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城址公園の黄昏時への応援コメント
切なさで胸がいっぱいになりました。
花筏を核とする情景描写の繊細さと美しさに彩られた二人の恋の行方が、お堀に浮かぶ花弁のごとく、滞り、沈んでゆくさま。
智彦さんと菜穂子さんの関係が好きだったからこそ、ショックなのかもしれません。あのリュクサンブール公園で二人が再会した時、智彦は菜穂子の服を「相変わらず子どもっぽい」と思い、「なんだか疲れた顔をしているね」と開口一番言った菜穂子に吹き出しそうになりながらも微笑ましく感じていましたね。けれども、すぐに意志の強そうな琥珀色の瞳を持ったルイーズに魅せられていた彼は、潜在意識で菜穂子に物足りなさを感じていたのやも、なんて…妄想が止まりません。
菜穂子の、
「あたかも目的地をはっきりさせた人が一切の無駄を厭うように、真っ直ぐ前を向いたまま」
という描写、適齢期の女性の心を表しているなぁと唸りました。
着地できないことは遙か前から分かっていて目を背けていた…そして、菜穂子の瞳に最早自分が映っていないと悟る流れ。最後に「どこに?」と聞く彼女。
お見事です。菜穂子にもいろいろな葛藤があるとはいえ、女性の弱さや狡さ、強さを端的に表現されているなぁとしみじみ想いました。
切ないからこそ、胸に残るのですよね。
願わくば、彼らの五年の軌跡をもっと読んでみたいです。
作者からの返信
葵樣
溢美のレビューを頂戴しておりまして吃驚致しました……頂戴したコメントも含めたお言葉の数々、幾度も読み返しております。誠に有り難うございます。
私の頭の中と、拙文をご高覧下さった読者諸氏の中にしか「生きて」いない智彦と菜穂子が今や、慥かに葵さんの中にも息づいて呉れたのだと思うだに著者として心躍る一方、拙文中にて二人の迎える結末には「斯様になってしまいました」とご報告申し上げるより外なく恐縮にも存じます。
時と水の“流れ”とは如何にも古典的な暗喩と云うことになりましょうか、花筏はまさしく筏のように、流るる水に身を委せて、或いは“うねり”に揉まれ乍ら川を下って行く姿に様々な思いを乗せ得るものですけれども、「お堀」と云う流れぬ水の上に浮かぶ筏は果たして何処へ向かうのか……貼り絵のように一分の隙もなく敷き詰まって、それ自体が宛も強固な「地面」のように見えても、作中では「花色」とだけした色味は矢張り紛う方なき「褪紅」で、字の曰く「褪せた紅」と云うことでもありますから、当拙文では「春の終わり」に「沈む」以外にないのではないかと、執筆時には考えたのやも知れません。ここ数日、お寄せ下さったコメントを拝読する度に、私も旧作を改めて読み返す機会を頂戴して、執筆当時のことなど色々と懐かしく思い出しております。
にしましても、レビューでは『La grande ville de l'art一芸術の都にて』との関連に触れて下さり、そこでの描写、殊に智彦が菜穂子とルイーズに向けた視線や彼女らに対して抱いた印象の描写から推測された葵さんの〈読み〉……何を仰いますか「妄想」であるどころかご慧眼かと存じます。又、菜穂子を「結婚適齢期の女性」として切り取り、その心理を分析して下さって、それこそ男性としての私の「妄想」であったかも知れない描写をも肯定的に評価して下さったこと、著者としても安堵致しました。
「彼らの五年の軌跡をもっと読んでみたい」と仰って下さった葵さんへの御礼か、又しても「押し売り」か、分き兼ぬることではございますものの、実は二人の「その後」の一端は『〔稿本〕現代中短篇』に潜ませてありますので宜しければご覧になってみて下さい。カクヨムにて公開しております現代物の幾つかは一寸した「仕掛け糸」で繋がっております(然様なること、本来ならば著者たる私が予めお知らせすべきものではありましょう)……と、申しましても、数年前に智彦や菜穂子その他の「ゼミ生」を語り手とする短篇連立式のオートフィクションの構想を朧気に思い浮かべ乍ら、筆力不足や怠惰、逡巡により今に書き倦ねております(蛇足乍ら、別サイトにて公開しておりました、山中湖文学の森公園と浜離宮恩賜庭園での二人を描いた掌編もございます。近いうちに何れか、お目に掛けられると良いのですけれども)。
何時も何時もご高覧下さる許りか、都度にお言葉頂戴しまして感謝に堪えません。改めまして御礼申し上げます。
城址公園の黄昏時への応援コメント
智彦はなぜ心中しようとしていたのか、2人の間の5年間に何が合ったのか、非常に気になりました。着地できるかもしれないという神聖な願いを、場違いなじゃがいもが全部壊した時に2人は何を思ったのでしょうか。とても興味が惹かれる素敵な作品でした!
