第27章 tsuibi
鹿沼武人は席に着くと吐息をついた。
(いったい、何がどうなってんだ? )
憮然とした表情でパソコンを起動させる。
嫌でも視界に入る対面の田中沙穂と佐藤佳奈の席には、花が添えられている。
同じ部署内で二人も非業の死を遂げたにも関わらず、誰一人と悲しみに耽る素振を見せる者はいない。
むしろ、ほっとしたかのような、温和な空気がゆるゆるとフロアーを漂っている。
特に彼女達のハラスメント被害者達は、二人の突然の死に、陰で表情を緩め、心の中でほくそ笑んでいる様に思えた。
彼女達のターゲットになっていた篠崎彩夏は複雑な表情で、主を失った二人の席を見つめていた。
そんな彼女の表情に、鹿沼は少しほっとしていた。これで彼女が口元に冷笑でも浮かべていたとしたら、彼は心の底から幻滅していただろう。いくら不条理な仕打ち受けていたとしても、それは死者に対する不徳に値するものだと、彼は考えていたのだ。
彼は知らなかった。あの狂気に満ちた所業を二人に施したのが、篠崎彩夏だと言う事を。
田中と佐藤は、その亡骸の損傷が著しく、エンバーミングは施されたものの、遺族の意志で家族葬が取り行われ、同僚や部下たちは誰も葬儀に参列していない。
二人は通り魔に惨殺された被害者となっていた。
報道では、正体不明の通り魔が、ミートフェスタの来客者を無差別に殺害し、逃走したと伝えていた。その記事事態おかしいのだが、 看護スタッフを殺害した男達でもが、被害者として顔を連ねていたのだ。
あれだけの残虐な大事件だけあって、マスコミ各社も挙ってニュースや特番で取り上げているのだが、どれ一つと真実を伝えているものは無かった。
(事件が大きく湾曲されている――何故だ!? )
鹿沼は首を傾げた。
「鹿沼さん、仕事の引継ぎの件でご相談したい事があるんですが、よろしいですか? 」
ふと気が付くと、傍らに書類を手に佇む黒田の姿があった。
「係長から、田中主任の業務を引き継ぐように言われまして・・・ここでは何ですから、会議室でお願いしたいんですけど、よろしいですか? 」
「あ、ああ。俺も君に聞きたい事があったから、ちょうどいい」
鹿沼は立ち上がると席を後にした。
その後に黒田が続く。
「会議室より、屋上の方がいいな」
鹿沼が黒田に囁いた。
「ですね」
黒田は無表情のまま、言葉短に答えた。
二人は階段を駆け上がり、屋上に出た。
誰もいない殺風景な空間に、熱く焼けた風が吹き抜けていく
高い金網の柵で囲われた、コンクリートむき出しの無機質な空間だが、所々にベンチがあり、昼食をここで摂る者も少なくは無い。
「鹿沼さんが、気にされているのは、報道の事ですよね」
徐に切り出した黒田の一言に、鹿沼は眼を見開いた。
「どうして、分かった!? 」
「何となくです。今朝から腑に落ちない表情で携帯の画面を見ていたりしていましたから」
黒田の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
鹿沼はじっと彼を見据えた。
いつものお調子者の青年の姿はそこには無かった。 聡明な眼光を放つ眼は全てを見通しているかのような静寂に満ちた輝きを湛え、その表情には、穏やかな中に、鋭利な刃物にも似た意識を孕んでいる。
(こいつ、一体何者なんだ!? )
鹿沼の思考が、無数の疑問符で埋め尽くされていく。
昨日、公園から逃走した時から、いつの間にか彼に主導権を握られているのだ。
「報道が思いっきり捻じ曲げられてるだろ。あれって何らかの組織が圧力をかけたって事か? 」
鹿沼は自分の考えをストレートに黒田にぶつけた。
「恐らくは政府の裏の組織が動いています」
黒田は遠くを見るような目線で、淡々と語った。
「Fの事か? 」
黒田は眼を細めると、黙って頷く。
公園から逃走した後、鹿沼は黒田からざっくりと聞いたのだ。
今回の事件には、想像を絶する権力が関わっている――それは余りにも滑稽な、中二病を患ったまま大人になったインフルエンサーが発信する都市伝説の様な内容だった。
