第19話「花の都フォトニッヘ・後編」



フォトニッヘは険しいババール海岸沿いに並み立つ、五つの分離集落からなる町だ。

現在では文化的景観として名を馳せているこの町は、かつては城郭として建設された場所であった。


旅客輸送黎明期の事である。

始めにフォトニッヘを訪れたのは、シニュー大陸にその名を轟かせた作家だった。

「険しい海岸線に沿って一列に、花々のごとく咲き乱れる家屋の町がある」

明媚なフォトニッヘの景観に深く魅了された画家は、自らの手記にそう記した。


「ここはまさしく『近代』と呼ぶに相応しい町だ」

次にやって来たのは画家だった。

作家の言葉に惹かれフォトニッヘを訪れた画家は、優美な駅と街並みを絵に残した。


やがて作曲家、商人、権力者。

富裕層から中流階級の名だたる人々が遠路はるばる押し寄せ、

フォトニッヘは「シニュー大陸一芸術的な町」としてあまねく世間に知れ渡った。

辺鄙な田舎の漁村は交通革命の後押しを受け、瞬く間に多くの観光客で埋め尽くされるようになった。


ラピスラズリを溶かした夜空の合間を縫うように、灯台より一筋の光が伸びる。

断崖に咲き並ぶフォトへ二の明媚な花の住宅群は影に溶け、その形を緩やかに崩しつつあった。


「都会ってすごいのね、まだ人が活動してるの。

ハイロじゃ見たことがない景色だわ」


夕陽もとうに海の底へと沈んだ宵の入り。

活気ひしめく華やかな大通りを前に、乙女は軽妙に笑う。


眼前に広がる目抜き通りに並ぶのは、飲食店を筆頭とした様々な店屋。

色彩豊かな壁は街灯に照らされ、夜の闇中でさえ絢爛に聳え立っていた。


「そうですね……」


目抜き通りを行き交うのは、当然ただの通行人ではない。

品の良い服に身を包んだ妙齢の女性や、いかにも紳士然とした男性達だ。

色彩豊かな街並みを、花のような衣服を身にまとった人々が闊歩する様は、まるで一枚の絵画のようですらある。

誰しもが目を奪われる華やかな光景を他所に、アーサーは広げた地図に視線を落としていた。


めざましい発展を遂げた花の都。

一漁村に過ぎなかったフォトニッヘの大躍進は、ネラムナッツ公国の全国民に自負心を植え付けた。


だが物事には常に、良い面と悪い面が付きまとう。


芸術的と評される駅や街並みを一目見ようと、やって来る者が後を絶たず。

連日フォトニッヘには人が殺到するようになった。

町に数件しかない宿泊所は、あっという間に人が押し寄せると、

大変よろしくない方面でも評判であった。


「あそこも駄目、ここも駄目……

とすると、公共の家(パブリック・ハウス)だなあ……」


こめかみをリズミカルに叩きながら、彼は思考をめぐらせる。

宿を探す道すがら。立ち寄った電信局から出る頃には、空は既に塗り変わっていた。


「急がねば」とアーサーは坂道を上った先にある展望台を仰ぎ見る。

──救貧院だけは、例え死んでもご免だった。


……結論から言うと。

アーサーが頼みの綱にしていた簡易宿泊所は、驚くべき事に営業していた。


「今日は客が少なくてね。

タップ・ルームはいつも通り賑やかだけど」


「上流階級の人達だったんですね、今日見たのは。

道理で身なりのいい人ばかりだっだ訳だ……」


マスターの言葉を聴きながら、アーサーは先の光景を思い出す。

簡易宿泊所の入口にて迷いなくサルーンを選択したアーサーは、部屋へ入るや否や寝具へと飛び込んだ。


「シワになるわよ。

 せめて服を脱いでから寝なさいな?」


乙女の忠告は耳に入ってはいたものの、アーサーにはそれを実行する気力はとんと無かった。

何せ汽車を乗り継いだとは言え、昨日の朝方よりずっと身体を動かしていたのである。

身体は鉛のように重たく、足は最早棒と化している有様。

疲労困憊にある彼には、睡魔に身を委ねる以外の行動は取れなかった。


「"But when you're down

and nearly out Impossible to cope"!」


壁を隔てたタップルームから、一仕事を終えた労働者達の輪唱が鳴り響く。

泥のように眠っていたアーサーは、その歌声で目を覚ました。