作者からの返信
名月 楓 樣
ご企画にお邪魔致しました、工藤行人です。色々と思い巡らし乍ら拙文ご高覧下さり大変嬉しいです。有り難うございます。
花筏の水面は綺麗ですけれども確乎たる着地点(結婚?)では矢張りあり得ない、そのことに気付いていたのに気付かないふりをしていた二人には、じゃがいもによって切り裂かれた現実の水面が残酷に映ったのではないでしょうか。
春に人々は桜花の美しさを仰ぎ見ずにはいられません。上ばかり見ている。けれども、それはまさしく刹那の夢のようなもので、それの醒めた後に見遣った足許には何が遺されているか、直目せねばならぬ時は孰れ必ずやって来るという自戒も兼ねた積もりでおりました。
懐かしい感慨を思い出させてくれる御作も引き続き追わせて戴きますね。ご企画のご盛況をお祈り申し上げております。
編集済
城址公園の黄昏時への応援コメント
水面の花筏には飛び込めないけれど、智彦の「戻ろうか」の一言からは菜穂子への思いやりが感じ取れますし、その一言に対して、「どこに?」と応える菜穂子の一言からも智彦にそっと寄り添う情緒が感じ取れて、桜散る城址公園のお堀端で二人が並んで立っている光景に風情を添えていると思いました。
作者からの返信
中澤樣
此方にもコメント頂戴しておりました。有り難うございます。
拙文の殆どは描写ばかりで叙述が弱い傾向にありますこと、已にお気付きのことと存じますが、そのような中でも、造型された人物の心裡を推し量って追って下さり嬉しい限りです。
拾い上げて下さった「戻ろうか」「どこに?」ですが、改めて久方ぶりに再読してみますに、実はこれは随分と意味深長な遣り取りのようにも思われてきました。お堀の花筏は瀞んでおりますが、私の解釈には俄に揺蕩いが生じ始めております。著者自身の意識していなかったことに、読者の皆さんが気付かせて下さるところ、web小説サイトの愉しいところですね。
追伸:
御作、明日からお邪魔致します。
城址公園の黄昏時への応援コメント
工藤行人様
こちらは、パリに居られた松宮智彦さんと菜穂子さんですね! 静風(きよかぜ)吹く日本の風景に馴染む彼等の姿と会話が、抒情的に伝わってまいります。お堀に敷き詰まった花びらの描写は圧巻です。
「私たち散っちゃったの?」と、咲く前の蕾のような、あるいは花の盛りを見過ごしたかのような彼等の会話は黄昏時の切なさで、其処に予想外のキャストと小道具が乱入して「自分は確実に沈む」と予測する智彦さんの心。何処に戻ればいいのか分からなくなってしまった嫩者たちの心許なさが、浮き彫りになる物淋しい春の絵を見せてもらえた気持ちです。工藤様が描かれる現代的な絵も、また素敵でした❤失礼しましたm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
お気付き下さり有り難うございます。その通りです、リュクサンブール公園から今度は某城址公園に二人が戻って参りました。拙文を丁寧にお読み下さる方(特に我が「語彙の型録」をご愛読下さる方)への、せめてもの感謝を込めたささやかな「おまけ」の意味合いもありますので、そのようにお納め下さいますと幸いです。智彦・菜穂子の物語は、他にも別の公園に場所を移してのものが実はまだ幾つかストックであるのですが、今次の我々に思い掛けず与えられた「創造的休暇」を利用して、未だカクヨムではお目に掛けていない別の拙文も整理した上で、この際、同じシリーズとして纏めて仕立ててしまおうか、などと思案しているところです(頓挫するかも知れませんが……)。
それから、花筏の描写、お褒めに与り嬉しいです。カクヨムでの公開に際して補筆こそ施しておりますが、実はこの「春の終わり」は、思うところあって6年前に私が初めてネットで公開したいわば処女作でして、その中でも花筏の描写は、当時、渾身から物した描写であっただけに感慨も一入です。また「予想外のキャストと小道具」は実は私の創発に成るものではなく、紹介文にも記しました通り、即興小説バトルのお題と必須要素の「無茶ぶり」あればこそ偶発したものでして、そういった「制約」がなければ、私の中から自ずと発する類のものではありませんでした。それが意外性という形で奏功しているのであれば、案外、「制約」を掛けられて結晶した散文というのは、作者当人の持つ力量を超えて別の可能性を引き出してくれるのかもしれませんね。
追伸
昨日の「豊穣―」の一気読み、ビビりました! 「しっかりと地に足と♡をつけて参りたく……」とのお言葉も有り難く、また、宵澤さんのご健脚に踏破されてしまわないよう、言葉の海陸を今後も能うる限り拡げて参る所存です(けど、早晩、踏破されてしまいそうな予感も致しております……)。
ともあれ、今後ともお付き合いの程、伏してお願い申し上げます。
城址公園の黄昏時への応援コメント
桜短編文庫、ご参加いただきありがとうございます。
城好きとしては目に浮かぶような見事な花筏の描写に浸りました。
やはり、足場には石垣を組み、その上に桜を植えないといけませんね。
通じて面白い比喩でした。
作者からの返信
書捨御免樣
