第9話 月下の柳(その2)
穏やかな川面を、涼やかな秋風が吹き抜けて行く。
赤とんぼが時折ついついーっと、行き過ぎる。
「ふぁ…」
うららかな光景に、雪華はつい大きく一つ
「雪ちゃん、眠たきゃ、横になっていいよ」
「いいえ、そんな…」
慌てて雪華は口を押さえ、顔を赤らめる。
そして、照れ隠しにまなざしを前に向けて、平之助から顔を背ける。
雪華を乗せた小舟はゆっくり川を下っているのだった。雪華は舳先の方に座り、平之助は船尾に立って
こうして平之助は、一年のうち雪華が女学校に通う日は必ず、その送り迎えをしている。
風雨強き日であっても、炎天極寒の日であっても、必ずだ。
そうし始めてもう五年になる。
雪華も十七歳になった。
五年前の秋…。
雪華の女学校への通学が決まった時、その登下校に護衛が必要だと云ったのは、杉戸松五郎であった。
雪華は一人でも大丈夫だと云って断ったのだが、松五郎は許さなかった。
一人で行くと云うのなら、女学校へ通うこと自体を許さない、とまで云った。
「とは云えだな」松五郎は煙管を煙草盆にポン! と一つ叩いた。「実際のところ、誰にその護衛をやらせるか、だ…」
松五郎は前に居並ぶ杉戸組の連中を見回した。
かね、平之助、そして雪華は松五郎の傍らに控えている。
源太郎は勘当されて家にはいない。
「どいつもこいつも」煙管を火皿に突っ込んで一服プカリとやって、松五郎は呆れ気味に云った。「女学生の送り迎えってツラじゃねえなぁ…」
杉戸組の連中はお互い顔を見合わせた。
しかし、何か様子がおかしいのに、松五郎は気付いた。
「ん? どうした。何かあるのか。云ってみろ」
松五郎が云うと、やがて「へい」とおずおずと手を上げた奴がいる。
通称とっぱずれの辰という若い奴で、坊主頭で出っ歯で額に傷があるという恐ろしげな顔をしている。
なのに声がカン高くてとっぱずれているので、この名がある。
「あの、お嬢さん、なんですけどね」そのとっぱずれた声で辰は恐る恐る云う。「その…アノ…マモノ、だって、ホントですかい」
「辰、てめえ何云ってやがる」
そう怒鳴りつけたのは、連中の先頭に座っていた、齢の頃三十半ば位の精悍な顔付き、身体つきの男だった。
杉戸組若頭の若林勘二であった。
若林に怒鳴られて辰は「ひいい、すいません」と平身低頭する。
実はこの時点で、雪華がマモノだと知っていたのは松五郎の他はかねしかおらず、平之助にも知らされていなかった。
若林は辰の所へ行くと、その首根っこをつかみ上げて怒鳴った。
「てめえ何てことを云うんだ。お嬢さんに謝れ」
「若林さん、いいの」雪華は云った。「辰さんを放してあげて」
松五郎が雪華に向かって苦々しい顔で首を振るのだが、雪華はこれに微笑んで首を振り返すのだった。
「みなさんに、やっぱりちゃんとお伝えしなければいけません」雪華はそう云って、両手を畳の上について深々と頭を下げる。「辰さんの云う通り、私はマモノです。死んだ父、花澄無常から、手刀術と云うものを教わりました。…黙っていて申し訳ありません」
平伏したまま、雪華は云った。
誰も何も云わない。
平伏したままの雪華の身体はかすかに震えている。
「俺が黙っていろと云ったんだ」松五郎が低く重い声で云った。「手刀術も俺が命じて封印させた。雪華は普通の人間の娘として、ここで生きて行く」
松五郎はまた一つポン! と煙管を煙草盆に叩きつける。
そしてギロリと杉戸組の連中の方を睨み据え、さらに低くドスの効いた声で云った。
「誰か文句のある奴がいるのか」
「いいえ。滅相もねえ」そう云ったのは、まだ若林に首根っこをつかまれたままの辰だった。「お嬢が謝ることじゃねえよ。頭上げて下さい」
そして辰は若林の手を振りほどいて、畳の上に突っ伏す。
「すいません」辰は泣いている。「俺の方こそ、すいません。嫌なことを云わせちまって」
すると、居並ぶ連中も口々に「お嬢さんすいません」「頭上げて下せえ」と一斉に云い始めた。
ようやく雪華が顔を上げて、一筋頬に流れた涙を拭って微笑むと、一同の間にホッとした空気が流れた。
「このことは」若林が連中に云った。「ここにいるみんなだけの中にとどめておけ。余所の奴には一切他言無用だ。いいな」
杉戸組の連中は一斉に「おう」と叫んでこれに応じるのだった。
松五郎もかねも、指で目を拭っている。
雪華は再び深々と頭を下げている。
ただ一人、平之助だけが呆然としている。
平之助は、雪華がマモノだなんて、この時点まで露ほども思っていなかったのだ。
組の若い連中だって、花澄無常の娘であり、魔弾射ちの丹波や彫鉄と親しい、ということから、雪華もマモノではないかと疑っていたというのに、平之助はまったくそんな風に思わなかったのだ。
組の連中は、単純にモヤモヤが解けてスッキリしたようなのだが、逆に平之助はショックを受けてしまっていた。
そして平之助は、自分がショックを受けていることに、さらにショックを覚えたのだった。
「さてと」松五郎はまた火皿に煙管を突っ込み、一吹かしした。「では、元の話に戻ろうか。誰が雪華を送り迎え…」
「ハイ!」反射的に平之助は手を上げていた。「私がやります。私にやらせて下さい」
雪華がマモノだということに思わずショックを受けてしまった自分の、それが義務であり償いであると、この時の平之助は瞬時に思い込んだのだった。
