第二十四話 家族の語らい
夕食を済ませ、家に帰ってきてしばしテレビの前で談笑。そのうち風呂が沸いたことを知らせるアナウンスが鳴り響いた。
一番風呂は星奈だ。彼女は風呂場に向かう途中で、陽一たちの方を振り返り、
「じゃ、行ってくるね。覗いちゃやだよ」
「覗かねぇから安心しろ」
「本当に駄目だからね。絶対だよ」
何故か繰り返し念を押す彼女に、意図も分からないまま眉を顰める陽一の隣で、父は察したと言わんばかりに楽しそうな表情になり、
「それはフリか? ネタフリか?」
「来るな」
「はい」
途端、星奈のものとは思えないドスの効いた声で命じられ、立ち上がりかけていた父が静かにソファーに腰を下ろした。真顔で星奈から目を離した彼の横顔に、陽一の白い目が鉄杭よろしく打ち込まれる。
星奈の気配が風呂場に消えた頃を見計らって、再び父が腰を上げた。それを見て、陽一が唸るように釘を刺す。
「行くなよ? 流石に冗談じゃ済まされねぇからな」
「分かってるって。ちょっと部屋行くだけだよ」
肩を竦めてそう請け負う父だが、彼の部屋は風呂場と同じく一階だ。少し躊躇したものの、陽一も父に続いて立ち上がり、彼の後ろを歩き出す。
「お、なんだぁ? 俺にはそう言っておいて自分は覗きか?」
「見張りだ馬鹿」
「いやいやいくら何でも娘に欲情したりはしないからな?」
仏頂面で威圧する陽一に、父は本気で困惑したような苦笑を返した。が、それでも陽一の眼光は緩まない。それ以上は何も言わず、父は首を縮めて正面を向いた。
宣言通り自室に辿り着いた彼は、部屋に入ったかと思うと、然程の間を置かずに出てきた。手には入ったときには持っていなかった、リバーシの箱を持っている。
「つーわけで遊ぼうぜ」
「受験生の息子に親が吐く台詞かよ」
お気楽そのものの笑顔で父が提案し、陽一は呆れたように毒づきつつも苦笑を見せる。意気揚々とリビングに戻る父に続き、ソファーに戻った彼は、テーブルを手繰り寄せてソファーに近づける。
盤と石をテーブルに置いた父は、次いで盤の中央に初期配置の石を置いたあと、さらに石を一枚取って指で弾いた。コインのように回転しながら飛んだ石は、白の面を表にして動きを止める。
「後攻か」
「あいよ」
それぞれ短く呟くと、陽一が石を取って盤に置いた。黒の面を表にして置き、白の石をひっくり返す。
しばらくは、静かにゲームが進んだ。普段は折に触れて間抜けな姿を晒す父だが、この手のゲームは大抵陽一より上手い。この日も中盤まで進んだ時点で、白有利の展開となりつつあった。
「なぁ陽一」
そんな折、唐突に父が口を開く。盤面を睨んだまま返事の一つも寄こさない息子をちらりと見やった彼は、結局反応を求めることなく続けた。
「星奈とはどこまでいった?」
「……何の話だ?」
あまりに意味不明で、流石に陽一も問い返さずにはいられなかった。直前まで盤面の展開を探っていた鋭さそのままで、双眸を父親に向ける。下手な怒り顔より険悪な容貌に一瞬怯んだものの、父はペースを変えずに言葉を紡ぐ。
「星奈はもう露骨にお前のこと大好きだし、お前だってまんざらじゃないだろ。もう何かしたか?」
「……親父ぃ」
陽一の指が石を取り落とし、ぷるぷると震える。彼は心から軽蔑したように目を眇め、唾棄するかのごとく喋りかけた。
「俺の彼女がどうの、星奈の彼氏がどうのと言ってたと思ったら、今度はそれか? 下世話にも程があんだろ。兄妹だぞ」
怒りを噛み殺し、震える声で言いながら、陽一は拾った石を盤に置き、白石をひっくり返す。それから聞えよがしに大きく溜息をついて、もう一度父を睨んだ。
対して、それを迎え撃つ父の表情もまた真剣そのものだった。彼は石を手に取ることもせず、批難の眼差しを向ける陽一を真っ直ぐに見返しながら、神妙な声で語りかける。
「今まで内緒にしてたがな、陽一」
「今度は何だ」
「実は、今の母さんとは再婚でな。星奈は母さんの連れ子だったんだよ。お前と星奈に血の繋がりはない」
冗談めかした風ではない。低く落ち着いた声で、父ははっきりとそう言った。
が、
「……チッ」
「えっ舌打ち?」
「何かと思えばくっだらねぇ嘘吐きやがって。冗談で言うようなことじゃないだろ」
それまでにも増して苛立ちも強く、語気を荒げて吐き捨てる陽一に、父は一転して気の緩んだ表情で唇を尖らせる。
「何でそんなはっきり断言できるんだよー。まぁ嘘だけど」
「親父が二度も結婚なんざ誰が信じるか」
「ちょっと辛辣すぎない?」
こちらも真顔になって抗議の声を上げる父だが、それを完璧に無視して、陽一はなおも腹立たしげな顔で目を逸らした。ほとんど愚痴のように、ぼそりと零す。
「ンな都合のいい話がほいほい転がってるかよ。世の中そんなに甘くねぇだろ」
「まあなぁ」
適当な相槌を打ちながら、父がようやく石を取り、少し考えて盤に置く。陽一の黒石を次々とひっくり返しながら、彼は何気ない調子で付け加えた。
「しかし、「都合のいい話」か。要するにそういうことだろ」
「…………」
