2章2話:激情
練習を終えてからの体育館の戸締りや更衣室の鍵閉めは、主将の神嶋の仕事である。人のいなくなった体育館は物寂しいが、その空気感も嫌いではなかった。
体育館を施錠して校舎に向かう階段のところまで行くと、他の二年生が待っていた。
「お、お疲れさん」
「神嶋も来たし、さっさと帰るか」
能登と川村がそう言ってスマートフォンから目線を上げ、それを制服のポケットに突っ込む。
北雷高校では、原則として生徒の校内での携帯電話使用は禁じられている。しかし彼らの根城である旧体育館は、校舎の目の前にある広大なグラウンドを横切り、さらに階段を上らないといけないほど遠い。そのおかげで滅多に教師も来ないため、使ってもそれを見咎められる危険性も低い。自転車部や野球部も部室でスマートフォンをいじっている。
「それにしても、海堂の考えることってマジですごいよな。動画使うとか誰も考えなかったじゃん」
「それな!視点が違うんかな、アイツは」
「めちゃくちゃ役立ったよな、動画」
「うん。やっぱり客観的な視点から見るのは大事だよね」
階段のすぐ脇には桜の木が生えている。春になって遠目で階段を見ると、薄桃色の天蓋の付いた道が出来ているように見えるのだ。その桜はすでに散り、五月を目前にした青空には葉桜がある。
薄い桜の葉を通して降り注いでいくる光を全身に受け止めながら階段を降りていく。ブレザーを着ていると暑いので、その場にいる四人はみんなシャツ一枚だった。
「じゃあ職員室に鍵返してくる」
「オッケー、じゃあ待ってるわ」
「悪いな」
「別に」
校舎の昇降口で上履きに履き替え、職員室に向かう。校舎の一階は外の暑さが嘘のように涼しかった。
校舎の一階、その一番奥まった場所に職員室はある。そこでスポーツバッグを下ろし、扉を軽くノックしてから細く開ける。
「男子バレー部二年の神嶋です。顧問の間宮先生はいらっしゃいますか」
一応こうするのがルールなのでやっているが、北雷高校の教室の扉の高さは一八〇センチだ。神嶋より一六センチも低いので、実は職員室の中は扉上の窓から少し見える。それに加え、入退室の際は頭を下げないといけなくなる。本当に、バレーをやっていないと使いどころの無い身体に成長してしまった。
「はいはい、お疲れ様〜」
職員室の中から出て来たのは、顧問の間宮優一。北雷高校で理科を教えている教師である。いつも白衣とメガネがワンセットで、針金のように細い身体をしているのが特徴だ。
「体育館の鍵です」
「はい。確かに預かりました。怪我とかしてない?大丈夫?」
「はい。何事もなく終わりました」
「うんうん。それが一番。……そう言えば、神嶋君」
唐突に思い出したように間宮は言った。
「神嶋君はいつも唇が荒れていますね。痛くないんですか?」
思わず口元を手で覆う。
「そんなに気になるほど荒れていますか?」
「ええ」
その言葉に、神嶋は無理に笑って返事をした。
「……痛くないですよ」
「……そうですか。じゃあ気をつけて帰ってください。また明日」
「はい。失礼します」
乾燥して痛む唇を軽く舌で舐めると、血の味がする気がした。
「お、戻って来た」
校舎の外に出ると、そこに能登と川村と野島が校舎横の花壇に座り込んでいた。
「遅くなった」
「ううん。間宮っちいた?」
「いたぞ」
「今、間宮っちは白衣着てないと分かんないよねって話してた」
確かに、と軽く笑ってから四人で肩を並べて歩き出す。正門前には陸上部がたまっていて準備運動をしている。これから長距離を走るのかもしれない。
正門前の坂を下っていると、前から自転車部の部員たちが上ってくる。この急な坂をよくそんな速さで上れるものだと感心しながらその横を通って行く。
「チャリ部ホントすげえな!」
「だって十年前くらいからずっとインターハイ出てるんデショ?毎年、全国ベスト十入りジャン」
「全国ベスト十ってやばいよな。四十七都道府県の十番目以内だろ?」
「推薦で進学する人いるし」
北雷高校は自転車競技部の強豪校である。最近になって吹奏楽部が成績を上げてきたが、彼らに言わせると大したことはないらしい。
「垂れ幕かかるよな、学校と駅に!」
あれは憧れる!そう言った川村に、神嶋はニヤリと笑って見せる。
「……じゃあ、来年のこの時期には男子バレー部全国出場の垂れ幕がかかっているように努力しよう」
一瞬他の三人が静かになったが、すぐに三人とも同じようにニヤリと笑う。
「カッコいいこと言うな〜!」
「じゃあ全国出場じゃなくて全国優勝にしちゃう?」
野島の一言に川村は「大口叩きすぎ!」と言いつつも満足げである。
「……みなさん、腹減ってません?」
能登が唐突にそう言うと、いきなり場が静まり返る。
「……減ってます」
「坂を下りたとこにあるコンビニに寄って行きませんか?」
「寄りますか」
運動部の男子、それも食べ盛り育ち盛りの若者。半日動き回って空腹にならないわけが無い。
「神嶋は?どうする?」
「……今日は親がいないから帰る。羽を伸ばせるからな」
「ああ、そっか。お前、親と仲悪いんだもんな」
能登の言葉に神嶋はまた無理に笑い、一人で駅のほうへと向かって行った。
「神嶋ってさ、自分のこと話さないよな」
「確かに。アイツのこと誕生日とか出身中学とか好きな食い物くらいしか知らないかも」
川村の言葉に能登は頷き、それに野島が口を出す。
「でも意外とそんなものじゃない?」
「そうか〜?兄弟の話とか、する奴はするだろ」
