第27話 シーグルズル・2

「これが最新の写真なのね?」

「そう。三十分前に撮影したばかりのとびきり活きのいい青カビ。天気は晴れ。気温はこの時点で十・五度。キッチンは十四・七度。今日はかなり暖かい日だよ」

 画面の向こうでは腕を組んだままじっと聞いているニカイドウの隣でリカが興味津々に頷いている。なんでも、ニカイドウの話によるとリカはピンチが大好物らしい。

「おかしいのよね。ここでは同じ湿度で〇度から五度刻みで四十五度まで十段階で培養してるんだけど、五度以上あれば発育速度はさほど変わらないのよね」

「温度だけの問題じゃないね。アラスカでも異常増殖していることから低温の方が増殖に適しているのかと思ったけど、まさかのナイロビの例もあるし。ケニアって気温どれくらいかな」

「ナイロビは赤道直下だけど標高千七百メートルあたりだから、夏は日本より過ごしやすそうね。とは言っても今なら二十七度くらいはあるはずよ」

「アイスランドからケニアとアラスカへ……他の国へ渡っていないのが不思議なんだよなぁ」

 シーグルズルと梨香が頭を抱えていると、ずっと黙って聞いていたニカイドウがゆっくりと組んでいた腕をほどいた。

「いやぁ、渡ってるんじゃないかねぇ。ただ繁殖速度が遅いだけで。あちこちに渡っていても、いくつかの条件がマッチしないと大増殖を始めないんじゃないかと思うんだよねぇ。条件が揃わなければただの青カビでしかないってことでねぇ」

「ただの青カビなら湿気大好きじゃないの? 東京は今、梅雨の真っ只中。もしもここに渡っているなら東京で大繁殖する筈よ? なのに東京では繁殖が見られずに乾季に入ったケニアで増殖するのがわかんないわ」

「まあ、アイスランドにアラスカにケニアだから、日本には上陸していないのかもしれないねぇ。ヨーロッパやアメリカに入ったら一瞬だろうねぇ」

「基本的にペニシリウムであることは間違いないから、気温と湿度は関係してるはずなんだけどな」

「それを軽く凌駕する特性を持っているということは間違いなさそうだねぇ」

 なるほどニカイドウの説は一理ある。条件が揃わなければ大増殖のスイッチは発動しない。その条件とは何なのか。

「ところでそっちは食料は大丈夫なの? そろそろ物流がストップしているんじゃないの?」

「ああ、もう飛行機はあまり飛ばないんで船に頼ってる。でもみんな十分ストックしてるから大丈夫だよ。ここも日本と同じ地震国だからね、備えだけは完璧さ。生鮮食料品は手に入りにくいから、缶詰や乾物で凌いでるよ。ただ、あまり長く続かれるとどうにもならないね。車も動かないし、何かあっても救急車が出動できるとは限らない。なんとかして六月中に目途をつけないと死者が出る」

「六月中はちょっと難しいわね」

「これから治安が悪くなるんじゃないかな。情報弱者は僅かなデマで暴徒と化すからね」

 ナイロビの学生とアラスカの留学生がいい例だ。SNSのような匿名性の高いところでは、人々はストレスのはけ口として、より弱い人間を攻撃する。根も葉もない噂が独り歩きし、尾ひれ背ひれを付けて大炎上するのだ。

「それより毎日の掃除が大変だよ。今はどこの家も一日中空気清浄機がフル稼働してる。洗濯物も乾燥機にかけないといけない。外に干すなんて自殺行為だからね。乾燥器の無い家はみんな部屋干しさ。うちもそうだけど。ただ、外はどうにもならないんだ。最近じゃ胞子で空気は霞んで見える。マスクとゴーグル無しじゃ外を出歩けないよ」