指摘されて初めて己の失言に気づいた陽一が、片手で顔を覆いながら肩を落とした。そんな彼の背中を軽く叩いて、父が笑う。
「星奈の様子がおかしいって言ってきたとき、お前一人で背負い込むなって言っただろ。なのにその後何も言ってこないし、問題が解決したのかと思ったら、星奈は前にも増してお前にべったりだし、なのにお前も嫌がってるわけじゃないし。「ああ、何かあったな」と思ったわけよ。ははは、親父の勘もなかなか捨てたもんじゃないだろ」
と、最後は少し茶化し気味にトーンを上げて、もう少し強く陽一の背を叩いた。
陽一はまだ手で顔を隠し俯いたままだ。指の隙間から漏れるように、くぐもった声が聞こえてくる。
「言っとくけど、何もしてないのは本当だからな」
「あ、そうなの」
言い訳のように主張する陽一だが、父は大して気にしていないように肩を竦めた。そのまま何を催促するわけでもなく、ソファーの背もたれに身体を預ける。
父の指摘は正しい。
星奈のことを相談したときに言われたことは、陽一も覚えていた。それでも――いや、あれを聞いたからこそ、余計に投げ出すわけにはいかないと、そう思った。思ってしまった。より良い選択が何かなど、考えることもなく。
それを指して「陽一もまんざらでもない」と言うなら、確かにその通りだろう。
盗み見るように父の様子を窺っていた陽一だが、ややあって彼はおずおずと声をかける。
「親父はいいのかよ。その、俺と星奈が……」
それ以上は言葉にならず、再び口を閉ざした彼に、父はすぐには答えなかった。落ち着かない様子で陽一が彼の方へ何度も目を走らせる。
張り詰めた無言の時間。家の外の些細な物音でさえ、痛いほどに耳を突く静寂だ。その中で、陽一の注意は父だけに向いていた。
そして陽一が凝視する目の前で、父がゆっくりと口を動かした。
「……そうだなぁ」
もたくさとした喋り出しに、逸る気持ちを必死で抑えて、陽一は耳を澄ます。彼のあまりの必死さが伝わったか、父が一瞬だけ苦笑を過らせた。
「まあ正直、応援はできないな。親として」
「…………」
石を呑み込んだ渋面で、陽一が押し黙る。至極当然の回答に、言い返す言葉があるはずもなく、彼はただ拳を握りしめることしかできなかった。
彼の様子を、敢えて父は見ない。見ないままで、さらに続けた。
「うん、応援はしない。けど、そんだけだ。止めもしない。そんな権利はない。たとえ親だろーと、お前たちがきちんと悩んで決めたことに、水なんか差せないよ」
半ば自分に言い聞かせるような、一言ごとに区切るような語り口だ。陽一が目を剥いて真横を向く。驚きのあまり声が出ない陽一の頭に、父はぽんと手を置いて、荒っぽく撫で回した。
苦笑じみて乾いた音を立てて鼻を鳴らし――それがどんな感情からくるものなのか、陽一には分からなかった――父が囁く。
「どーした陽一。お前、いつから俺や母さんが応援してやらなきゃ何もできないお利口さんになった?」
「……うっせぇ」
小声だが荒っぽく言って、陽一が父の手を振り払う。顔はまだ下を向いたままだ。心なしか涙ぐんでいるような声にも聞こえたが、気のせいということにして父は笑う。
それからふと、彼は声音を変えて、
「で実際、お前は星奈とどうなりたいんだ?」
「どう、って何だよ?」
問いかけに陽一は顔を上げかけ、またすぐに伏せる。俯いたままで尋ね返す彼をちらりと見て、父は続けた。
「色々あるだろ。「恋人になりたい」とか「結婚しよ」とか、もしくは「単にエロいことしたいだけ」とかさ。言ってみ? 誰にも言わないから。まあ場合によっちゃ、お前のではなく星奈の父親として怒るかもしれないけど」
「とりあえず一緒に馬鹿な親父を罵倒できる仲になりたい」
「既にそうじゃん……あ、馬鹿って認めちゃった……」
感情を殺した響きで陽一が吐き捨てる。父が呆れたような声で言いかけ、遅れて自分の発言に落ち込み肩を落とした。余程ショックだったのか、背中を丸くした彼は、さっきまでの陽一のように両手で顔を覆った。
そんな父を横目に見て、ようやく陽一は淡く微笑を浮かべた。小さな苦笑をひとつ。同時に、ひょいっと軽い仕草で摘まみ上げた石を盤に置いた。
「あとは、そうだなぁ」
張り詰めていた緊張が解けたような、穏やかな声でぼやく。早くも父は気を持ち直し、興味津々という目で陽一を注視していた。
言い出しはしたものの、陽一自身、自分たちの今後をしっかり考えていたわけではない。むしろ、少し前までは毎日が綱渡りのような感覚だったのだから。実際、本当にそれほどまでに危うい状況だったのか、今となっては分からないが。
ただ、陽一としてはそれだけ必死だった。必死で星奈との関係を繋ぎとめようと煩悶する中で、一番彼自身にとって大切だったものを、静かに思い起こす。
自然と口の端から笑みが零れた。盤の石を順に裏返しながら、陽一は不思議なくらい安らいだ心地で、
「やっぱり、俺は――」
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