第12話『始まりの朝』

 

 目が覚めたのは、カーテンの隙間から差し込む白く鈍い朝光だった。

 頭が少し重たい。体が異常にだるいのは、久しぶりにぐっすり眠ったせいかもしれない。


 見上げる天井は、僕の部屋じゃない。


 気づけばベッドの隣にはカレンが寝転がっていた。

 床の上、薄い毛布をかぶって、小さく寝息を立てている。

 長い睫毛の影が頬に落ちて、まるで人形みたいだと思った。


 その姿をしばらく見つめたあと、僕はゆっくりと体を起こした。


 キッチンには、夜の匂いがまだ残っていた。


 古びたマグカップに水を注いで喉を潤す。

 その時、ふとカウンターに置かれていた名刺に目が留まった。


 《Bar & Host Lounge "Bleu"》

 そこには、カレンの名前ともうひとつ、“紹介者:花向”と印字されていた。


「……なにこれ」


 僕が口に出すと、背後から「おはよ〜」と眠そうな声が聞こえた。


 振り返ると、カレンが髪をかき上げながら立っていた。


「見ちゃった? それ、昨日ね。持ってきといたの」


「紹介?」


「うん。お店。ホストクラブ……っていっても、そんな本格的なとこじゃないよ。ゆるい感じ」


「僕に、これを?」


「だって、君、無職でしょ」


 なんの悪気もなさそうにカレンは笑った。

 たしかに否定はできなかった。アトリエはもうない。学校も辞める予定だ。

 身ひとつで、この街に置き去りにされた少年。現実を突きつけられて、何も言えなかった。


「まあ、別に働けって言ってるわけじゃないけど。ちょっと見てみるくらいならいいでしょ?」


「……遊び半分で誘ってない?」


「じゃあ、君は本気なの? これからどうするか、ちゃんと決まってる?」


 僕は黙った。


「でしょ? だったら、一度だけでも見てみたら?」


 その日の夜。

 僕はカレンに連れられて、「Bleu」という店を訪れた。


 繁華街のはずれ、小さなビルの三階。

 ネオンは控えめで、入り口には目立たない看板がひとつだけ。


 店内は意外にも落ち着いた空間だった。

 青を基調とした照明に、ミラーガラス。シンプルなソファと小さなステージ。

 キャッチーさはないけれど、その分、空気が静かで重たかった。


「お、新人?」


 奥から出てきた男が声をかけてきた。

 スーツ姿のその人は、肌の浅黒い、飄々とした雰囲気の男だった。


「彼が例の子? ユウくんね。カレンから聞いてる」


「店長の陸さん。優しいけどちょっとスケベだから注意してね」


「おいおい、いきなり信用落とすなよ~。でもまあ、当たってるけど」


 軽口を交わしながら、僕は曖昧に会釈をした。

 何をすればいいのかもわからない。自分がここにいる意味も、まだよくわからなかった。


「まあ今日は見学でいいよ。カウンター座ってな」


 夜が深くなるにつれ、次第に人が増えていく。

 男も女もいた。酔った笑い声と、静かに交わされる視線。

 この場所は、何かを失った人間たちが辿り着く、奇妙な“終点”のようだった。


「……どう? 君に合いそう?」


 カレンが隣で囁く。


「わからない」


「ふふ、そうだよね。でも、ここにいれば、何も考えなくてすむよ。お金もらえて、人にも必要とされて、ちょっと演技して、適当に愛されて。……なんか、絵を描くのとちょっと似てない?」


 僕は答えなかった。

 でも、その言葉が、どこか心に残った。


 この夜をきっかけに、僕の“堕ちていく日々”が始まった。

 演じることでしか、自分を保てなくなった僕が、画家ではなく、“商品”として生きる世界に足を踏み入れた最初の夜だった。


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