未来視マッチ ~設計された悪夢~
暁ノ鳥
第1幕:測られた崩壊
七つの時計の針が刻む、不協和音にも似た微かな囁きが、杉本明(すぎもと あきら)の空間を支配していた。
カチリ、カチリ、チッ、チッ――。
それぞれが異なるリズムで、彼の設計した「完璧な時間の構造」を奏でている。
築五十年を経た団地の一室。
壁紙は黄ばみ、天井の隅には雨漏りの染みが地図のように広がっているが、杉本の意識はそこにはない。
彼の視線は、壁に貼られた巨大な青焼き図面――。
かつて彼が魂を注ぎ込んだ「21世紀記念タワー」の立面図に注がれていた。
その図面は、わずかに傾いていた。
精密な水準器を当てると、針は正確に左へ3度振れる。
何度測っても結果は同じだ。
設計そのものは完璧だったはずだ。
美は、永遠でなければならなかった。
しかし、この部屋では、彼の最高傑作すら歪んで見える。
「……違う」
乾いた唇から、か細い声が漏れる。
指先が震える。
人差し指と中指の爪の間に深く刻まれた、無数の測量痕。
設計士としての栄光と挫折の印。
彼はその指で、床に落ちた午後の光が描く六角形の模様をなぞった。
その輪郭を執拗に計測し、1.2ミリの非対称性を見つけ出しては、神経質に顔をしかめた。
完璧ではない。
ここも、完璧ではない。
その時だった。
視界の隅で、赤いものが揺らめいた。
――炎。
燃え盛る炎の中に映る、自分の顔。
杉本は息を呑み、幻視に身震いした。
心臓が冷たい手で掴まれたように軋む。
六年前の悪夢。
タワーの一部が崩落したあの日。
計算ミスなどでは断じてない。
あれは、美への冒涜に対する、世界の報復だったのだ。
けたたましい電子音が、彼の思考を断ち切った。
固定電話の呼び出し音。
壁の時計の一つが、12時13分を示している。
ディスプレイに表示された名前は「裕子」。
五年前に別れた元妻だ。
「……もしもし」
掠れた声で応答する。
「明さん? 私だけど」
電話の向こうから聞こえる裕子の声は、かつての快活さを失い、どこか疲れた響きを帯びていた。
彼女は現在、杉本とは対照的に、新しい家庭を築き、安定した生活を送っているはずだった。
だが、その声色には、拭いきれない諦観のようなものが滲んでいた。
「ああ」
「もうすぐ隆太の誕生日でしょう? 何か、欲しいものとか聞いてないかなって」
隆太。十二歳になる息子。
建築に興味を示し始めている、唯一の希望。
しかし、杉本の意識はすでに電話から離れ、壁に走る微細な亀裂へと吸い寄せられていた。
長さ11.2センチ。
壁面に対して正確に23度の角度で、それは存在していた。
彼は受話器を肩と耳の間に挟み、ポケットから折り畳み式の金属製スケールを取り出すと、ひび割れの深さを測り始めた。
0.7ミリ。
数字が脳内で完璧な座標を形成する。
「……聞いていない」
「そう。あの子、最近あなたのことばかり話すのよ。昔の設計図とか引っ張り出してきて……少し心配で」
「心配?」
杉本は眉をひそめる。
ひび割れの計測に集中していた彼の思考が、わずかに乱される。
「何がだ」
「ううん、なんでもない。プレゼント、何か考えておくわ。じゃあ、また連絡する」
一方的に切れた通話。
ツー、ツー、という無機質な音が、七つの時計の囁きに重なる。
杉本はスケールを仕舞い、無意識に洗面所の鏡へと歩を進めた。
蛍光灯の下に晒された自分の顔。
四十を過ぎた男の、疲れ切った表情。
彼は震える指先で、自分の顔の左右非対称性を測り始めた。
眉の高さ、0.8ミリの差。
頬骨の幅、1.2ミリのずれ。
許容できない欠陥だ。
「……ずいぶん、老けたな」
呟いた瞬間、鏡の中の顔がぐにゃりと歪んだ。
深い皺が刻まれ、目は落ち窪み、皮膚はたるんだ老人の顔。
杉本は息を呑んで後ずさる。
『お前は、誰だ?』
耳元で、乾いた囁き声が響いた。
部屋には誰もいない。
幻聴か?
