第6話

 今日は土曜日。毎日学校を休んでいる自分にとっては休日も何もないのだが、土曜日というのは特別な曜日である。奨励会があるのだ。

 プロになる前、奨励会前夜はひどく緊張した。どれだけ実力が上がっていても、明日負ければずっとプロになれない、そう考えると眠れなかった。順調に昇級してはいたけれど、プロになれずに足踏みしている先輩たちの姿は俺を焦らせた。一度停滞してしまうと、なかなか浮上するきっかけがつかめない。そんな様子を目の当たりにして、とにかく駆け抜けなければ、そう思っていた。

 川崎さんに追いついてしまったことも、焦りの原因になった。あの川崎さんが上がれない三段リーグとは、どれだけ恐ろしいところなのか。自分が通用する場所なのか。リーグ戦前夜に安眠した記憶は皆無だ。

 プロになってからも、その後遺症がある。例会前夜はそわそわとしてしまう。そして当日になり、どうしても会館に足を運んでしまう。自分はまだ三段で、四段になった夢を見ていたのではないか。

 七割とかいう勝率は、願望が生み出した幻なのではないか。会館に到着し、自分の対局すべき席がないのを確認して安心するのだ。

 そして、今日も俺の席はなかった。それを見て、外に出る。張りつめた空気に対しての礼儀というか、奨励会の対局が始まると会館にいてはいけない気がしてしまう。俺よりずいぶんと先輩の人たちが、たくさん残って戦っている。四段になれるのは年に四人か五人。毎年優秀な若手が上がってくるし、どう考えてもプロになれない人が何人も出てくる。強い人から順に出ていけるというようなシステムではない。どれだけ安定して勝っていても、上位二人に入らなければ意味がない。半年の間爆発的に力を発揮できる人、そんな人がプロになれるのだ。

 七割勝っても安心できない。ある意味彼らは、プロよりもずっと厳しい競争をしている。運よくすぐに抜け出せた自分には、活躍する義務があると思う。自分より弱い奴がプロになった、とは思われたくない。思わせてはいけない。

「あ……おはようございます」

 か細い声が、後ろから聞こえてきた。振り返ると、つっこちゃんがいた。

「おはよう。今から対局でしょ」

「……はい」

 今日もツインテールがかわいらしいつっこちゃんだったが、顔色がよくなかった。目も少し泳いでいるように見える。

「どうしたの? 体調が悪そう」

「いえ、そんなことは……ただ……」

「ただ?」

「まだ慣れなくて……私その……学校とかほとんど行ってなかったし、こういう人が集まるところとか、ちょっと……」

 今にも泣きだしそうだった。俺が緊張していたのとはちょっとわけが違う。つっこちゃんは、そもそも人間が苦手なのだろう。理由はわからないけれど、そういう人間がいることは知っている。

「人だと思わなければいいんだよ。ただ、将棋を指す。とりあえずはそれだけを考えれば」

「……はい。……あ、ありがとうございます」

「うん。頑張ってね」

 ちょこちょこと走り去っていく、つっこちゃん。勝負の世界で生きていけるようには、とても思えない。けれども彼女の生み出す棋譜には、まぎれもない魅力がある。才能をどこまで生かせるのか。どこまでこの世界に耐えられるのか。

 思い出してみれば、自分だってすぐにここの雰囲気に慣れたわけではない。彼女もいずれ、作り笑顔で乗り切れるようになるかもしれない。俺が少しでも、手助けできるならいいけれど。

 会館を後にする。心の中でつっこちゃんを応援するものの、漠然とした不安も残っている。彼女はプロ棋士になりたいのだろうか。ならなければいけない理由があるのだろうか。わからない。とりあえずこの疑問は、保留しておくしかない。



「辻村……ちょっとお願いがあるんだけど」

「ん?」

 突然かかってきた電話。皆川さんの声はいつになく暗かった。

「なんですか」

「今度……竹籠杯に出ることになって」

「たけかご……? ああ、あれか」

 竹籠商店街杯。若手の女流棋士やアマチュア、奨励会員がトーナメントで戦うインターネット棋戦だ。商店街がスポンサーということで去年話題になっていたが、無事第二回が開催されるようだ。

「それで、絶対負けたくないの」

「はあ」

「だから……その……教えてほしいんだよね」

「はあ」

「ちょっと、何よそのやる気のない返事」

「いや、別に将棋のことならいつでもいいですよ。竹籠杯とかじゃなくても、どんどん強くなりましょうよ」

「……う、うん、まあとにかく、至急なの!」

「じゃあ明日します?」

「え?」

「あしたうち来てくださいよ。みっちり研究しましょう」

「……あ、えーと、わかった」

 皆川さんがここまでやる気を出すのも珍しい。よほど竹籠杯にかけているのだろう。連盟のページで、参加者を調べてみる。若手女流たち、アマ名人の小柴さん、学生代表の額田さん、そして奨励会代表、金本3級。

 なんとなく。何となくだが、皆川さんは彼女たちに特に負けたくないのだろう、そう思った。そして俺も、皆川さんには勝ってほしい。つっこちゃんの活躍にも興味があるけれど、女流プロとして、皆川さんの意地を見てみたい。

 部屋の中を見回す。たいして物はないけれど、人が来るというなら整理した方がいいだろう。この部屋に誰か訪れるというのは、初めてのような気がする。

 よく見ると、カーテンの下に埃が溜まっていた。カーテンを思い切り開ける。光が差し込んできた。明日まで、開けっ放しにしておこう。

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