第10話「旅立ち・中編」
アーサーがふとそんなことを思い出したのは、神秘的な雰囲気が漂うせせらぎ流れる浅瀬の近辺。
薄闇が絶え間なく覆う森の折り返し地点を、乙女と共に歩いている頃だった。
この森で生きる動物の名を、アーサーは知っている。
フクロウにネズミ、ハブやコウモリ。そしてカラスや鹿に、ヤマネコ、イタチ。野良犬にアライグマ。
一概に危険とされる動物が、ここでは誰にはばかることなく生息している。
そしてその名を知っているという事は、それに対処するためのすべも勿論心得ている。
『生き物の『名』を知ることで対象を認識する。
人はそうすることで未知の存在への対抗手段を得る』
ニックスは常々、アーサーにそう言い聞かせていた。
『名』とは物事を認識し、その存在を周囲と共有するためのツールであると。
では、と幼いアーサーは祖父へと何気なく問うた。
「名も存在もあやふやなものと接する際は、どうすればいいのか」と。
孫息子からの何気ない問いに、祖父は瞑目し長い長い熟考を経てからこう答えた。
「仮の名前を付けるか、本人へ直接問いをかけるべし」と。
「いつ来てもここは綺麗ねぇ。
せせらぎの音や、小鳥の鳴き声が響いて。
とっても神秘的で……」
「そうですね。
人が忌み嫌う森の中にあるのが、信じられないくらいです」
空を覆うように茂る黒蝶真珠の葉々が、森全体を囲っていた。
それはまざしく自然の天蓋。
偶然にそれができたにしては奇跡的すぎるが、人の手ではどう足掻いても生み出せない代物。
この薄闇を維持する元凶でありながら、せき止めた陽光を一心に受け幽かな木漏れ日を生み出す姿は、
神の作りたもうた芸術とさえ呼べるものだった。
森の天蓋を振り仰ぎながら無邪気に感想を述べる乙女に、アーサーも賛同する。
ふたりは今現在、中間地点である浅瀬に転がる岩に腰掛け、周囲の景色を楽しんでいた。
それというのも出発まもなくから、背や腰をさすり
足を重たげに引きずるようにして歩くアーサーを見かねた乙女の提案で、
束の間の休憩を取ることにしたからだ。
食事も睡眠も不要な乙女とは違って普通の人間であるアーサーは、
昨夜の疲れと筋肉痛のせいで、まともに足を動かせていなかった。
「アーサー、大丈夫?」
「だいじょう……ぶではないですね。
すみません、情けないところをお見せして」
「今のところ、情けないところしか見ていないから、
あんまり気にしなくてもいいわよ」
乙女本人はフォローのつもりで発した一言は、逆にアーサーのプライドを深く傷つける結果となった。
浅瀬の周辺にある苔が生え広がった大岩に腰かけたままの姿勢で、彼はがっくりと項垂れる。
そんなアーサーを見た乙女は「あらいやだ、私ったらかける言葉を間違えたかしら?」と
小さく首を傾げていた。
「そういえばこのすぐ近くにあるのよ、ニックスのお墓。
ねぇアーサー、良ければ一緒にお参りに行かない?」
「いいですね。
お供させて頂きます」
そうして暫く経過したころ、ふと乙女はアーサーに提案した。
祖父の墓参りも、そもそも目的のひとつに組み込んでいたアーサーは快く返答する。
10歳で母と共に屋敷を出てからは、もうずっと会ってなかった祖父との念願の再会を
こういった形で果たすことになろうとは、アーサーも予想だにしておらず、
訃報の報せを手紙で受け取った時は、傷心から暫く仕事が手に付かなかったぐらいであった。
ニックスの墓は乙女の言う通り、浅瀬のすぐ近く。
樹木が鬱蒼と生い茂る森の中。珍しく開けた場所に、
今は亡きアーサーの祖父ニックス・N・クロックマンの名が彫られた墓標が鎮座していた。
墓石の前に並び、揃って黙とうを捧げる。
寡黙な性格の祖父は、その性格の通りに賑やかなものや煩いものを嫌っていた。
この場所を乙女が選んで埋葬したのは、なるほど道理に適っていると
アーサーは眼前の墓標を見据えつつ静かに微笑む。
やがて祈りを終えたふたりはどちらともなく目配せをすると、そっと静かにその場を離れた。
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