いや、違う。
この声は知っている。
彼は慌てて壁に目をやる。
七つの時計が示す時刻。
12時13分、12時15分、12時17分、12時20分、12時24分、12時28分、12時30分。
最も早い時計と遅い時計の差は、正確に17分。
彼の制御下にある、唯一の完璧な構造。
時間の美。
彼はそのずれが生み出す調和に、束の間の安堵を見出した。
隆太へのプレゼント。
何か、形に残るものを。
杉本は重い腰を上げ、埃をかぶったコートを羽織った。
かつて足繁く通った、下町の商店街へ向かうことにした。
完璧な贈り物を見つけるためには、完璧な手順が必要だ。
◇
冷たい雨がアスファルトを濡らし、再開発によって無機質なビルが立ち並ぶ風景を鈍色に染めていた。
かつての面影はほとんどない。
古い木造家屋が取り壊され、真新しいチェーン店が幅を利かせている。
杉本はこの変わり果てた風景に、自分が場違いな異物であるかのような感覚を覚えていた。
世界から、3度傾いて取り残されているような。
アーケード街の入り口近く、奇跡的に昔のままの姿で残っている老舗の和菓子屋「亀屋」に、彼は吸い寄せられるように立ち寄った。
「おや、杉本さん。お久しぶりですな」
白髪頭の店主が、ガラスケースの向こうから顔を出した。
皺の深い、人の良さそうな顔。
この男は、杉本がまだ裕子と結婚していた頃からの顔なじみだった。
建築家としての杉本の成功も、そしてその後の転落も、おそらくは知っているだろう。
「ご無沙汰しています」
杉本は短く応える。
「いやはや、この辺りもすっかり変わっちまって。寂しいもんですな」
店主はため息をつきながら、外の景色に目をやった。
「昔ながらの店は、もううちくらいのもんですよ」
「……そうですね」
店主と当たり障りのない会話を交わしながら、杉本の視線は商店街の奥へと向けられていた。
雨に煙る通りの向こう、古い建物が密集する一角に、何か異質な光が見えた気がした。
「あの店は?」
杉本は無意識に指を差していた。
他の建物の煤けた壁とは対照的に、そこだけが不自然なほど明るい灯りを放っている。
木造二階建ての、古風な佇まいの店。
看板には、掠れて読みにくいが「火影堂」と書かれているように見えた。
店主は怪訝な顔で杉本の指差す方向を見る。
「何のことですかい? あそこには、もう何十年も何もありませんよ」
「いや、あそこに……」
「ああ、火影堂のことかね? あれはもう、三十年以上前に焼けてしもうたんですよ。ほら、あの、御巣鷹山に飛行機が落ちた、あの日と同じ日にね。大きな火事で、この辺りも危うかった。忘れようにも忘れられませんよ」
店主の言葉が、冷たい楔のように杉本の胸に打ち込まれた。
三十年前に焼失した?
では、今見えているあの光は、あの建物は何なのだ?
