エリーゼのために

ふぁーぷる

死に際してどうだったと語る人は無し。

【プロローグ 風を見る少年】

死にゆく者がその瞬間に何を思うのか──語れる者はいない。

ただ、人はいつも知らぬ顔で死のそばを歩いている。


最寄駅ビル二階の廊下には、小中学生の絵画コンクールの入賞作が並んでいた。

通り過ぎる人々は足を止めず、流し目で好き勝手な批評を囁いては去っていく。

だが、その雑踏の中で足を止め、一枚の絵に心を奪われた少年がいた。


木村正太郎、中学二年。


彼の目に映るのは、大きな赤い鳥居と、その先に真っ直ぐ伸びる参道。両脇の木々はぼやけて焦点が定まらず、描きかけのようにも見える。

だが見つめるうちに悟る──木々は揺れている。風に揺れ、ざわめいているのだ。絵の中で。


その風が現実へと溢れ出し、屋内のはずの廊下で正太郎の髪を揺らした。

神威カムイの風。


正太郎を見つめる者がいた。廊下のベンチに腰掛ける、白装束に紅の袴をまとった巫女姿の女。

凛としたその横顔は微笑み、声なき祈りを唇だけで紡ぐ。


「……見つけました。流れに飲まれぬ魂を」

「祓い給え、清め給え。御加護のあらんことを」


正太郎が振り返った時、巫女の姿は煙のように消えていた。


【家族の絆】

正太郎の父は、中学入学を前に鞄を買ってくれた翌日、流行病で急逝した。

残された母は細い腕一本で彼を育て、祖母は毎日祈るように孫と娘を支えた。


正太郎は新聞配達で小遣いを稼ぎ、時には母の財布に千円札を忍ばせた。祖母の好きな「破れ饅頭」を週末に買って手渡すのがささやかな誇りだった。

母の笑顔、祖母の「ありがとう」の声。それだけが少年の生き甲斐だった。


だが母が倒れる。首に大きな腫瘍が見つかり、市立病院に緊急入院。

祖母は震える手でお守りを握りしめ、正太郎に託した。

「……母さんを頼むよ。お前の笑顔が、あの子の薬になる」


少年の世界は暗転した。


【病院の夜】

市立病院は古び、壁紙は剥がれ、消毒液の甘ったるい匂いとカビの湿気が混じり合っていた。

六人部屋の天井には黒い染みが広がり、壁際の換気扇は低く唸り続ける。

患者たちの寝息は時にすすり泣きに似て、闇の奥から呻き声が返ってくるようだった。


その夜、母は正太郎のために簡易ベッドを頼んでくれていた。

「明日は休みだから、泊まっていきなさい。……久しぶりに一緒に眠れるわね」

母の声は腫瘍でかすれていたが、微笑みだけは昔と変わらなかった。

祖母が持たせてくれたおにぎりを、母と分け合う。

「正太郎、ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」

母のその声が、少年にとって世界で一番温かい音だった。


しかし夜更け。

病室の豆球の下、正太郎は眠れずにいた。

廊下から、何かを引きずるような足音が近づいてくる。

ザリ……ザリ……。


掠れた声が幾つも重なり合い、やがて言葉を結ぶ。

「今夜は誰を連れて行こうか……」

「希望を持つ魂ほど、美味い……」


扉が激しく開く。

婦長が入ってきた。

だがその顔は化け物だった。白目を剥き、唇は血で濡れたように真紅に裂け、狂気の笑みを浮かべている。


眠る患者の首をひとりずつ掴み、撫で回す。

目覚める者は誰もいない。

月明かりの下、婦長は母のベッドに迫る。


「坊主、お前の母も地獄へ連れて行ってやろう!」

ベッドに飛び乗り、狂ったように跳ね回りながら叫んだ。

母の首が不自然にねじれる。正太郎は声を出そうとするが喉が凍りつく。


絶望が少年を飲み込もうとした、その時――


【狩人、現る】

廊下からオルゴールの旋律が流れ込む。

「エリーゼのために」。

澄んだ音色は、病院の腐臭を押し返すように響いた。


月光に照らされた病室の入口に、黒衣の影が立っていた。

ゆるやかに足を踏み出す。タン、と床を鳴らし、空気が震える。


次の瞬間、鋭い音が断続的に走る。

シュパッ、シュパッ。


婦長の首は、静かに床へ転がった。

黒衣の影は左手にそれを提げ、右手にカミソリを持つ。

刃は月明かりを受けて、氷のように輝いた。


「……黄泉醜女よみしこめを呼び込む哀れな女か」

その声は低く、冷たく、それでいてどこか人の情を拒んでいなかった。


影は正太郎の傍らに立ち、静かに言葉を続ける。

「理不尽な世だ。だが君の心は澄んでいる。母を思い、祖母を思うその清らかさ……好ましい」


彼は名を告げた。

「幽界の狩人、切り裂きジャック。

 善き人に仇なす魔を、ただ狩る者だ」


正太郎の視界は白く遠のき、意識が薄れていく。

最後に耳に残ったのは、孤高の狩人の声だった。


「安心して眠るといい。──母は、まだ護られる」


【翌朝】

サイレンで目を覚ました。

婦長は玄関先で首を切断された姿で発見され、胸ポケットには紫の薔薇が一輪。


数日後、母は退院した。

首の腫瘍は忽然と消えていた。


病院を後にする時、正太郎の耳に囁きが落ちた。

「……これは、ジャックとチルナからの、ご褒美さ」


待合室の喧噪の中で、確かに。

聞こえた。

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