた。

 ルスヴンすら出し抜かれた。その事実が敵の姿を大きくする。


「俺の異能は怪力じゃない」


 ガラガラの声がすぐ横で聞こえた。一瞬であの距離を移動してきたのだ。

 視界の隅でジドレーを捉える。

 そこにいたのは自分の背中から触手を出したジドレーがいた。半透明な触手はまるで生きているかのように蠢めいている。


「触れているものを俺の一部にする。それが俺の異能だ。まだ誰にも言っていないものだがな」


 目で微かに追えてもジドレーの動きに北條の体は付いていけなかった。

 がら空きの背中がジドレーに向けられている。その背中に、肉を切り裂く5本の爪が振るわれた。

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