第4話

 数日後、私は五時間目の授業を終え、ヘロヘロの身体をなんとか引きずりながらマンションを目指していた。今日は、三教科で課題の提出日が重なり、今日の明け方まで必死になって課題に取りかかっていた。おかげで、なんとか全ての教科の課題を提出することができ、身体はしんどいけれど気分は爽快だった。


 ようやくマンションの前までたどり着くと、『囲炉裏』からいい匂いが漂ってきていた。時計を確認すると、十八時四十五分。もうすぐ開店時間だ。


「もうダメ。お腹すいた……」


 私の思考に反応するかのように、お腹が音を立てて鳴った。


 六月になったばかりで仕送りがたっぷり、というには心許ないが財布の中身に余裕があった。なにより、明け方まで課題を頑張ったのだ。今日ぐらい、ご褒美という名の外食をしても許されるのではないだろうか。幸い、冷蔵庫の中のうどんは昨日の夜に食べきった。賞味期限を気にしなければいけないものは何も入っていない。まあ、本当に何も入っていないということは内緒だけれど。


 たくさんの言い訳を並べながら、私は『囲炉裏』ののれんをくぐった。


「いらっしゃいま、せ?」

「こんばんは」


 にっこりと微笑みながらこちらを振り向いた神代さんは、私の姿を見ると張り付いた笑顔がだんだんと無表情に変わっていった。


「なんだ、お前か」

「なんだってなんですか! お客ですよ! 今日は!」

「今日は、倒れてねえんだな」

「そ、それは。 その節はお世話になりました」


 意地の悪い言葉に言い返したかったけれど、ついこの間お店の前で倒れて迷惑をかけたことは事実で……。ううっと頭を下げた私の上で、ふっと笑い声が聞こえた気がした。


「で? 今日は食う金はあるのか?」

「もちろんです!」


 パッと顔を上げた私の目の前には、濃紺の着物姿で相変わらず仏頂面の神代さんがいた。さっき一瞬笑い声が聞こえた気がしたけれど、やっぱり幻聴だったのだろうか。


「あっそ。じゃあ、どこでもどーぞ」


 そうは言われても……。この間は見る余裕なんてなかったけれど、店内にはカウンター席がいくつかと、四人がけ席、二人がけ席が二つずつ、それから私が寝かされていた和室が一つあった。


 どこに座ればいいのかわからず、神代さんのあとについていくようにしてカウンター席に座った。お品書きと書かれたプレートを見るとそこには、家庭でもよく作られているような肉じゃがや鯖の味噌煮、厚揚げと手羽元の煮物なんかが並んでいた。


「それじゃあ、カレイの煮付けで」

「はいよ。汁物はどうする? セットでつけることができるぞ」


 その言葉に慌ててお品書きを見ると、確かに夕食膳というものがあってメインの料理+ご飯、お味噌汁か豚汁、それに小鉢がつくと書かれている。これで780円は破格なのでは?


「いらねえのな」

「い、いります! えっと、それじゃあセットにして豚汁でお願いします」

「あいよ」


 神代さんは冷蔵庫からカレイを取りだし、小さめのフライパンに醤油、みりん、酒、砂糖と水を加えて火をつけた。


 カウンター席でご飯を食べたことってなかったけれど、こうやって作っているところが見えるのはいいかも。それに、いい匂い。


 神代さんは慣れた手つきでショウガを剥いて薄切りにすると、沸騰したフライパンの中にカレイと一緒に入れた。くつくつと煮込まれる音と美味しそうな匂いがお店の中に充満する。


 ああ、懐かしいなあ。あとは落とし蓋をして煮詰めればできあがりだ。おばあちゃんが作ってくれたカレイの煮付けを思い出して、お腹が鳴りそうになるのを必死にこらえた。

早く食べたいな。早くできないかな。もうそろそろかな? あ、駄目だ。またお腹が鳴っちゃう。ホント、早くできてほしい。


 チラリと顔を上げると、神代さんは無言のまま冷蔵庫から何かを取り出しているところだった。


「…………」

「…………」


 お店の中には私と神代さんしかいない。お互いに無言のまま、くつくつという音を聞き続けているのは結構、いやかなり苦痛だった。


「あ、あのう」

「なんだ?」


 沈黙に耐えきれなくなった私がおずおずと話しかけると、豚汁に火をかけながら神代さんはこちらを向いた。


「すっごくいい匂いがしますね」

「どうも」

「わ、私も一人暮らし始めた当初、ご飯を作ったりもしてたんですが、どうにもうまく出来なくて」

「ふーん」


 どう考えても興味がないような返事に泣きたくなった。けれど、ここで黙り込んでしまえばまたあの沈黙が襲いかかる。ほかにお客さんでもいれば話し声も聞こえたんだろうけれど、私以外にお客さんのいない静かな空間で、無言は居心地が悪すぎる。ここは馬鹿を装ってでも喋り続けた方が!


「バイトもしなきゃなって思うんですけど、学校から帰ってきて課題やって家のことやってってしてたら、あっという間に一日が終わっちゃって。晩ご飯もお惣菜を買ったこともあったんですが、あんまり美味しくないし高いし。そんなことをしてたらお金がなくなっちゃって、それで……」

「それでうどん生活をしてたのか」

「っ……はい!」


 反応があったことが嬉しくて勢いよく頷き顔を上げると、怪訝そうな表情をした神代さんと目が合った。その態度に、へへっと意味もなく笑った私から目をそらすと、コトンという音を立てて神代さんは器を置いた。


「できたぞ」

「うわぁ! 美味しそう!」


 器には盛り付けられたカレイとネギ、それから小鉢にはほうれん草の白和えがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る