その瞬間、杉本の視界がぐらりと揺れた。
足元のタイル張りの路面が、まるで粘土のように波打ち、23度の角度で傾いて見える。
胃の腑が引きつるような、強烈な違和感。
吐き気がこみ上げる。
しかし、彼の両足は、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように、意志とは無関係に動き出していた。
雨の中を、あの異様な光を放つ店へと。
◇
「火影堂」と記された古びた木の看板の下、杉戸を開けると、ちりん、と小さな鈴の音が鳴った。
店内に足を踏み入れた杉本は、息を呑んだ。
外観からは想像もつかない空間が広がっていた。
奥行きが異常にある。
店の奥、背面からの光源によって、壁がどこまでも続いているように見えるのだ。
そして、壁と壁が交わる角度がおかしい。
直角ではない。
鋭角でも鈍角でもない。
建築物理学的に、ありえない角度で空間が捻じれている。
彼の建築家としての全感覚が、「これは存在し得ない」と悲鳴を上げていた。
壁一面には、古今東西のありとあらゆる「火を灯す道具」が、博物館のように整然と、しかしどこか偏執的に陳列されていた。
火打ち石、ギリシア火薬の壺、原始的な摩擦発火器、オイルランプ、燭台。
そして無数のマッチ箱。
空気中には、硫黄と、焦げた木材の匂いが濃密に漂っていた。
その匂いが、彼の脳の奥深くに眠っていた記憶の扉をこじ開ける。
五歳の頃、自宅で起きた小さな火事。
台所の天ぷら油に火が移り、あっという間に天井まで炎が舐め上がった光景。
母の悲鳴。
焦げ付く匂い。
断片的な記憶が、不快な熱を伴って蘇る。
「……いらっしゃいませ」
店の奥の暗がりから、静かな声がした。
ゆっくりと姿を現したのは、一人の老人だった。
七十代くらいだろうか。
痩身で背筋が伸び、古風な作務衣のようなものを身に着けている。
白髪は綺麗に撫でつけられ、顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は年齢に似合わず鋭く、すべてを見透かすような光を宿していた。
――この老人は、杉本明の前に立つために、この瞬間に存在している。
杉本は直感的にそう感じた。
老人は、まるで杉本の来訪を予期していたかのように、穏やかな表情で彼を見つめていた。
「建築家の方がお見えになるのは、珍しい」
老人は、細く長い指で、杉本の存在そのものを指し示すように言った。
その姿に、杉本は強烈な既視感を覚えた。
老人の左手首には、古びた革バンドの腕時計。
文字盤が、彼のアパートの窓と同じように、わずかに――正確に3度――傾いて取り付けられている。
そして、その指先。
杉本自身の指と同じように、細かな測量の痕が無数に刻まれている。
さらに、杉本の背筋を凍らせたのは、老人が無意識に行う癖だった。
彼は店内の品々に視線を送りながら、目でその寸法を測り、唇を微かに動かして数値を囁いていたのだ。
それは、杉本自身の、誰にも指摘されたことのない、病的な癖そのものだった。
「あなたに、お見せしたいものがありましてな」
老人はそう言うと、カウンターの下から、黒檀(こくたん)の艶やかな光沢を放つ精巧な木彫りの箱を取り出した。
手のひらに収まるほどの大きさだが、異様な存在感を放っている。
箱の表面には、複雑な幾何学模様がびっしりと刻み込まれていた。
杉本が思わず目を凝らすと、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
それは、彼が設計した「21世紀記念タワー」の基礎構造――。
彼自身しか知り得ないはずの、最も複雑で、最も美しさにこだわった部分が、視覚的に不可能な角度から投影された図案だった。
さらに恐ろしいことに、その模様の中には、彼が幼い頃、息子・隆太と二人だけで作り、誰にも見せたことのない秘密基地の設計図までが、完璧に組み込まれていたのだ。
老人はゆっくりと箱の蓋を開けた。
絹のような赤い布が敷かれた中に、軸の部分まで深紅に染まった奇妙なマッチが、隙間なく整然と並べられていた。
まるで、これから執り行われる儀式を待つ生贄のように。
「未来を照らすマッチです。一日、一本まで。その約束をお守りになる限り、未来の光は、あなたを導くでしょう」
老人は箱から一本のマッチを取り、その赤い軸を杉本の目の前に差し出した。
硫黄の匂いが、一層強く鼻孔を突く。
「ただし」
老人の瞳が、鋭く光る。
「見るだけに、留めなさい。決して、未来を『設計』しようなどとお考えにならぬことです。そうなされば……」
老人の言葉は、店内に漂う焦げた匂いの中に溶けて消えた。
杉本の耳には、ただ一つの声だけが、繰り返し響いていた。
六年前、調査委員会の席で、彼自身が言い放った言葉。
『設計ミスではない。美しさは、完璧だったのだ』
赤いマッチの先端が、まるで生き物のように、微かに揺らめいているように見えた。
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