だが、実際に常軌を逸した殺戮を目の当たりにし、しかもその事実を捻じ曲げた報道がなされている現状に直面した今、彼は不条理に満ちた滑稽話を信じざるを得なかった。
「Fの目的は何? 」
鹿沼は黒田に問い掛けた。
「封の確保と、その影響を受けた者の保護もしくは処分」
淡々と語る黒田に、鹿沼は表情を歪めた。
「よく分からねえ。そもそも、その封ってのは何なんだ? 」
「これです」
黒田はスマホを彼の前に突き出した。
スクリーンには、一枚の不思議な物体の画像が映し出されていた。
紡錘型の、手足に無いオオサンショウウオかナマズのような形状だが、それらとは明らかに異なる風貌だった。
全身、真っ黒な毛に覆われているのだ。
たわしのような短い直毛で、かなり剛毛の様に見える。
「何だこれ? 」
「分かりません」
「分からないって・・・? 」
鹿沼は訝し気な視線を黒田に向けた。
「生物なのは分かります。ただ――」
黒田は返事に困ったのか、困惑気味の表情を浮かべる。
「ただ? 」
鹿沼は言葉を濁す彼を見据えた。
黒田は意を決したかのように、重い口を開いた。
「信じられないかもしれませんが、封は只の筋肉の塊なんです。切り刻んでも脳も骨も内臓も何も無いんです。さしの入った赤みの肉の塊に過ぎないんです」
「よく分からないな・・・」
鹿沼は苦虫を噛みつぶしたかの様に表情を歪めた。
「UMAだと思って下さい。その生態は、分からないことだらけで、何を食べて生きているのかも分からない。何しろ、口も内臓も何も無い訳ですから」
「こいつが、何かしでかすのか? 突然飛び掛かって来るとか」
「これ自身は、何もしません。問題はこれを食べると・・・」
「どうなる? 」
「潜在的な力を開放出来るようになります。本来、そうなると体の組織が持たないはずなのに、そちらも強化されるようです。でも、問題があって・・・」
黒田が伏目がちに呟く。
「問題って? 」
鹿沼はすかさず追及した。
「封に選ばれれば、その力を自由に操れるようになります。ですが、選ばれなかった場合――あの青年達みたいになります」
黒田は、躊躇いがちに重い口を開いた。
「えっ! 」
鹿沼は
「本能的に殺戮を繰り返すんです。それが何故なのかは分かってはいないのですが・・・」
黒田は言葉を濁した。
「マジかよ。でも、こんな毛だらけの得体の知れないものなんか、喰う奴なんていねえだろ」
「毛を焼くか削いでスライスしたら、極上の霜降り牛の肩ロースと見分けがつかないですよ」
「まさか、あの時の肉? 」
鹿沼は思い出した。あの事件が発生する少し前に、篠崎が保冷庫から持ち出した肉が、自分達の手配した物とは明らかに違ったのだ。恐らくは、かなり高いランクの牛肉のような気がした。ただ表示ラベルは、店頭で提供しているものと同じ輸入牛肉のラベルが貼られていたのだが。
でも、あれは自分も黒田も、それこそ篠崎も食べている。ただその後、客に提供してしまったのだが、あの巨漢三人もその肉を購入した記憶はある。
「あれは違いますよ。あの肉、実は田中さんと佐藤さんがこっそり在庫からちょろまかした国産の牛肉で、しかも等級が高いやつらしいんです。ラベルは、あの二人がすりかえたみたいです。今までも準備のどさくさに紛れてこっそり持ち出して、イベントが終わったら自分達で持って帰って二人だけで打ち上げをやってたらしいですよ」
「本当なのか? 」
「はい、マジです。元々は商談用にひいた在庫なんで、結構管理がずさんなんですよ。それをいい事に、二人でちょくちょくやってたらしいですよ。何しろ、サンプル管理はあの二人がやっていましたからね」
「酷いな」
鹿沼は顔を顰めた。以前、上司からサンプルの在庫が合わない事を咎められた二人が、営業が勝手に持ち出すからだと反対に苦情を言っていたのを思い出した。
何の事は無い。自分達で持ち出していたのだ。しかも、それを営業担当のせいにして。
「営業の同期が言ってましたよ。商談用に手配した肉がいつの間にか減っていて、二人に理由を聞いたら逆切れされたって。変敗してたから捨てたって言われたらしいです。入庫してから冷凍保管してたのにですよ。それも三日しか経っていないのに」
