第9話
バイトを始めてから二週間が経った。相変わらず神代さんは微妙な味の料理を作り続けている。でも……。
「いらっしゃいませ」
店内には会社帰りのおじさんが二人と溝渕さんの姿があった。
「これ美味しいねえ」
「ありがとうございます」
溝渕さんは大根と鶏の手羽元の煮物を食べて目を開く。その言葉に神代さんはもちろん、私も嬉しくなった。
それは一昨日の賄いで私が食べたのと同じメニューだった。あの日は少し辛くて、お醤油を減らした方がいいという話をしたのだ。
どうやら神代さんはそのアドバイスを取り入れてくれたようで、さっき一つ味見させてもらったけれどほろほろの手羽元に味が染みてとても美味しかった。
「前に食べたときは、なんていうかなぁ、少し味付けが濃く感じたんやけど、今日のは今まで食べた中で一番美味しいよ」
そう言うと溝渕さんは煮物を全て綺麗に食べて帰って行った。
そのあと、三人ほどスーツ姿のおじさんたちが囲炉裏を訪れて、中には美味しかったよと言って帰る人の姿もあった。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
閉店時間の二十二時を回ると、私は店内の掃除を、神代さんは外の札を替えカウンターの中を片付ける。そして掃除が終わると、カウンターの中に入り今日の賄いを神代さんと一緒に作る。それが私たちのいつも通りになっていた。
「今日は何にする?」
「何が余ってます?」
「……嫌味か」
余ってない材料より、余ってる材料の方が多いのはいつものことで。へへっと笑うと、私はメニュー表と睨めっこする。今日注文されなかった料理はっと。
「じゃあ、肉じゃがで!」
「あいよ」
神代さんはお鍋に火をかける。弱火でじっくり温めると焦げないのだと言いながら。
あ、でもそっか、今日は肉じゃがだから……。時間のかかる肉じゃがは事前に作っておいて、注文を受けてから温め直してお客さんにお出ししている。もちろん賄いでもそれは同じで。
なので全て仕上がってしまっている今日は、料理を教えてもらうのは無理そうだ。残念。
神代さんは約束通り、バイトのたびに私に賄いをごちそうしてくれていた。そしてそれだけではなく、料理の仕方も教えてくれた。
例えば、切り方一つとっても私の適当な切り方と神代さんの包丁さばきでは全然違っていた。味付けをするんだから切り方なんて別にどうでもいいのでは、そんなふうに思っていた私に神代さんは切り方によって味の染み方や火の通り方が違うのだと教えてくれた。
それからというものの神代さんが包丁を持っているときは、なるべく手元を見るようにしているんだけれど、温め直すだけの肉じゃがとお味噌汁では何をすることもできない。
ガッカリしながらも、まあすることがないならないでカウンター席に座っていようかと神代さんに背中を向けると、私を呼び止める声がした。
「おい、どこに行くんだ」
「え、だって特にすることないかなって。味見しようにも肉じゃがはもうできあがってますし」
「今日はこれにだし巻き卵もつけてやる」
「だし巻き卵ですか?」
「ああ。ちなみに卵焼きは作れるか?」
「馬鹿にしないでください! さすがに作れますよ。……ちょっぴり焦げることもありますけど」
私の言葉に、神代さんはやっぱりなとでも言いたそうにため息をつく。そして、冷蔵庫から卵を四個取り出した。
「見ててやるから焼いてみろ。ああ、それとも卵の割り方から教えた方がいいか?」
「もう! さすがにそれぐらいはできます!」
卵とボウルを受け取ると、私は決して器用とは言えない手つきでそれらを割る。最初の一個は力を入れすぎて殻が入りそうになったけれど、それ以外は結構綺麗に割れた、と思う。
「まあ、いい。それをきちんと混ぜる」
私に指示を出しながら、神代さんは事前に作ってあっただし汁にお醤油と砂糖、味醂を入れた。
「で、これを」
「味見するんですね」
「頼む」
差し出されたそれをほんの少し口に含む。顆粒だしとは違う、きちんと取ったお出汁の味が口の中に広がる。でも、うーん。
「もうちょっとお醤油ください。あと味醂も」
「こんなもんか?」
「はい、これでいいと思います!」
私の返事を聞くと、神代さんはお出汁や醤油の入ったその液体を私がかき混ぜた卵の中へと入れた。
「んじゃ、焼いてみろ」
そう言って手渡されたのは、使い込まれた雰囲気の長方形の卵焼き用フライパンだった。肉じゃがを温めている鍋の隣にそれを置き、火をつけて温まってから油を入れキッチンペーパーで広げた。
「えっと、とりあえずこれぐらい、かな」
