第9話

 数分後、午後の対局が始まった。二局だけなので解説も楽になる。

 皆川-金本戦は相居飛車。相掛りだ。先手になった皆川さんは引き飛車棒銀を選ぶ。これは、研究会で決めた先手番の時のつっこちゃん対策だった。つっこちゃんは対ひねり飛車が得意で、昔の形に明るい印象。よって、できるだけ最新形で対応した方が得、との判断だった。

 ただ、つっこちゃんの対応は正確だった。時間の使い方も適切で、悪いところが見当たらなかった。他方皆川さんは、初戦よりも顔が大きく映っている。カメラは固定なので、前のめりになっているということだろう。気負っているに違いない。

 まったくいじられていないつっこちゃんの眉毛が、とても眩しく見えた。プロになった多くの棋士が、光というものを持っている。努力だけでは獲得できないそれを、つっこちゃんは持っている。付け焼刃で努力した皆川さんには、残念ながら追いつけない。

「攻め始めるともう止まれないわけですね。先手は玉が薄いので、攻め合いには持ち込めない。ただ、ちょっと切れ模様ですね」

 もう一局は、吉野さんが穴熊から快調に攻めていた。非常に現代的だ。

「現在銀損なんですが、五筋の歩が切れているのが大きいです。垂らせばと金、受けにも利きます。先手は左の銀がさばけていないので、それほど得していない。また穴熊は持ち駒の数がものを言うんですね。桂馬と香車を取れるので、攻めには困らなさそうです」

 そして、そのまま波乱は起きなかった。二人はきっちりと勝ち切り、奨励会員とアマが決勝戦に残った。

 店主から、豆乳を貰った。さすがに大豆のにおいに飽きてきた。

 決勝戦は相矢倉。がっちりとした戦いから、先手の吉野さんが仕掛ける。が、つっこちゃんは崩れない。受けが強いというよりは、基本的に手がしっかりとしている印象だ。これは、師匠から習ったものとは考えにくい。三東さんの手はしっかりしていないから。

 矢倉の先手は、一度間違えるときつい。入玉されるのを防げなくなってきた。

「これは、後手勝ちですね。金本さんは一手も間違えていません」

 最後は指す手がなくなり、先手が投了した。金本月子、初めての棋戦参加で優勝。

「強いなあ」

 観戦者の中から声が漏れた。確かに強い。プロになるまでにはもっと階段を登らなければいけないが、現状ではこれで十分だろう。

 感想戦が終わり、カメラのスイッチがオフになる。

「それでは、これで解説会を終わります。商店街はまだ開いていますので、是非お買い物して帰ってください」

 人々が引き上げていく。俺は携帯を手に取り、「お疲れ様でした」と打って、送信した。



 ついにこの日が来た。

 C級2組順位戦三回戦。二連勝同士、川崎-辻村戦。

 昇級に向けた勝負はまだまだ続く。けれども、この一戦は一番重要な対局だと思っていた。

 くしくも、現状勝率はちょうど七割。これに負けて七割未満になるのは悔しすぎる。

 九時四十分。すでに川崎さんは上座についていた。ペットボトルのお茶とのど飴が脇に置かれている。

 俺は下座に着き、腕時計を外す。そしてカバンから、湯呑みを出した。川崎さんが、一瞬それを覗きこむのがわかった。

 別に何の変哲もない、少し大きめの湯飲みだ。けれども、大事なものでもあった。プロになった時、おじさんが贈ってくれたのだ。小さい頃から唯一俺をかわいがってくれた大人だった。遠くに引っ越してしまい滅多に会うことはなくなったけれど、俺のことは覚えてくれていた。

 高校生には不釣り合いな渋さだったが、気に入った。いつか大事な対局で、使おうと決めていた。

 余韻に浸りたいところだが、C2の日は人が多すぎてどこか落ち着かない。どの部屋も人、盤駒、テーブル、記録係でぎっしりになっている。俺のような十代から、五十代のベテランまで。上を目指す戦いもあれば、フリークラス落ちを避けるための戦いもある。本当にいろいろだ。

 三東さんもいる。正直なところ、順位戦で勝っているイメージがない。このままでは若いうちにフリークラスに落ちてしまうだろう。けれども、前とは少し違う雰囲気も感じる。少し歳をとったというか、父親のような顔をしている。

 振り駒はない。順位戦は先後が決まっていて、俺の先手だ。十時になった。

 一礼して、天井を見上げる。何かを探しているわけではない。残像を消して、頭の中の盤を鮮明にするのだ。

 一分ほど経っただろうか。ゆっくりと初手、▲7六歩。

 川崎さんは盤面にじっと視線を落としている。時折、上唇をなめている。

 しばらくして、二手目△3四歩。

 それからしばらくは、すらすらと指し手が進んでいった。横歩取り3三角。最近特に多くなっている戦法だ。おそらく相手も研究充分だろう。

 湯呑みに注がれたお茶を、一口飲む。いつもと同じ中身だが、少し深い味に感じる。喉の奥が、洗われていく。

 19手目まで進み、川崎さんが考えている。俺は席を立ち、廊下に向かった。何かをしに行くわけではなく、リズムというものだ。

 順位戦の一日は長い。今日は特に長くなるだろう。勝たなければいけない。絶対に、勝たなければ。

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