黒田は苦笑を浮かべた。
「あの肉じゃなかったのか」
「ええ、それは間違い無いです。他のお客様も何人か召し上がってましたし、私達以外にも、スタッフ連中が何人かどさくさに紛れて食べています。もしあれが封の肉だったら、大変な事になってましたよ」
「じゃあ、巨漢の三人は何処かでその肉を食べたってことか」
「恐らく。鬼人と化すのは喫食して数分。封に選ばれた者ならば、その力の発動までに一日から数日かかると言われていますから、恐らくは我々のブースの近くで商品を提供していた方達ですね」
黒田の説明に、鹿沼は小さく頷く。
そして深い吐息をつくと、彼はじっと黒田を見据えた。
「黒田」
「はい」
「何者なんだ? おまえ」
鹿沼はじっと黒田を見据えた。彼に問いただしたかったのは、捻じ曲げられた報道の背景だけじゃない。
彼自身の事も、だ。
むしろ、鹿沼の関心はそちらの方がメインだったのだ。
「私は、とある村の出身なんです。先祖代々封を守る任務を背負った」
「何だよ、それって」
「今は地図上には存在しないんですけどね。その村、古の頃から『封』をお祀りし、守ってきてたんです。どっちかってえと、封印に近いかもですね」
黒田は、迷いを少しも見せずに朗々と語り始めた。
「守って来たと言う事は、今はそうじゃないって事か」
「いえ、廃れた訳じゃないんです」
「と言うと? 」
「盗まれたんです」
「盗まれた? 」
「はい。祠にお祀りしていたんですが、襲撃にあって。その時、守人をしていた祖父が殺されたんです」
黒田の眼に紅蓮の炎が宿る。
それは、底知れぬ怒りと深い悲しみが入り混じった、彼の魂の慟哭だった。
「犯人は、分かっているのか? 」
「それが、分かっていないんです。でも、我々も正体を掴めていない謎の組織が存在するのは確かです」
黒田は大きく息を吐いた。
「実行犯は六名。彼らは人知れず村に侵入し、犯行におよびました。いち早く侵入者に気付いた祖父が応戦したのです。祖父が武道の経験があったのですが、多勢に無勢でした。頭を鈍器で滅多打ちにされて殺されたんです」
「犯人はどうなったんだ? 」
「逃げられました。一人を除いては」
「捕まえたのか? 」
「いえ、逃走中に滝つぼに落ちて死にました。封を抱えて逃げていましたから、崩したんでしょうね。ただ、封はそのまま川に流されてしまったんです。死んだ犯人の素性は不明でした。結局、逃げた犯人達は今だに捕まっていません」
「じゃあ、今回の事件で使われた封の肉は? 」
「恐らくは、その組織が元々所有していたものでしょう。もしくは、川に流されてしまった封が使われたのか・・・」
「その組織が拾ったって事か? 」
「いえ、我々の調査では、別の人物です。とある生物学者の手に渡ったのですが、彼自身も封の秘められたスペックを知っていたようです。彼自身も食べたようですが、身近な者にも食べさせたようです」
「そいつはおかしくはならなかったのか? 」
「のようです。ですが、学生にも食べさせたらしく、大勢の犠牲者が出ました」
「そんな事件、あったか? 」
「つい最近起きた、某大学のガス爆発事故を覚えていますか? 」
黒田が、鹿沼を覗き込んだ。
「まさか・・・」
鹿沼の顔が強張る。
それは、彼の記憶にも真新しく残っていた。
「俺はあの大学のOBだからな。事故が起きた学部とは違うけど。マジかよ・・・」
鹿沼の声が、僅かに震えていた。
あの事故の事は鮮明に覚えている。
実際に爆発が起きたとされる研究室も、何度か前を通ったことがあるのだ。校舎自体が六十年前の創立時に建てられた建屋だったから、老朽化が進んでいたのは確かだったので、素直にそう捉えていた。
「あれは爆発事故じゃないです。恐らくは封を食べて鬼人化した学生による殺戮現場を隠すためのでっち上げです。沈静したのはFでしょう。その後、事故に見せかける様に工作したんです」
「何故、そんな必要が? 」
鹿沼は訝し気に彼を見た。