初めまして。桜短編文庫の企画に(黙って)参加させて頂きました工藤行人です。その節は失礼致しました。また、此度は拙文に☆と応援コメントを下さり有り難うございます。
御作の「短編 同志のさくら」、歴史ある学校が消えてしまうという、もの悲しさの漂う舞台設定も相俟って、去り往く淡い青春の最後の一齣として読み進めておりましたが、一転して中途で意想外にひっくり返り、え、と思わず小さく声を上げてしまいました。仕掛けがお上手ですね。
まだ確とは他の御作を拝読していないのですが、お見受けするところ歴史もの(近世でしょうか?)でご健筆を振るっておられるご様子。私も先週あたりから、徳川実紀に見える説話的断章をもとに寛政年間を舞台として想定した新作を書き始めておりまして、歴史ものに特有の「考証」という不如意に早くも出端を挫かれそうになっております……。
近いうちに、他の御作も拝読しに伺えればと思っておりますので、宜しくお願い致します。
編集済
城址公園の黄昏時への応援コメント
先日はご丁寧なご返信をありがとうございました。
葵春香様のレビューを見かけ、御作『La grande ville de l'art一芸術の都にて』との関連を知り伺いました。前作と同じく、公園を舞台としながらも、パリと日本との空気や色彩の差異が語彙からも感じられました。静風、瀞んで、雪洞など、言葉のひとつずつが城址公園に相応しい情趣(浅はかな感覚かもしれませんが)を醸すようで、その筆致の妙に感服しております。二人の関係性や心情を仮託したような情景描写の細やかさ、こと花筏を通して綴られる機微には、花見の後の気怠さとはかなさを覚えます。筏とは名ばかりの、堀の中の花筏はただ滞り沈みゆくほかなく、彼の心情の澱もまた花弁とともに沈潜するのだろう……と遣る瀬無い、その恋の破綻が景色に似つかわしい物語でした。末筆ながら(このような場でお伝えするのは無作法と存じますが)、拙作のご高覧にも心より感謝申し上げます。
2025.05.04 追記
ご多忙の折、ご丁寧なご返信をありがとうございました。
稚拙な感想ではありますが、受け止めてくださり安堵しております。個人的な好悪もひとつの指標となるのではと思いつつ、その作品に適切な言葉であるかどうかは客観視が難しい部分でもあると省みています。拙作に必然性を見出していただけたのであれば幸甚です。また、菅原先生の歌集もご覧くださり嬉しく思います。和歌、近代短歌にも疎く、現代短歌そのものにも慣れ親しんでいるわけではないのですが……昨今において、短歌に感情の吐露としての尖鋭さを求める風潮のある中、ことばを編むことの尊さを感じる歌集と思っております。偶然にも、御作との共通点がありましたこと興味深く拝読しました。(お言葉を受け、連休中のみですがコメント欄を開放いたしました……もしよろしければご活用ください)
作者からの返信
蘆 蕭雪 樣
葵春香さんのレビューから拙文ご高覧下さったとのこと有り難うございます。葵さんにも御礼を申し上げましたものの、本来であれば、両拙文の関係を著者として読者の皆さんに予めお知らせすべきであったやも知れぬと、今になって些か反省も致しております。良い機会を頂戴しましたから、今後はその点も少し考えてみようかと存じます。
「パリと日本との空気や色彩の差異」……二人の恋愛の、同じく一齣ではあっても、矢張り場処の異なれば用いる語彙も微妙に変わるのでしょうか、著者として必ずしも意図して工んだ積もりではなかったと思うのですけれども「城址公園に相応しい情趣」と仰って下さり、私も改めて読み返してみまして、慥かにそうかも知れないと著者乍らに納得させて戴いたような気の致します。「相応しい」と云う感覚は謂わば必然性の問題と関連しているように思われる一方、事自らの物する文章となりますとそれがてんで分からなくなり、実はそれが「好き嫌い」と云う似て非なる基準にすり替わっているのではないか、単に自らの書きたいように書いている「だけ」ではないか、などと、指摘を受けて省みることもございますので……その点、先だって拝読しました『甘葛』は近代美文を柔らかにした風合い、内容にも語彙にもそうすべき必然性の感じられ(鏡花を読まれた後にお書きになったのですね)、大変好もしい秀作とお見受け致しました。御作にも折々にコメントを残せると良いのですけれど……。
処で、ご教示下さった歌集を昨日で読み終えまして、「フランスの景色を日本語で綴る」と仰る意味が何となく解ったような気の致しました。静謐なる熱感のある御本で、ことばとしても特に「ゐる」の独特の用語法などが印象的でした。クリュニー美術館で詠まれた御歌から始まる連作の中には、リュクサンブールに在る「いにしへの妃たち」の像を詠まれた御歌も含まれていたのですね。美術館から公園は目と鼻の先、因みに拙文中に登場するルイーズの名前は、その「妃たち」の御一方であるルイーズ・ド・サヴォワから頂戴したものでした(要らぬ自作語りをば失礼致しました)。
和歌と云えば、私は前近代のもの許り読んでおりますけれど、現代短歌も偶には読むべきかも知れません……改めましてご教示に感謝申し上げます。