35.そんなことでイインカイ&林檎の香り立つ
出欠を取り終え、大森先生が講義室内の学生たちを見回す。大学の女神と呼ばれるに値する飛びきりの微笑みを浮かべて。
先週は自己紹介で講義が潰れてしまった。第二回目にして、いよいよ複素関数論の講義がこれから始まる――学生たちはみんなそう思っているに違いない。
だが期待に反して、先生が妙なことを話しだす。
「この第一帝国大学の工学部はねえ、毎年一年生の中から委員会に入る人を選出しているのよ。それで、あたしの複素関数論を履修してるあんたたちからは、文化委員を二人出すことになってんの。そういうことで、立候補する人、だあーれだ!」
笑顔を絶やさず、先生がまた学生たちを見回す。催促するかのように。
しかし、誰一人として手を挙げる者はいない。
萩乃は左を見た。つまり正男を見たのだ。しかし、今の彼の表情からは、立候補の意志があるような様子はまったく窺えない。
(わたくし、手を挙げるのがよろしいかしら。でも、そうするとみなさん、わたくしのことを、優等生ぶった鼻持ちならない女、とお思いになるのでは……)
「あれれえ~、そんじゃ一丁やったるぜという人、誰もいないのかなあ? 今年の一年生は消極的ねえ。そんなことでイインカイ。なーんちゃってね。えへへ~」
どうやら大森先生は駄洒落を打ち上げてみたらしい。景気づけの花火のように。
しかし、誰一人として笑い声を上げる者はいない。
(おっしゃる通りですわ。消極的なままではいけません。誰にどう思われようと、わたくしはわたくしですもの!)
そうだ、大学生になれたのだ。もっと自分を前に押し出してもいいはず。
意を決した萩乃が、恐る恐る手を挙げる。
「あの、大森先生」
「あら猪野さん、もしかして立候補してくれるの?」
「はい。ふつつか者ですが、どうぞよしなに」
「あらあ、こちらこそ。よろしく頼むわよ。それじゃ一人目は、出席ナンバー3の猪野さんに決定! はあ~い、みんな拍手ぅ~」
まばらにパチパチ、パチリと手が打ち鳴らされた。
この第四講義室内、大森先生を除いてみんなテンションが低すぎる。
学生の立場から見れば、世界一の研究成果を誇る学科の講義室でありながら、特別専任講師が講義もせずに一人ではしゃいでいる、といった状況である。
「さてさて、もう一人は、やっぱりいないみたいね。仕方ないわ、先生が選んじゃうよ。覚悟しなさいね」
大森先生が、先程まで出欠確認で使っていた履修者名簿を再び手に取る。
「だ、れ、に、し、よ、う、か、な♪ メ、ガ、ミ、さ、ま、の、い、う、と、お、り♪ プッと鳴って、プッと鳴って、プップップッ♪ はあ~い、決まりました~、出席ナンバー5の大森さん、おめでとぉー」
「マジか!」
正男が選ばれたのだ。これは運命ではない。最初から最後まで、大森先生の指が名簿の五番目だけを指していたのだから。
「マジに決まってるでしょ。それでさっそくなんだけど、猪野さんと一緒に、今すぐ委員会に行ってきて。頼んだわよ」
「おいおい、複素関数論はどうなるんだ!?」
「あー、今日はここまで。講義すんのもめんどっちぃし」
「そんなことでイインカイ!」
「いいのよ。大学なんて所詮こんなものだから。そもそも勉強なんてのはねえ、自分でやりなさい。あんた研究者を目指してるんでしょ? 人に頼ってちゃ、まともな博士になれないわよ。わかった?」
「くそ!」
「下品よ。ほら、さっさと行きなさい」
「わかったよ!」
抵抗虚しく、女神様の言う通りにさせられる正男である。世界一の大学にきてまで、文化委員をやらされるとは思ってもみなかったことだろう。彼の表情は、不服そのものを画に描いたようである。
一方、萩乃は金太郎の席に駆け足でやってきた。
「あの野馬形さん。お約束していましたのに、すみません。わたくし今から委員会へ行かなくてはならなくて……」
「ああ、林檎のことか。いいよいいよ。でもキミ偉いね、自分から進んで委員をやろうだなんて。僕キミを尊敬するよ」
「いえその、それでよろしかったら、これを差しあげますわ。津軽産の明治百三十六年ものですのよ。お召し上がりください」
萩乃は、借りていた果物ナイフと一緒に林檎も差し出した。
「ええっ、そんな高級品を僕にくれるのかい!?」
「はい。野馬形さん」
「ありがとう! いい香りがするね。僕すごく嬉しいよ、猪野さん!」
恐らくフラグは立ってしまったのだろう。
これこそ、林檎の香り立つ恋愛フラグというわけだ。
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