第35話 五

 目の前にいるこの初老に入りかけた男は、本当に自分の父親なのだろうか。かつてあれほど自分を愛してくれた〝パパ〟なのだろうか。コンスタンスのことを、「私の可愛いお姫様」と呼んでくれた男と同一人物なのだろうか。

「なぁ、なにも世間に無いことではないんだよ。おまえは十六歳だから、多少ごまかして働けるし、一流のメゾン・クローズなら来る客も裕福できちんとした人が多いし」

 しゃべり続ける彼の顔は父の顔ではなく、男の顔だった。それも社会から転げ落ちた敗北者の顔。実の娘を売春宿に売ろうという最低の男の顔。コンスタンスの背に怖気おぞけが走った。

「珍しい話じゃないんだよ、本当に。ジャクリーヌだって、昔そういうところで働いていたんだよ」

「え?」

 意外な名にコンスタンスは眉を丸めた。

 ジャクリーヌというのは、コンスタンスが幼いとき世話になった家庭教師の女性である。当時、二十五、六歳ぐらいで、眼鏡をかけていつも髪をきっちりと結いあげた生真面目きまじめな雰囲気の女性だった。

「ジャクリーヌは若いときに両親を亡くして、職もなかなか見つからなくてね、しょうがないから一年半ほどメゾン・クローズで働いていたんだ。初等教育の資格を持っているような女性でも、そういう所でいっとき働く女性がいるぐらいなのだから……」

 何故そんなことを父が知っているのか、という疑問すら、もはやコンスタンスの胸にわいてこなかった。おそらく、父はそのメゾン・クローズでジャクリーヌと出会い、事情を聞いて彼女を娘の家庭教師として雇ったのだ。

 コンスタンスは唇を噛みしめた。

(パパは本気なんだわ……。本気でわたしをメゾン・クローズに売るつもりなんだわ)

 コンスタンスは、もはや一刻も父と、いや、この男とは一緒にいたくなかった。

 だが、家では義理の娘を妾奉公に出そうと待ちかまえている義母がいる。

「おい、コンスタンス、どこへ行くんだい?」

 気づいたときはコンスタスは父に背を向け扉に向かっていた。

「コンスタンス、コンスタンス」

 背後で自分を呼ぶ父の声を無視し、コンスタンスは建物のなかを走り抜け、夜のパリに駆け出していた。   

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