第11話 偽物の愛

――茉莉花と旦那が仲良さそうに歩いている姿を見かけたあの日、俺に気づいて一瞬目を合わせた後、旦那と腕を組んで歩いていく茉莉花を、ただ見ているしかできなかった。嫉妬で焼ける心が焦げ臭かった。焼け跡には大きな穴が残った。二十代の俺はこの穴は一生塞がらないと思い茉莉花と別れた――


 茉莉花と別れて、何年も何年も経って、茉莉花のことを思い出すことがほとんどなくなった頃、自分が愛したと思った女性が自分以外の知らない男とセックスをしようがなんだろうが、もう傷つくことはなかった。傷つくほど愛せなくなっていた。


 今、胸の痛みが教えてくれる、今更ながら教えてくれる。気づかないようにしていたけど気づいていた。紫苑と会うたびに少しずつ、心の穴は埋まらないまでも小さくなっていた。

 小さくなったその穴に、風が通り抜けないように紫苑が布を被せてくれた。

 紫苑。今、風に吹かれて薄い布はどこかに飛んで行ってしまったよ。


「男の人は女の人が沢山の他人とセックスするのが嫌でしょ? パパ、……おじさんだって私との出会いが偶然だから……」


「パンッ」


 紫苑の言葉を遮って力の限り、その美しい頬を叩いてしまった。

 ヒビの入っていない白い肌。


「今日は帰るね。おじさん、たかがこんなことで壊れちゃいそうなんだもん」

「壊れてるのは紫苑だよ」

「……さっきの平手打ち、テレビや小説なんかに出てくるお父さんっぽかったよ」


「一週間後、また来るね。一緒に病院に行って、最後の確認。私は私とママを不幸にしたDNA鑑定でね、今度は私が幸せになるの。まともだった頃のママのあの人、私の父親を見つけるの。だから協力して、おじさん。私のパパ、ママのあの人だった証拠を頂戴」


 一週間はあっという間に過ぎた。

 何も考えれない一週間。気づいたことだけはあった。


 紫苑は私の家を知っている、私は紫苑の家を知らない。

 紫苑からは逃げられない、私は紫苑を探せない。

 紫苑は私の名前を決して呼ばない、私には名前で呼んでと頼む。


 知り合った中年男性が、茉莉花が当時書いていたメモの〝あの人〟でないとわかれば、紫苑はいつでも、いなくなれたんだろう。出会ったバーの店長が口裏を合わせて、来ていないとでも言えばなんとでもなる。そのたびに代償を払っていたのだろう。


 廊下を歩くヒールの音がドアの前で止まり、チャイムが鳴った。

 音は聞こえたが体が動こうとしない。

 紫苑から逃げるつもりはない、だけど動けない。


 沈黙の後、鍵が差し込まれる音。「ガチャリ」

「不用心でしょ? 鍵置き場に合い鍵まで一緒に置いとくなんて」紫苑がベッドまで歩いてくる。毛布をゆっくりめくり「動けないの?」と言いながら、着衣のまま覆いかぶさる。口づけをしてくるが、唾液の臭いが気になる。

 股間に手を滑らせ「あれからずっとダメなの?」と言い放つが、答えるまでもない。


「別に、おじさんのDNAは今まで沢山もらってるからいいけど、できれば一緒にきてサイン貰って、納得してから親子になって欲しいの」

 紫苑の瞳には曇りがない。悲しみの美しい涙がない。


 自分はいつも、自分の心に開いた穴しか見えていないのかもしれない。紫苑の心は壊れて穴だらけかもしれない。だけど、紫苑は気づいていない。過ぎていく時だけが私を助けてくれた。だけど紫苑の時間は、偽パパがいなくなってから止まっているのかもしれない。DNA鑑定、検査結果、紙切れ一枚。たかがそんなもので紫苑の時計は回り始めるのだろうか?こんな気持ちで紫苑が欲しがった父親に、私がなれるのかどうかわからない。

 けれど、もし忘れるためだけに、辛さから逃げるためだけに動かしてきた私の時間が止まることで、紫苑の時間が動くのなら……。

 心がまた止まり、体は動かせるようになった。

「支度するよ」


 

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