第四章 研究所所長・二階堂大地

第11話 二階堂大地・1

「カビか」

 彼は研究所にある自分のデスクで、朝のコーヒーを飲みながら新聞に目を通していた。小さなニュースではあったが、研究者としての彼の興味を引くには十分過ぎる記事だった。

 アイスランドで青カビが異常発生しているという。今の季節、アイスランドの気温は五度から十度、カビが生育するのに適している気温とはお世辞にも言い難い。

 とかくマスコミは大袈裟に書きたがる。異常発生と騒ぐほどのことでもないのだろうが、研究者としてはアイスランドという寒い地域とカビの繁殖の組み合わせが、大いに好奇心を刺激されたのだ。

 記事によると、非常に繁殖力の強い青カビがアイスランド西側で増殖しているらしい。どこにでもいる普通の菌であるという性質上、今までほとんど話題にされてこなかったが、実は四月下旬あたりからレイキャビク周辺を中心に勢力を拡大して来ていたようだ。

 発端はキッチンの生ごみだった。それが今ではシャワールームやトイレといった水場にも生えるという。カビ用の洗剤が急激に需要を増してきたために洗剤メーカー各社が気付いたらしい。

 現在では、前の晩にカビを見かけて放置すると、翌朝にはその周りが青カビで覆われているくらいの状況で、就寝前のチェックが欠かせないようだ。

 人の手が入るところはまだいいが、自然に影響を与えるとなるといろいろ問題が出てくる。そのとばっちりを真っ先に食ったのが、アイスランドの観光地として有名なブルーラグーンホットスプリングスだ。

 あそこは溶岩に囲まれた、天然シリカを大量に含む青い水が特徴の美しい温泉だ。普段は白いシリカの結晶が凝着している黒い溶岩の岩肌も青緑に覆われ、一時的に営業を停止せざるを得ない状況に追い込まれているようだ。確かに多孔質の溶岩の内部にまで菌糸が伸びれば、完全に除去するのは困難を極める。

 他にもアイスランドにはシンクヴェトリル国立公園やストロックル間欠泉など、水場の観光地が多い。にもかかわらず、カビの胞子は人々に付着したままそれらの観光地を巡り、そこに落ち着いて増殖を始めてしまうのだ。

 これは十中八九、いや『八九』じゃない、十中『十』彼女が来る。なんならカウントダウンしたっていい。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……。

「ちょっと、所長いる?」

 ぴったりだ。二階堂にかいどうは満足げにタブレット端末から目を上げると、いつものようにのんびりと彼女に声をかけた。

「おはようさん」

「おはよ! ねえ、見た?」

「カビなら今見てたとこだけどねぇ」

「もちろん研究費、出るわよね?」

「やるのー?」

「当たり前でしょ」

 お金を出すのは彼なのだが、梨香りかは当然といったふうに言い切った。彼女の辞書に「雇用者」と「被雇用者」という言葉は存在しない。

「相手はカビよ。特定外来種なんて脊椎動物、節足動物、軟体動物、植物、どれもこれも普通にそれなりのサイズがあるからどうにでもなるのよ。でもそれがカビになったらどうよ? 胞子が服について移動したら、地球上の南極と砂漠以外の地域どこでも繁殖できちゃうわよ? まさに動物付着散布の典型例、そのうえ風散布も可能」

「まあ、そうねぇ」

 彼は彼女の為にインスタントコーヒーを淹れてやりながら相槌を打つ。

「生態系にも影響するわ」

「その前に経済に影響するんじゃないかねぇ」

「そんなもんは所長と経済学者が考えてりゃいいのよ。あたしには関係ないわ」

 そう言ってのける梨香は、根っからの生物学者だ。古生物から菌類までありとあらゆる生き物が守備範囲らしいということは、高校からの付き合いで十分に彼は理解している。そして彼女がこのモードに入ったら誰にも止められないことも熟知しているので、許可を出す未来も容易に想像できる。

「そもそもペニシリウムってところが妙なのよ。普通はクラドスポリウムでしょ?」

 キッチンや生ごみには青カビペニシリウムも生えようが、バスルームやトイレに真っ先に生えるのは大抵黒カビクラドスポリウムだ。なぜペニシリウムが繁殖しているのか。そこに関しては二階堂自身も真っ先に首を傾げた部分ではある。

「新種ってことかねぇ?」

「そうでなければ在来種の突然変異体。いずれにしてもサンプルが欲しいとこね」

「サンプル送ってもらう? アイスランドか……誰に頼もうかねぇ」

 いきなり彼女が腕を組んで「はぁ」と大袈裟に溜息をついた。

「なんか所長と話してると、全然危機感ってもんを感じないわ」

「そうかねぇ、私はかなりこれ危険だと思うけどねぇ」

 淹れたばかりのコーヒーを目の前に出してやると、彼女はそれを両手で受け取った。

「そのまったりした喋り方に危機を感じないのよ」

 そんなことを言われても、ずっとこの喋り方で生きて来たのだから、いきなり変えられるものではない。彼は苦笑いを以て返事とした。

「アイスランドは現在の平均気温が約七度、ここの気温が約二十度。あの寒いアイスランドで爆発的に増殖してるのに、こんなあったかくて湿っぽい日本に持ち込んだらとんでもない勢いで増殖しそうね。ほんのちょっとのサンプルで無尽蔵に培養できそう」

 心なしか楽しそうに見えるのは、恐らく彼の気のせいではないだろう。彼女は昔から『危機』が大好きなのだ。

「アイスランドの研究施設に知り合いがいるから頼んでみるかねぇ」

「そう来なくっちゃ。研究費用に関してはちゃんと元取るから心配しないでね」

 嬉しそうに笑う彼女に「むしろそっちが心配」などと言えようはずもなく、彼は「今週中に届くよう手配しとこうかねぇ」と曖昧な笑顔を作った。

 ――陰圧ラボを一つ空けないと……苦笑いは心の中だけにしておいた。

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