第46話 最後の場所
冬が近づくにつれ、僕たちケヤキの枝にびっしりと付いていた葉は、冷たい風に吹かれてことごとく地面に落ちて行った。
公園の地面は、今年も沢山の落ち葉が埋め尽くされた。
昔は、隆也の母親・君枝が一人でそれらを掃除し、片付けていた。
しかし、君枝が介護施設に入所して以来、その役割を息子である隆也と妻の怜奈が引き継いでいた。
今年も毎週日曜日に、二人が朝早くから箒を片手に公園の隅々まで回って落ち葉をかき集めていた。
全ての落ち葉をかき集め、ゴミ袋に詰め終わると、隆也は汗を拭きながらベンチに座った。
「ふう、今年も大変だったな。しかしお前らさ、もう少し落ち葉の数を減らすことはできないのか?」
隆也は僕らケヤキに向かって、恨めしそうに愚痴を吐いた。
そんなこと言われても、これは僕たちケヤキにとっては「生理現象」みたいなものだ。
汗を拭きながらしばらくうつむいていた隆也の顔を、隣に座っていた怜奈がそっと横から覗き込んだ。
「な、何だよ。いきなり脇から覗き込みやがって!」
「疲れてる?ちょっと話があるんだけど…」
「話?」
「うん、お義母さんのことなんだけど」
怜奈は最後に声のトーンを落とし、何か言いにくそうな様子であったが、頷きながら少しずつ語りだした。
「お義母さん、この夏、入所してる施設で倒れたでしょ?」
「ああ、そうだったね。でも、その後すぐ回復したって聞いたけど?」
「いや、その後再発して、もう一度病院に行って診てもらったんだけど……重度の肺炎だったみたいなの。それも、今更治療も施しようが無い位進行していて」
「な、何だって!?」
「肺炎にかかってから、お義母さんは気力も体力もぐっと落ちて、食欲もほとんど無いんだって」
「え、それって、相当ヤバい状態なんじゃないか?」
「そうね。それで、こないだ施設の人から相談されたの。『このまま施設の中で看取りますか?』って、ね」
そう言うと、怜奈は髪を後ろでまとめるしぐさをしながら、目線を落として話を続けた。
「私は、お義母さんの意思が一番大事だと思ってるの。で、こないだお義母さんに会いに行った時、聞いたのよ。そしたら、『この場所で、最期を迎えたい』って……」
「え、ここで!?正気なのか?」
「うん。『この公園のケヤキの木のことが気になる』ってさ。お義母さんは認知症だから、本心から言ってるかどうかは分からないけど、いつになく穏やかな表情で答えてたから、きっと本心かもね。でも、どうしてケヤキの木なのかしらね?普通、「自分の息子」とか「孫」とか言わないかな?」
怜奈の話を聞き、隆也は僕たちケヤキの木々に目を遣った。
おそらく、隆也の頭の中には色々な考えが錯綜しているかもしれない。
「俺も、出来るならばこの場所でおふくろの最期を看取りたい。でもさ、一度は面倒さゆえにおふくろを施設に送った自分が、最期だけここに連れてきて看取るなんて、虫が良すぎないかな?って。こんなに親不孝な奴なのに」
すると、怜奈はクスっと笑って、隆也の肩に手を当てた。
「お義母さんの気持ちに添い遂げること……それだけでもう十分、親孝行だと思うよ。確かに施設に入れちゃったことには、私も責任感じてるけどね」
怜奈は極まりが悪そうな顔をしていたが、その時、隆也は突然ベンチから立ち上がり、真剣な表情で怜奈に話しかけた。
「怜奈、俺、今度はしっかり世話するよ。おふくろが、この場所に居てよかったと最期に思ってもらえるように。そして、最期に俺たちと一緒に過ごせてよかったと思ってもらえるように」
□□□□
数日後、介護施設の車が公園の前に横付けされ、車椅子に乗った君枝がゆっくりと降りてきた。
隆也と怜奈が、たくさんの荷物を手に、自宅へと向かっていた。
君枝の髪の毛はすっかり白く染まり、顔はやせこけ皺だらけで、夏にこの場所で記念撮影した時に比べると別人のようであった。
車椅子を押さえる手も、細々とした棒のように痩せこけていた。
君枝が戻ってから、隆也の家は騒々しくなった。
車椅子で誰の付き添いもなく出かけて、他人の家に勝手に上がりこんだりして、その度に隆也たちは近隣の住民に謝罪していた。
夜中遅くになると、激しく咳き込む音とともに灯りがともり、隆也や怜奈の慌てふためく声が聞こえてくることもあった。
隆也と怜奈の顔は、日に日に疲労の色が濃くなってきた。
そんなある日、君枝が一人で車椅子に乗り、公園にやってきた。君枝はケビンの手前で止まると、何やらぶつぶつと独り言を言いながら、ケビンをじっと見つめていた。
特に何をするわけでなく、ひたすらケビンの全身をじっと見つめていた。
『ルークさん、僕、さっきから君枝さんにずっと見つめられてるけど、何だか怖いよ。この僕に一体何を言いたいわけ?』
ケビンは、君枝にずっと見つめられ、無言の恐怖を感じている様子だった。
やがて、君枝はゆっくり目を閉じ、安心したかのような穏やかな表情を見せると、ようやく口を開いた。