「酷いのね。庭木やブロック塀なんかはどうしてるの?」

「ブロワバキュームにフィルターを張って使ってる。日本も準備しておいた方がいいね。基本的にただのペニシリウムだ。普段カビに対してとっている処置と同じでいいよ」

「明日、コメンテーターとして呼ばれてるんだよねぇ。そこで特に大勢に伝えておくべきことがあれば教えて貰えるかなぁ」

 二階堂研究所は科学界ではかなりの大御所だ。大増殖を始める前に彼が広く一般に向けて注意喚起できるのは、日本にとってラッキーだったと言えるだろう。

「今すぐ消毒用アルコールの増産体制を作ること。基本的に単なるカビだからアルコールで簡単に死滅する。あと、自動車メーカーの協力を得て、業務用のバカでかいバキュームを積んだ胞子専用バキュームカーの開発にすぐに着手した方がいい。水拭きすると水分を得て増殖してしまうし、乾拭きだと胞子が舞う」

「あぁ、それは厄介だねぇ」

「そう、だから吸引するのが一番なんだ」

 日本人はこういう技術に関してはとんでもなく開発が早い。恐らく自動車メーカーがこぞって我先にと開発するだろう。

「それとマスクだね。できれば繰り返し使える布マスクの方がいい。PM二・五の酷い時みたいな感じになる」

「胞子が四×七マイクロメートルくらいだから、黄砂を二粒並べたくらいのサイズと見ていいわね?」

「そうだね、それくらい。普通の人がマスクを大量に消費してしまうと、呼吸器疾患の人やカビアレルギーの人にマスクが行き渡らなくなる。コロナウィルスの時がそうだっただろう」

「備蓄用品の買い占めも始まってる?」

「もうその真っ只中だよ。トイレットペーパーなんかどこにも売ってない。エピデミックというよりはインフォデミックにやられてる感じだ」

 非常事態に陥ったとき、最も人を混乱させるのがインフォデミックだ。真偽不明の情報が大量に拡散されて、人々はどれを信じたらいいかわからない。一部の情報弱者が聞いたことを全て真に受けて行動してしまい、それが集団パニックを引き起こすことになるのだ。

「ある程度の情報操作は必要だよ。政府の発表以外は信用しないようにというお触れを先に出しておかないと、ほんの小さな素人の推測が専門家の意見のように語られる。その代わり政府の発表はこまめに、且つタイムリーに」

「まあ、ウチの総理大臣が科学者の話をちゃんと聞いてくれればだけどね」

 確かにそこの問題は大きい。自分たちのような科学者は科学的見地から発言するだけでいいが、国のトップは経済面への影響も考慮してギリギリの判断を迫られる。両方からの板挟みの中で、国民の協力を仰がなければならない。科学者の意見がすんなりと通ることなど、ほぼ無いに等しいのだ。

「ここではカビ毒で死に至るなんてデマが飛び交っていて、火消しが大変なんだ。そっちでは先に毒性がない事を公式発表しておいた方がいい。政府が間に合わないのなら二階堂研究所ラボの発表でも効果はある。むしろニカイドウの名前の方がよほど有効なんじゃないか」

「フフフ、そうかもねぇ」

 ニカイドウ自身、わかっているのだろう。どう考えても日本政府よりは『二階堂研究所』の名で発表する内容の方が信憑性が高い。『ニカイドウ』で発表してしまえば、よほどの偏屈でない限り日本国民のほとんどはついてくる。

「とりあえず僕の方は既に研究できる環境にないから、感染経路を探って発生源を特定し、原因を突き止めることに全力を注ぐよ。カビの殲滅作戦はニカイドウの方に任せていいかい?」

「OK。こちらで何かわかったことがあったらまたすぐに連絡す――」

「待って!」

 突然リカが割り込んだ。

「ネットニュースにヘッドラインが入ったわ。アメリカ西海岸でカビの増殖が確認されたって! シアトルを中心に汚染範囲が南下中。世界がカビまみれになるのは時間の問題よ!」

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