お屋敷校正たちの日常奇譚

五川静夢

プロローグ

第1話 【迷える家庭教師】小林ロズ

《プロローグ》



 鮮やかなる滑空。

「……うっ!」

 これまで少年が目にしたこともない一匹の甲虫が透明な二枚翼を広げて、彼のすぐそばを横切って闇夜に消えた。

 それはあたかもこれから、この少年が行うであろう家庭訪問に対する警告のようにも感じられる。

 18歳の少年、小林ロズが15歳の才媛ワイマール・ワイマの邸宅を訪ねることになったのはもはや辺りが宵闇に染まりつつある時間帯だった。

 彼の住んでいる福岡市内からJRの列車に揺られること1時間、ロズはようやくこの離れ小島へとたどり着いたのだ。

 それにしても同じ福岡市内だとは到底思えない不気味な辺境地である。

「なんでこんな依頼を受けちゃったんだろう」

 ロズは元々、聞き分けのいい性格だ。

 しかし、今回ばかりはそれが災いしたといえる。

 いくら家庭教師の依頼とはいえ、まさかこんな場所にまで派遣……、否、飛ばされることになろうとは。

 だが、この辺境の地へと単身乗り込んだ以上は踵を返すわけにもいかなかった。

 彼は覚悟を決めて前方へと一歩を踏み出す。

 そして、ゆっくりとした足取りで、目的のお嬢さまの待つお屋敷へと向かうのだった。

 派遣所から事前に渡されている、一枚の地図を頼りに。

 ……まさしく宝島、いやむしろ亡霊島の地図だぜ、これ。

 ロズはふと、そんなことを思った。

 やがて、彼は目的地に到着。

 ロズの背丈よりはるかに大きな黒塗りの鉄門が目の前に現れた。





 ――――ギィィィ。





 鉄門はまるで魔法が掛かっているかのように自動で開いた。

 ……近頃の金持ちは自動式鉄門ですら、アンティーク調にこしらえるらしい。

「おお」

 ロズは短く感動した後、

「今晩は、今日から家庭教師としてきた者です。お声掛けするまでもなく、開門してくださって本当に感謝いたします」

 そんな感謝の言葉を述べた。

 しかし、闇の中に浮かぶ屋敷には、窓辺の明かりが灯っているだけで特に反応らしきものは返ってこなかった。

 気が付けば、ロズの周囲はますます濃霧に包みこまれて見えづらくなっていた。

 はたしてこれは夢か幻か。

 思わずそう考えてしまうほどに非現実的な空間がそこにはあるのだった。

 まもなく、ふっと濃霧をかき消すようにして何者かの気配が少年のすぐ間近で漂った。

 それとほとんど同時に。

「小林ロズさまですね」

 彼の名前を暗闇が呼んだ。

 いや、正確にはそうではない。この鈴が鳴るような心地の良い声の主は。

 おそらく十代後半から二十代前半の教養ある娘のもの、か。あるいは微妙なイントネーションから外国人かもしれない。

 彼が独自に培った鋭い洞察力のおかげで大方の場合、そのような直感が外れることは少ない。

 そしてそれは今回も同様で。

 暗闇に突如として出現した手提げランタンの微かな光。

 その光に照らし出されたのは、頭にカチューシャを付け、細身にぴったりとフィットした淡い色合いのエプロンドレスをまとった、屋敷のメイドらしき娘だった。

「やはり異国風の娘だった、か」

 ロズは思わず苦笑する。

 碧眼に、クルクルと巻いたセミロングの栗髪に、透き通った肌が特徴的な美少女と形容するのがふさわしいようなメイドである。

 もしかすると、フレンチメイドなのかもしれない。

「ワイマお嬢さまからお話は聞いております。遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます」

「いえ、とんでもない。僕は長旅が案外、好きなんです。なかなか新鮮でした」

「さようでございますか」

「はい」

「それはよかったのです。あ、申し遅れましたね。私は屋敷の使用人でメイド、名はフランチェスカといいます。以後、お見知り置きを。ではさっそくお嬢さまの元へご案内させていただきます」

「よろしく」

 このフランチェスカと名乗るメイドの案内に従ってロズは屋敷の中へと足を踏み入れた。

 豪奢な調度品や年代物と思われるアンティークが出迎える中で、まもなく彼はその「ワイマお嬢さま」のいる部屋にたどり着くことになる。

 ミシリ、というフローリングの軋む音がしたのを最後に、フランチェスカのしなやかな足取りが止まった。

 ある一室の前。

 どうやら、この中にワイマはいるようで。

 コン、コン、コンと規則的なノックが間を空けずに3回響く。

「ワイマお嬢さま。お客様がお見えです」

 フランチェスカの鈴なりのような声がそれに続くと。

「……」

 少しの沈黙があった。

 ロズを刹那の緊張が襲う。

「う」

 少年がごくりと唾を飲み下した時。


「客人ですか。良いのですよ。通したまえ」


 扉を通して聞こえたのは、白銀のように怜悧な、それでいてある種の純粋さを感じさせる年頃の少女の声音だった。


 

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