ぷるぷると手が震えているのはボウルが重いから、だけではない。できますと言ったものの、本当は卵を巻くのが大の苦手なのだ。前に作ったときもそりゃあ焦がしもしたけれど、それよりもぐちゃっとなった卵の方が酷かったことを思い出す。
恐る恐るフライパンへと卵液を入れると、ジュッと音を立てる。しばらくすると卵の焼けるいい匂いが漂い始めた。普段ならお腹のすくいい匂い、なんて思うのに今はそんな余裕すらなく、菜箸を使って必死に固まり始めた卵を手前から奥へと巻いていく。
少しぐちゃっとなりながらもなんとか一回目を終え、今度は二回目の卵液を流し込もうとボウルに手をかけた。
「おい」
「え?」
「二回目を流し込む前に、油をもう一度引くんだ」
「は、はい」
先ほどと同じようにキッチンペーパーで油を引くと、今度こそ卵液をフライパンへと流し込む。けれど、一回目とは違い、フライパンの温度が高いのかすぐに卵が固まり、なんとか巻こうとするけれど……。
「あぁっ」
巻こうとしたところから卵が崩れて行く。これでは卵焼きというよりスクランブルエッグといったほうが正しいかもしれない。
「ど、どうしよう」
「慌てるな」
「ひゃっ」
その声は、思ったよりも近くから聞こえてきた。思わず振り向こうとする私の身体のすぐそばで、神代さんは私の手ごとフライパンの柄を掴んだ。
「なっ……」
「ほら、こうするんだ」
「え?」
そう言ったかと思うと、神代さんは私の手に自分の手を重ねると器用に菜箸を操り、崩れ始めた卵をフライパンの奥に固めていく。そして、手早く油を引くともう一度卵液をフライパンへと注ぎ入れた。
「多少崩れても、こうやって整えてやればなんとかなる。ほら見ろ」
見ろと言われても……。今の私は、近すぎる距離と耳元で聞こえる声にパニックで何をどうしていいかわからない。けど。
「あ……」
伸ばされた腕からふわっと、いい香りが漂ってくる。お香、だろうか。香水ほどキツくなく優しくて、どこか甘い、まるで心臓が苦しくなるような匂いがする。
って、私ってばいったい何を! 今は、卵焼き! だし巻き卵でしょ!
「ほら」
赤くなったり青くなったりしている私のことなんて別に気にすらとめていないようで、さっさと見ろと促すように神代さんは言う。でも、すぐそばで喋られたせいで耳に吐息がかかって、くすぐったいしホントそれどころじゃない。ないのだけれど。
「っ~~! み、見ます! 見ますから!」
やけくそ気味に顔を上げると、そこには紛うことなき卵焼きがあった。
「わっ、凄い」
私がぐちゃぐちゃにしてしまった卵焼きは、神代さんの手によって綺麗な形に整えられていく。
「手品みたい」
「ふっ、手品って……」
私の言葉に、神代さんはおかしそうに笑う。でも、私にとってそれは本当に手品のようだった。さっきまでグチャグチャだったそれはお皿に盛り付けられた今、どこからどう見ても美味しそうなだし巻き卵だった。
いつの間に用意してくれていたのか、神代さんはその隣に大根おろしを盛り付けると、完成とばかりにカウンターに置いた。
「美味しそう!」
「だな。ああ、ちょうど肉じゃがも温まったようだ」
小鍋の蓋を開けると、あたりにいい匂いが漂ってくる。スンスンと鼻をひくつかせている私を見て神代さんはお玉を差し出した。
「味見、するか?」
「え、でももうできあがってますし」
「いいから。じゃねえと、だし巻きもほとんど俺が焼いたし、お前の仕事がなくなっちまうだろ」
「それは、確かにそうかもです」
とはいえ、味が染み込んでいる今の状態で私が味見したところで何が変わるわけでもない気はするけれど、してもいいなら喜んで味見させて頂きます。
差し出されたお玉で掬ったお出汁を小さなお皿に入れるとそっと口をつけた。それは、あの日初めてここで食べた肉じゃがとは違い、味醂の優しい甘さのとお醤油の甘辛さが合わさってとても美味しい。……とても美味しいのだけれど。
私の好きな味と近いようで遠い。物足りないというか、なんというか。
ああ、そうだ。ここにあの味が加われば……。
「どうした?」
「あの……。ちょっと、待っててもらってもいいですか?」
「は?」
「私、ここにどうしても足してほしい調味料が合って」
「うちにはないものなのか?」
「それは、その……」
あるにはある、けどあの味はここにあるものではきっと出せない。
「ああ、もういい。待っててやるからさっさとしろ」
「ありがとうございます」
私は慌てて囲炉裏を出ると、二階にある自分の部屋へと向かった。
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