「おまえ、大丈夫なのかい?」
心配と不安を露わに云ったのは、かねであった。
「…大丈夫ですよ」平之助は無理矢理な笑顔を作って云った。「僕は、バリツも習ってますからね」
本当云えば自信はなかったが、名乗りを上げたからには、平之助は引き下がる訳にはいかない。
バリツには、自信があった。
松五郎は仏頂面の思案顔だったが、やがて「いいだろう」と云った。
…という訳で、雪華が女学校に通う日は常に、平之助が送り迎えをすることになった。
と云っても、それは結構大変な行程なのだった。
浦益という所は、帝都東京の東の境を流れる川の河口にある、わずかな大地と、あとはほとんど砂州と干潟のみで出来ているような、地図で見れば猫の額ほどの村である。
鉄道はなく、橋も一か所にしか架かっていない。
しかもそれは東京側から架かっているのではない。
東京側からは、いったん川を越えて、川の東岸の道を下るか、でなければ船で行くしかない。
東京の目と鼻の先にあるにもかかわらず、まさに陸の孤島といった土地なのであった。
雪華と平之助は、杉戸の家から川までと、川から学校までの陸路以外は、平之助の漕ぐ小舟に乗ってゆく。
これは、地上を行くよりも川の上の方が安全だという、松五郎の考えによるものであり、命令なのだった。
だからどんなに暑かろうが寒かろうが、大雨が降ろうと雪が降ろうと、小舟に乗って行かねばならないのだった。
そして二人はそれを忠実に、というよりやや意固地に見えるほどに、きっちり守っているのだった。
この送迎の始まった初めの頃、雪華と平之助の間には、あまり会話がなかった。
平之助に限って云えば、それまで女の子と接する機会がほとんどなかった彼は、雪華と何を話して良いやらまったくわからなかった。
そのくせ、雪華と離れると、あれこれ話題を思いつくのだ。
ところが、実際にまた雪華と顔を合わせると、それらをキレイさっぱり忘れてしまうか、よしんば覚えていたとしても、いざ口にしようとすると、その話題は急激に陳腐なものに思えてならなくなり、結局、口にするのは止めてしまうのだった。
一方で、平之助はヒマさえあれば学校の図書室に行って、マモノについての本を読み漁った。
自分がマモノについてあまりに無知だと感じたからだ。
平之助が本から学んだことは、次のようなことだった。
マモノとは我が国特有の呼び方であり、漢字では「魔物」あるいは「魔者」と表記されるが、時に「間者」と表わされることもある。
読み方を変えれば「かんじゃ」であり、スパイのことであって、我が国の忍者、密偵ばかりでなく、西洋においてもこのような職に従事する者はマモノが多かった。
マモノは西洋においては
もっとも、陰陽師のような特権的な身分を得たマモノは、世界史的には珍しい。
ほとんどの場合、マモノは被差別階級であり、それは武家政治の時代になって以後、特に明確化されたのであった。
西洋ではキリスト教支配のもとにおいて、中国では儒教によって、同様の明確化が為された。
端的な例として、キリスト教においてはアダムとイヴにリンゴを食わせたヘビの子孫がマモノであるとされた。
我が国では「国産み神話」において男神と女神が合体して国土を産み落とした際に、初め二度失敗して、それらの子(ヒルコとアワシマ)は海に流してしまったのだが、そのいずれかをマモノの先祖に帰する考えがあった。
しかし、実際のところ、科学的にはマモノという種族がどのようにして発生したのか、よくわかってはいない。
いわゆる突然変異の種であろうとは、洋の東西を問わず、研究者たちの一致した説なのであるが、研究者によっては、一般の人間の方が突然変異であって、マモノの方が本来の種である、という説を唱える者もいる。
それが証拠に、古代文明の遺跡には、古代エジプトのピラミッドを始めとする「世界の七不思議」、古代インカのナスカの地上絵、古代中国の万里の長城等々、当時の人間の技術力を越えた(と思われる)ものがあり、それはかつてはマモノの方こそが支配階級であった痕跡なのだ…。
しかしこれには極めて多くの反対意見があり、論争が続いている。
そのマモノの特殊能力とは、どのようなものなのか。
これは大きく、身体的なものと、精神的なものに分かれる。
身体的なものとは、「
「手刀術」とは腕に思念を集中させることによって、これを刀剣のように使用する術であり、「魔弾射ち」とは「
一方精神的なものとは、予知能力であったり、相手の思念を読み取る能力であったり、あるいは霊媒などもここに含まれる。
いずれも幼少時のうちはその能力は混沌としているのだが、それを指導教育することによって、ある一つの能力へと集約して、練磨してゆくのだ。
というようなことを、平之助は本で読んで知ったのだった。
学校では、マモノという種族がいる、という事実以上のことは教わらないので、これらの知識は平之助にとっては極めて興味深く、かつ新鮮なものであった。
それまで平之助がマモノについて知っていたことと云えば、何か怪しい特殊能力を持っていて、それゆえ額に黒い刻印をされている人たち、という程度のものだった。
これは、平之助の無知を責める訳にはいかない。
世の中の人の大部分のマモノに対する知識なんて、そんなものだからだ。
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