「……あぁ、ここはミュージック・ホールも併設しているのか」


アーサーはベッドに横たわり、ぼんやりと考える。

あからさまな素人合唱ではあったが、不思議と不快感は沸き上がってはこなかった。

歌は労働者たちにとって、酒にも勝る数少ない癒しでもある。

それを彼は知っていた。


「……"Tuppence on the rope, me boys,

tuppence on the rope "」


隣からの陽気に釣られ、するすると口ずさむ。

陽気に満ちたメロディーのこの歌は、彼も気に入りの一曲だった。

工場で勤務する大人たちにねだって連れて行って貰った過去が脳裏に蘇り、ふとアーサーは笑みを浮かべる。


「"tuppence on the rope"……

 いや出来るなら避けたいけどな、俺は……」


アーサーはブルジョア階級に位置する側に産まれた人間だ。

だが母・ヨランダの奇特な教育方針によって、まだ成人してもいない内から大人に混じって工場勤労をさせられていた。

それもただの工場ではない。

自らの父が経営する工場で、だ。

無論母・ヨランダが激しい浪費家だったという事ではない。

何故ならば彼女自身も公立学校の女教師として労働していたからである。


本来ならば有り得ないような環境で育ったせいか。

彼は一般の中流家庭で育った人とは、どうしても馴染む事はできなかった。

しかし労働者階級の人の気持ちが彼に分かるかと言えば、それはまた難しい問題であった。


「……本当。

 微妙だよなあ……俺って……」


あふ、と苦笑混じりの欠伸が零れる。

にわかに浮上しだした眠気が、彼を再び眠りへと誘いつつあった。

鉛のように鈍重な身体が、海の底へと沈むような感覚に襲われる。


それに必死に抗いながら、彼はせめて時間だけは確認しようと、近くにいる筈の乙女へと声をかけた。


「すみません、お嬢さん……

今何時頃ですかね……?」


「19時ぐらいではなくて?」


窓の外より不貞腐れたような声が飛ぶ。

服を脱がずに寝たアーサーに対して、乙女は酷くご立腹のようだった。

その返事を聴き、彼は安堵の笑みを浮かべる。

近くに乙女がいるという確認が取れただけでも収穫だった。


「……すみませんが……ふぁ……

 明け方になっ……はぅ……おこしてくだ……ふぁい……」


「申し訳ないなあ」と心の隅に思いつつも、身を起こす動作ですら今の彼にはままならない。

もうそろそろ意識を保っているのも限界と判断したアーサーは、それだけを言い残して夢路へと旅立った。


「もうっ……!

 だから、服を脱いでから寝なさいってば!」


慌てたような乙女の声が、清潔なパブリック・ルームに響く。

しかして彼女の声は、再び深い眠りに落ちたアーサーにはついぞ届く事は無かった。



参考資料


Wikipedia チンクエテッレ


グーグルアース



種村 剛(TANEMURA, Takeshi)氏のHP

「社会学情報学」基本資料の中の

「コーヒー・ハウス(coffee house ; Café ; café)/カフェ(cafe ; café ; caffè)/喫茶店」

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ko_coffee_house.html

 

https://barmagazine.wixsite.com/barmagazine BARTENDER MAGAZINEのPUB|パブ 


やる夫で学ぶヴィクトリア朝イギリスの生活

https://yaruo.fandom.com/wiki/%E3%82%84%E3%82%8B%E5%A4%AB%E3%81%A7%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9C%9D%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB



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