第五章 パートタイマー・クロエ
第15話 クロエ・1
「いつもあんなに夜更かしなのか?」
「まさか。今日はあなたが来たから嬉しくて夜更かししたのよ。いつもはもっと早く寝るわ」
クロエは四カ月ぶりに会う夫とマグカップを合わせた。本来ならグラスにしたいところだが、これから彼は車を運転してパースまで戻らなくてはならない。今日のところはコーヒーだ。
「あの子たちにも寂しい思いをさせてるからなぁ。君も一人で大変だろう」
「そうでもないわよ。お父さんがいない分、あの子たちが頑張ってくれてるの。最近じゃ掃除や洗濯物を干すのだって手伝ってくれるのよ」
「僕がいない方が子供たちがしっかりしそうだな」
「そうかもね」
笑ってはいるものの、久しぶりに会う夫は少し痩せていた。仕事がハードなのだろうか。いくら姉のところと言っても、よその家に居候するのは気疲れするのかもしれない。
「あなたがアフリカに行った日、オリヴィアが来てくれたの」
「姉さん、よく来てくれるんだな」
「うん、助かるわ。子供たちの服とベジマイトと、そうそう、バナナケーキを焼いて来てくれたの。私、あなたと結婚して何が良かったって、あなたのお姉さんがオリヴィアだったことよ」
「僕は二の次かい」
イーサンが笑うとクロエも「そうねぇ?」と冗談交じりに返す。
こうして他愛のない話をするのも久しぶりだ。
イーサンもオリヴィアもどちらかと言うと恰幅の良い体格で、痩せ型のクロエは二人の体格に妙な安心感を覚えるのだ。
その夫が最近少し痩せた。それだけで彼女は言葉にできない不安を覚える。不安というのは大概の場合情報不足から発生するものだ。彼の普段の様子を知りたいのに、いったい何を聞いたらこの不安が解消されるのかクロエにはわからない。
「帰ったら姉さんに礼を言っとかないとだな」
「私がとても感謝してたって伝えてちょうだい」
彼は頷きながらマグカップを口元へ持って行く。こんな仕草一つも、もうずいぶんと見ていなかった。
「それで、アフリカの仕事の方は順調なの?」
「ああ、チームのメンバーが最高だからね。仕事そのものが楽しいよ」
「クルアさんだっけ」
「うん。タンザニアの現地担当がクルア。ケニアからの技術協力がジオンゴ」
ジオンゴ。たしかダンスバラ地震の時にタンザニアに居たイーサンとの回線を確保するために、オーストラリア政府に掛け合ってくれた人だ。
「ジオンゴのお嬢さん、今大学生なんだけど、地熱発電の研究をしているらしいよ。そのうちに仲間になるかもしれない。この前アイスランドに地熱発電の研修旅行に行ったんだってさ」
アイスランド? ついさっきニュースで見たばかりだ。
「スヴァルスエインギ地熱発電所の見学に行って、ついでに隣のブルーラグーンホットスプリングスで遊んで来るって言ってたけど、多分ブルーラグーンの方がメインだろうね」
「今あそこ、大変なことになってるみたいよ。さっきニュースでやってたけど、施設内に凄い量の青カビが発生して営業停止中ですって。ジオンゴのお嬢さん、ブルーラグーン楽しめたのかしら」
「青カビ?」
イーサンが怪訝に眉を寄せた。
「最近いやに多いな」
「アイスランドほどじゃないけど、この辺でも最近多いのよ」
そう言えば、この前オリヴィアが来た時も、イーサンが座っていた車の助手席のシートにカビが生えていたと言っていた。イーサンには内緒にしておいた方が良さそうだが。
「アイスランドなんて寒そうなのに、カビなんか生えるのかしら」
「いくらアイスランドが寒くても、建物の中は暖房入れてるだろうからね」
「ブルーラグーン、建物の中じゃなくて、岩場がカビだらけになったんですって。やっぱり温泉はあったかくて水があるからカビが生えやすいのかしらね」
「温泉と言えば、アイスランドは間欠泉もあったな」
この人は本当に何でもよく知っている――クロエは改めて夫の博識に舌を巻く。
二人の出会いは友人が主催したパーティだった。彼氏に振られた直後で落ち込んでいたクロエを、友達が元気づけようと誘ってくれたのだ。
ところが、誰でも参加できるラフなパーティだというので行ったのに、理系の学生が大半を占めるアカデミックなものだった。お喋りの内容もナントカの法則がどうのとか、誰々の論文がどうだったとかそんな事ばかり。来なければ良かったかと後悔しかけたときに、声をかけてくれた男子学生がいた。それがイーサンだった。
彼は他の男子学生たちと違って聞き上手だった。訳の分からない難しい話を一方的にして来る人達とは別の人種だった。どんな話をしてもほぼついてくるし、わからなければ「それ初めて聞いたよ。詳しく教えて」といって相手に話させるタイプだった。
自信を失って自分の存在価値に悩んでいたころに彼と出会ったのは、クロエにとって最高の幸運だった。彼の「君と話しているととても楽しい」という言葉で彼女は自信を取り戻したのだ。
「間欠泉ってお湯が出るの?」
「うん。生ぬるいのから結構な高温までいろいろ。ゲイシールの間欠泉は、たしか八十度以上の熱湯だった筈だよ。お湯の出る場所はともかく、その周りは高温多湿状態になるはずだからカビは大喜びで繁殖するだろうな」
「ストなんとかっていう間欠泉周辺が立ち入り禁止になってるみたいよ」
「ストロックル間欠泉か。間欠泉とブルーラグーンがダメとなると、アイスランドの観光産業は大打撃だなぁ」
「アイスランドの人には悪いけど、ここじゃなくて良かったわ」
「滅多なことを言うもんじゃないよ」
イーサンは「さて」と立ち上がった。彼が帰る時間なのだとクロエは悟った。滅多に会えない夫との時間はあっという間に過ぎてしまう。これも仕方のない事なのだが、こんな生活を続けることが彼女にはもどかしい。
「今度はいつ来られるの?」
「いつになるかな。ナチュラリステの核廃棄物問題も片付いていないし、タンザニアの仕事もある。メディアの露出も増えちゃったしね」
「またメールするわ」
「うん。僕も」
このキスも次はいつになるのだろう。別れを惜しみながら彼が運転席に乗り込むのを眺めたクロエは、車が暗闇に吸い込まれて見えなくなるまで見送った。
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