「封の存在を隠す為です。それに、鬼人化した学生も言わば被害者ですから」
「その学者はどうなった? 」
「事故で死んだことになっていますが・・・どこかに逃げ延びているでしょう」
「信じられないような話だな・・・その話だけじゃなく、全てがそうだ」
「でも、実際に起きていますから。鹿沼さん自身も目の当たりにしているでしょ」
「まあ、そりゃそうだけど」
黒田の言うのも、最もだった。
彼自身が異様な現場を目の当たりにし、しかもその事件報道が捻じ曲げられているのも実感しているのだ。
「今回の事件は、その学者なのか? 」
「分からないんです。私達が掴んだ情報では、組織が動いていると・・・でもそれは、確実なものじゃないので、断定は出来ません」
黒田は目を伏せた。
「その組織って、テロリスト集団なのか? 」
「分かりません。どんな思想の集団なのか、何が目的で隠密に活動しているのか、全く分からないんです。ただ、組織の名は掴んでいます」
「どんな名だ? 」
「隠形――そう呼ばれています。でもこれを知っているのは、私達の村でもごく一部の者だけです。その存在に気付いたとなると、我々の身に危険が迫る恐れがありますので。鹿沼さんも気をつけて下さい」
黒田は真剣な表情で鹿沼を見つめた。
「隠形の存在に気付いたからか? 」
「いえ、そうではないんです」
「じゃあ、何故? 」
「封の適合者だからです」
「えっ? 」
鹿沼は驚きの声を上げた。
「鹿沼さん、あなたも間違いなく封の肉を食べている。多分、の日とは別の日に」
「まさか」
「いくら武道経験があっても、素手で鬼人した者とは対等に戦えませんよ。それに、テントを超える勢いで投げ飛ばされても無傷だったでしょ。普通なら、あの角度だと首の骨を折って即死です」
確かに、だった。
鹿沼自身は今までの鍛錬の成果だと思ってはいたが、あの高さ、あの距離を投げとばされて地面に叩きつけられたのだ。普通なら即死、運が良くても重傷は免れなかっただろう。
「噂では、彼らは実証実験と称して封の肉を無差別に人に食べさせ、封に選ばれた者を確保しようとしているようです」
「そんなことをして、どうするつもりなんだ? 優秀な部隊でも作るつもりかよ」
「分かりません・・・正直言って、何をしたいのか」
黒田は悔しそうに唇を噛んだ。
「信じられないような胸糞話だな。でも、今回の事件で封が食べ尽くされていたとしたら、もうこの悲劇を繰り返す事は無いんだろ? 」
「いえ、封は無くなりません」
「どう言う事だ? 」
「封は生命力が強く、ほんの一欠けらの肉片からでも数分で元の個体に再生するんです」
「プラナリアみたいだな。じゃあ、切れば切る程増殖するのか? 」
「それが、不思議な事に、再生するのは一つのみなんです。細かく刻んでも、一つが再生し始めると、他の肉片はどろどろに溶けてしまいます」
「数が増える訳じゃないんだ」
意外な黒田の言葉に、鹿沼は興味を示した。
「単為生殖も分裂もしないので、ずっと一個体のままなんです。私の村で管理していた封も、ずっと一体でした。ひょっとしたら、その組織が村から盗もうとした理由は、二体揃えれば何かしらの反応が起きて増殖する可能性があると考えたのかもしれません」
黒田は不安げに顔を歪めた。
「黒田、お前はどうなんだ」
鹿沼が射貫く様な眼で黒田を見据えた。
「何が、ですか? 」
「ああっ!? 言わなくても分かるだろ! 」
とぼけたような表情で答える黒田に、鹿沼は苛立ちを覚えた。
こいつ、まだ何かを隠している。
「私も、鹿沼さんと同じです」
だが、意外にも、黒田は表情一つ変える事無く、間髪を入れずに鹿沼にそう語った。
「でも、私の場合、鹿沼さんのような超人的な力は発動しませんでした。ただ・・・」
そう言うと、黒田はじっと鹿沼を見つめた。黒田の眼に、刃のような鋭い眼光が宿る。
「!? 」
鹿沼は言葉を失っていた。
驚愕の余りに立ち竦む彼の前で、黒田は怪しげな笑みを浮かべた。
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