秘花の試み

藤枝志野

1

 オットはタラという名を与えた。一方で自分は名乗らず、自分を先生と呼ぶよう伝えた。タラはさしたる感想も意見もない様子で了解した。タラの頭の中を満たしているのは、名前などという馴染みのないものではないのだった。

「やっと旅に出られたっていうのに邪魔するなんて、一体どういうつもり?」

「外は危ないんだ」

「危ない? 危なかないさ。ずっと外にいたからそのくらい分かるよ」

 タラはまくしたてた。綿のような白い髪が窓からの光に輝いている。

「こんな狭苦しいところに閉じ込めるなんて。せっかく一番に飛び出したのに、兄弟たちは今頃うんと遠くまで行ってるだろうね」

「ここにとどまるんだ」

 オットは首を横に振った。

「ここにいても色々なものを見聞きできる」

「こんな窮屈なところで?」

「もちろんだ」

「本当に?」

「約束する」

 タラがひょいと立ち上がった。オットはあわてて元の椅子に座らせた。床に書かれた、タラを囲む赤黒い魔法陣が、においも音もなく煙をくゆらせていた。


 オットは毎日タラに本を読み聞かせ、実験道具を見せて簡単な説明をした。どちらもあまり興味をひいていないようだった。親しい友人が訪ねてきた時は、オットは書斎に鍵をかけて迎え、書斎が片付いていないからと居間で話をした。たわいのないことを二、三話題にした後、友人はいくぶん声をひそめた。

「そういえば君、まだ続けているのかね」

「何を」

 オットは問い返した。友人は机に人差し指で円を描いた。オットは何も言わずにうなずいた。

「こればかりは感心しないよ。君の身が危ない」

 オットは仕方がないのだとでも言いたげに唸った。話を再開してしばらくしてから友人は帰った。

 オットが書斎に戻るとタラが読み聞かせを求めた。オットは短いおとぎ話をいくつか聞かせた。退屈していたのかタラはさらにねだった。オットは水を一杯飲んでから本を再び手に取った。ページをめくっていると机上の小さな鈴が鳴った。オットは書斎を出、閉めた扉に鍵をかけてから玄関に向かった。玄関を開けると揃いのローブを着た三人が硬い表情をしてそこにいた。オットは自分の顔にもこわばりが走るのを感じた。

「こういう者です」

 一人が懐から青いブローチを出してオットに示した。後ろの二人はオットの頭越しに、家の中へと視線をめぐらせていた。

「あなた、禁じ手を使いましたね」

「なんのことですか」

「失礼しますよ」

 ブローチの男はとっさに伸びたオットの腕をかわして家に入った。残りの仲間もそれに続いた。

「ちょっと」

 三人は用心深く目を動かしながら粛々と居間を横切った。

「タラ」

 オットは叫んだ。三人の最後尾を歩く男がオットの方を振り向いた。

「窓を開けて外に」

 言い切らないうちに最後尾の男がオットの肩をつかんだ。オットはよろけて押し戻されながら、

「外に」

再び声を張り上げた。

 ブローチの男が扉を叩くと、扉の鍵はやすやすと開いた。書斎には誰もいなかった。オットは開け放たれた窓の際に衣が引っかかっているのを見た。その衣から綿毛が一つ飛び立ち、床に淀む煙が消えた。




 終

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秘花の試み 藤枝志野 @shino_fjed

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