「じゃあ神嶋はしないタイプなんじゃない?おれもあんまり話すほうじゃないし。教えたところでどうしようもないジャン」
教えないタイプの人間はそう思ってる。という言葉に能登は頭をガシガシとかいた。
「まあ別に何でもいいや。神嶋のことを詳しく知らなくても、一緒にバレーやれてりゃ俺はそれで十分だ」
坂の麓にあるコンビニの自動ドアをくぐると、電子音が青空に響いた。
(親と仲が悪い、か。……まあ、間違いじゃないな)
それから少し経った頃、神嶋は自宅の最寄り駅の改札を通るところだった。
(仲が悪いで済ませていいのか分からないが、説明する分にはそれが一番楽だ)
駅のホームには土曜の昼間だからか普段よりも人がいる。
時計を見ると、午後二時まであと少しだった。十二時頃に感じていた焼けつくような空腹感は、慣れてしまったのかすっかり鳴りを潜めている。スラックスのポケットに入れたスマホがピロンという通知音をさせるので開くと、部活のグループに何かのファイルが送られてきていた。
グループのチャットを開くと、送られて来たのは海堂からのファイルだった。
『一つめのファイルは、今日の最後の紅白戦の映像です。後できちんと編集したものを送りますが、とりあえずこれでさらうことは出来ると思います。暇なときにでも見てください。二つめのファイルは改善点についてまとめてあります。開けない人がいたら教えてください。スクショしたのを送ります』
事務的でムダの無い文章。話すときも書くときも同じ感じになっているなと思いつつアプリを閉じる。
(昼飯食いながら見よう)
駅のすぐ目の前の坂をゆっくりと歩いて行く。この坂を上った先にある住宅街の真ん中あたりに位置する大きなマンションの一室が神嶋家である。
(そう言えば、前にこの坂で転んだな……)
あれは確か七年くらい前の寒い冬の日だった気がする。ちょうどその頃地域のバレーボールチームに入ったばかりで、その日は体育館での練習日だったのだ。
ちゃんとした体育館で練習出来る日は決して多くない。そのおかげで、自分も年子の兄もテンションが上がっていた。ついつい調子に乗って「どっちが先に体育館に着くか競争しよう!」という話になり、ブレーキをギリギリまでかけなかった神嶋は前日の雨で濡れていたマンホールで滑って横転した。
ヘルメットのおかげで頭は守られたが、左半身を強く打って痛みで指一本動かせなかった。そのとき兄はすっかり動転してしまい。
(……!)
そこまで思い出して、神嶋は唇を噛んだ。しかし血は滲まない。右手をグッと握りしめその場に立ち止まる。
(兄貴のことなんか、思い出さなきゃ良かった)
ぎりりと歯を噛みしめ苛立ったように息を吐いて神嶋は再び歩き出す。
やがて坂を上りきって角を曲がるとマンションが見えた。そこから自宅のベランダをじっと見つめ、とある物を探す。
(……よし、無い。まだ帰ってない)
それが無いことを確認してから歩き出した彼の歩調は先ほどよりもいくらか早い。
足早にマンションのエントランスに入り、オートロックの扉を鍵で開けた。エレベーターを捕まえて十階のボタンを押す。
(このエレベーター狭いんだよな……)
一九六センチという長身のおかげでマンションのエレベーターが狭く感じられてならない。自分の体格の問題せいであることは分かっているが、それにしたってもう少し広くてもいいのではとエレベーターを使うたびに思っている。
エレベーターが十階に到着すると廊下の突き当たりの角部屋の扉を開けた。
「ただいま……」
玄関に入り足元を見ると、家族の靴は一足も無かった。土日の昼間は大体両親がいなくても兄がいるので珍しいなと思いながらリビングに行く。部屋の換気のために窓を開けば、五月を目前にした爽やかな風が部屋を通り抜けた。
そのとき、ダイニングテーブルの上に小さな紙が残されていることに気がついた。父親の角ばった字で何か書きつけてある。
(……堅志の試合を観に行った後、母さんと三人で小田原の実家に顔を見せて来るので、昼と夜の食事の支度は自分でやること。母さんが作り置きしてくれています。後片付けはきちんと済ませて母さんの手を煩わせないこと。それから勉強もしっかりしておきなさい。帰ったら確認します……⁈)
そのメモは次の瞬間、神嶋の手の中でぐしゃりと無機質な音をさせて握り潰された。
再び唇を噛みしめる。今度こそ唇が切れて血が滲む。
(ふざけるなよ……!俺のこと信用してないにも程があるだろ……⁈)
苛立ったまま冷蔵庫を乱暴に開くと、青いタッパーに入ったマグロの漬けが目に入る。
(くそ!マグロ食わせときゃ黙ってると思いやがって!そりゃあマグロは好きだけど!)
顎の線がぐっと盛り上がって噛みしめた唇からは更に血が滲む。怒りに任せて冷蔵庫の扉を閉めた。中に入っている調味料のビンが揺れてぶつかる音が聞こえる。
(兄貴にはあんなこと言わねえだろ!ふざけんな!)
冷蔵庫に手を突いて足元を見ながら歯を噛みしめ、どうにか怒鳴るのを堪える。そのとき、白い台所の床に赤い点が出来て急に頭が冷えた。唇を触るがそちらは滴るほどの出血ではない。自分の顔をペタペタ触ると、上唇の辺りにヌルヌルとした液体があることに気がつく。
「鼻血……」
勘弁してくれ、と一人で呟いてからテーブルの上のティッシュケースに手を突っ込んだ。
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