11.ババロアを食べ損ねる夢
なにか甘い香りがする。正男の生命体魂に直接匂ってくる。
プリンだろうか。いいや違う、ババロアだ。
『正男、さあ早く起きて、これ食べな』
『う、姉ちゃん?』
『そうよ、大恩ある姉様よ。あのねマサオちゃん、今日は駅前の喫茶店でババロア買ってきてやったんだからね。マスターに頼み込んで特別テイクアウトよ』
正男は、久々にあれを食べられると知り嬉しくなる。じっくり味わってやろうと思うのだけれど、なぜか身体がこわばっていて、どうにもうまく起き上がれない。
どうしたのだろう、正男は起きない。ババロアが待っているというのに。
『さあさあ正男、ぐずぐずしてたら、お姉ちゃんが食べちゃうよ』
『姉ちゃんタイム! 頼むパワーだ、まずはオレにパワーをくれ!』
『わかったわ。良質のお姉ちゃんパワーよ。一滴も残さず吸収なさい』
『おお、ありがと姉ちゃん!』
パワーがどんどん正男に注入され、思考力が満ちてくる。
『よおし、これで完全復活だぜ!』
正男はようやく両腕を突っ張って上半身だけ起こすことに成功した。
ベッドの上にいることを知り、疑問も満ちてくる。
『あ? なんかやたら白一色だな。というか、病室じゃねえか! いつ入院したんだ? 今の今までどうなってたオレ?』
『やっと起きられたのね、マサオちゃん。さあご褒美よ』
『おお、マジうまそうだぜ! ありがとな、姉ちゃん』
姉の正子が、ババロアの載った皿を片手に持って正男の鼻先に近づけてくる。
けれども、なぜか彼女のもう一方の手が正男の頬を力強く押している。
『さあどうした正男、あんたのパワーはそんなものじゃないでしょ?』
『いや、頼むから姉ちゃん。よくわからねえんだけど、今のオレって病み上がりの身体じゃん? もうその辺で勘弁してくれ。そのババロアを食わせてくれ! そしたらもっとパワーがつくんだ!』
『ええもちろんよ、遠慮なんていらないわ。さっさと食べな』
『うんうん食う。そのうまそうなババロアを食うんだからさ、こっち側の手どけてくれよ。なかなかの圧かかってるから結構痛いんだ。というか、なんか姉ちゃんの手の平って固すぎないか? ほとんど木の板みたいのな……うにゅにゅ~』
(おはっ!! おお、机に突っ伏して寝てたのか! 姉ちゃんもババロアも白いベッドもみんな夢だった。お姉ちゃんパワーの夢、ああそれより、左頬がやけにヒリヒリするなあ……)
意識は戻った。しかし、正男の記憶はまだ不安定なままだ。
右頬にも痛みがリアルに残っている。リアルな木の板――机に押しつけていたのだから無理もない。
ともかく正男は混乱している。なぜなら、ババロアを食べ損ねる夢が五回も続いたからだ。どうして同じ夢を繰り返すのだろうか。
「あいや待て、それよりここは!? 予備校か?」
目が醒めると知らない教室にいた。これも驚きだ。
それでふと右を見る。ちょうど、右(空席)の右(通路)の右(空席)の右(着席)がチラ見してきた。正男の独りごとが聞こえていたらしい。
右の右の右の右と言うと遠いように聞こえるが、間に人がいなければ近くに感じる。横方向の隣人さんなのだから。
ともかく、その者と一瞬だけ目が合う。少しばかりシンパシーを感じてしまう。その子は地味系の女子で、なにやら心配そうな表情をしている。
(よし、こいつなら知ってる。
どうやら、正男の頭はまだ少し寝ぼけモードである。早急な思考力回復が必要とされている。それで無意識に「うーん」とばかりに背筋を伸ばしてみる。脊髄から脳へ働きかけるのだ。
だがそうしたところで、意識の不連続感が続いている。窓のすぐ横の席に座っており、この格別な陽気のせいで、脳味噌の汁が湯気を立てているのかもしれない。
(ちょっとマジで頭の中を冷却しなきゃな。さあ落ち着けよオレ。ええっと、確か今はまだ四月だったっけ?)
正男の推測は当たっている。
正確な日時は、明治百四十二年四月二十四日午後三時――この世界の現代は、決して正男の記憶の中には存在していない、別の明治時代なのである。
そして、これと同じ瞬間を経験するのが五度目だということも、今の正男は、まだほとんど把握できていない。
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