「ありがとう。私はこの場所で暮らせて、そして、あんたと共にここまで生きてこれて、本当に、本当に良かったよ」
それだけ言うと、君枝はケビンの前でこっくりと頭を下げた。
『な、何だよ。今度は僕に対して頭を下げ始めて……やっぱり怖いよ』
君枝はすっかり真っ白になった頭を、ひたすら下げ続けていた。
「お義母さん!そこにいたのね!ダメでしょ?勝手に出て行っちゃ」
公園の外から、君枝を探していた怜奈の声が聞こえると、君枝はようやく顔を上げた。その顔は、安堵感のある穏やかな笑顔だった。
やがて怜奈が公園に姿を見せると、君枝は怜奈に「ごめんな」と小さくささやいた。怜奈は呆れた様子で君枝の車椅子を引き、そそくさと公園の外へと出て行った。
『やっと帰ったか。ああ、怖かった。今日の君枝さん、何だかすごく怖かったよ……』
ケビンはおののいた様子であったが、僕から見ると、君枝は病気であることを感じさせないほど、穏やかな表情であったように感じた。
数日後、薄っすらと東の空が明るくなり始めた頃に、救急車がサイレンを鳴らしながら公園の前に横付けされた。
やがて、一人の老女が、担架に乗せられたまま車の中へと運び込まれていった。
その姿を、隆也と怜奈は心配そうな顔で終始見守っていた。
あの老女は、おそらく君枝であろう。
救急車は、再びサイレンを鳴らして公園から去っていった。
あっという間の出来事だったが、君枝の病状が何より心配であった。
『ルークさん、今運ばれたのは君枝さんだよね?大丈夫かな?僕らに何かできることがあればいいけど……』
『何もできないよ。こういう時に僕たちはただこの場所から、君枝さんの無事を祈るしかない。本当にもどかしいけど、それしかできないんだ』
『そうなんだ……僕らの役割って何なんだろ?何もできず、ひたすら見守るか、耐えることばかりだね』
『そうさ。でもね、そんな姿が人間達の心の支えになるんだよ』
その日の夜、公園の中、スウェットスーツを着込んだ隆也が、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま僕たちの方へ歩いてきた。
隆也の髪の毛には、以前と比べて白髪が増えていた。そして目元には、遠目で見ても分かる位深いくまが出来ていた。
「おふくろ……駄目だった。間に合わなかったよ」
そう言うと、隆也は大きくため息をついた。
「でもさ、最期の表情が驚く程安らかだったんだ。この家に戻ってから、さんざん暴れたり、とんちんかんな行動ばかりしてたのに」
そう言うと、隆也はフッと鼻で笑った。
「確かに、施設に預けたまま看取る方が手間もかからないし、利口なのかもしれない。俺も最初はそうしようと考えてた。でも、我が家に連れてきて、正解だったかもな。最期は本当に満足そうな顔してたよ」
やがて、隆也の頬には光るものが見え始めた。
「おふくろ、お前らケヤキのことが気になってたんだって。お前らの姿が、結婚してからこの場所で生きてきたおふくろにとって、心の支えだったかもな」
隆也は、次第に涙声になり、両手で涙を何度も何度も拭った。
「でもそれは、俺たちも同じだよ。お前らが心の支えだからさ。おふくろの気持ちが痛い程分かったんだ。だから、おふくろの介護、正直すごく辛かったし、大変だったけど、頑張れたんだよな。おふくろの気持ちがもっと早く分かっていれば、施設なんて入れなくて良かったのにさ……」
そう言うと、隆也は地面に手をついて跪き、白髪交じりの髪を振り乱し、顔をくしゃくしゃにして嗚咽した。
『そうか、だから君枝さんは、あの時、この僕に向かってありがとうって言って頭を下げたんだ……』
ケビンは、ようやく君枝の本心を理解したようだった。
強い北風が容赦なく吹き付ける中、隆也はしばらくの間、声をあげ、泣き続ていた。
その時、隆也の泣き声を聞きつけた怜奈が姿を現し、ゆっくりと隆也の傍に歩み寄った。
「ねえ、ここでずっと泣いてたの?」
「だって、俺、自分がみじめで、情けなくて……」
怜奈から目を背け、両腕で顔を押さえて泣きじゃくる隆也を見て、怜奈はしゃがみ込み、ゆっくりと肩を抱いた。
「色々言いたいことはあるだろうけどさ……今夜は寒いし、家に帰って、お酒でも飲みながら一緒に泣こうよ。ね?」
隆也はようやく立ち上がると、怜奈に肩を抱きかかえられ、ふらつきながら自宅へ向かって歩き出した。
その時、真っ暗な空から白い粉がふわふわと二人の頭上に舞い始めた。
『雪だね……ルークさん、今年も寒いのかな?』
『多分ね。でも、寒い冬の後には、暖かい春が必ず来るから。僕らにも、そして隆也たちにも』
白い雪は、真っ黒なアスファルトで覆われた公園の地面をあっという間に真白に染め上げた。
まるで、皆の悲しみをかき消して浄化いくかのように。
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