第3話
コトコトと何かを煮込む音がする。トントンとまな板の上で包丁を動かす音が聞こえる。ああ、この音、私が大好きな音だ。
いつも学校から帰ってきたら、台所で何かを作っているおばあちゃんの姿があって『ただいま』と声をかけると『おかえり』と優しく微笑んでくれた。大好きなおばあちゃん……。会いたいなぁ。
「おばあ、ちゃん……」
「誰がおばあちゃんだ」
「え?」
聞こえてきたのは、おばあちゃんの声よりもずいぶんと低い、男の人の声だった。
その声に、私はこれが夢じゃなくて現実なんだと思い知らされて、慌てて身体を起こそうとする、が。ぐるぐると世界が回り、その場に倒れ込んでしまう。
「うっ……」
いったいここはどこ? それに、私、なんでこんなところに寝てるの? さっきまで確かマンションの前にいたはず。
辺りを見回すと、どうやら私は和室に並べられた座布団の上で寝かされていたようだった。なんとか手を伸ばして障子を開けると、一人の男の人が見えた。その人は紺色の着物を着てそこにいた。
さらりと首筋に流れる髪の毛、整った目鼻立ち、なのに私をにらみつけてくるその人に、私は思わず見とれてしまう。
そんな私に、その人は怪訝そうな視線を向けた。
「気がついたんだな。気分は悪くないか?」
「あっ、あの私、どうしてここに?」
「俺の店の前に倒れていたんだ」
その口調があまりにも迷惑そうで、私は胃のあたりがキュッとなるのを感じた。さっきこの人は俺の店の前と言った。と、いうことは私は人様のお店の前に倒れてたってことで、それってもしかしなくても営業妨害?
「わっ、私! ごめんなさい! 帰りま……す……」
最後まで言い終わる前に、グーッという音が響き渡った。それはどう考えても私のお腹から聞こえた音で。あまりの恥ずかしさに穴があったら入りたい。入る穴がなければ掘ってしまいたい。
「腹が減ってんのか?」
「あっ、え、えっと……その……」
「まさかそれで倒れたのか?」
「……はい、たぶん」
着物姿の男性は眉間にしわを寄せると、深いため息をついた。
「このご時世に腹が減って倒れるってどういうことだよ。あれか? あれだろ? 可愛く見せたくてダイエットしてたとかそういうことだろ? お前な、ガリッガリに痩せた女なんてなんの色気もないんだからやめとけ」
「ちっ、違います! そういうんじゃなくって、その、お金がなくて」
「はぁ?」
「月末で、仕送りもほとんど残ってなくて。それで毎日うどんばっかり食べてて……。お金がないなんてお母さんにも言えないし。そんなことをしてたら……」
言いながら泣きそうになる。なんでこんな情けない話を、初めて会った人に言わなければいけないのか。ううん、それどころかどうして初めて会った人に勝手にダイエットだと勘違いされてぼろくそに言われなければいけないんだろう。この人に私の何がわかるっていうのよ。私のことなんてなんにも知らないくせに。
なんだか無性にイライラしてきた。だいたい……!
「悪かった」
「え?」
「勘違いとはいえ、失礼なことを言った」
「あっ、いえ。その、私こそ、お店の前で倒れたりして、迷惑かけてごめんなさい」
そんなにすんなりと謝られてしまうと拍子抜けしてしまう。慌てて頭を下げた私に、その人は優しく微笑んだ。
「っ……」
さっきまでのにらみつけるような表情とは違う、その優しい微笑みに思わず息が止まる。そんな私の態度に気付いたのか、その人は慌てて口元を手で覆うと、ゴホンと咳払いをした。
「あ、あのそれじゃあ私もう……」
「ちょっと待ってろ」
「え?」
聞き返した私の声なんて聞こえていないようで、その人は和室を出てどこかへ行ってしまう。もうこのまま帰ってしまおうと思っていた私はどうしていいかわからなくなり、その場から動けずにいた。
辺りを見回すと、どうやらここは食事処か何かのようで……そこで私は思い出す。マンションの一階にあった、ずっと準備中の札がかかったあのお店を。もしかしたらここは、あの謎のお店なのではないだろうか……。
そんなことを考えていると、私の元にいい匂いが漂ってくる。この匂いは、もしかして。
「肉じゃが、ですか?」
「よくわかったな」
「お醤油と味醂のいい匂い……」
先ほどの男の人が、お盆を持って戻ってきた。机の上にそっと置かれたお盆には、肉じゃがとお味噌汁、きゅうりのお漬物とご飯が乗っていた。これはいったい?
「あの……?」
「食え」
「え? で、でも私お金が……」
「んなこと気にしなくていいからさっさと食え。冷めるだろ」
怒っているのか、と思うような口調でその人は言う。私は、本当に食べてもいいものかどうか伺うように彼の方を見るけれど、ジロリと見下ろされて――慌ててお箸を手に取った。
「い、いただきます」
「おう」
じっくりと煮詰められているらしいジャガイモはほくほくとしていて、味が染みこんでいるのがよくわかる。それをそっとお箸に取ると、私は口に入れた。
「美味しい……」
おばあちゃんの作る肉じゃがよりもずいぶんと大味だったけれど、うどんしか食べていなかった私の身体に醤油とお酒、みりんの優しい味が染み渡る。思わず涙が出そうになって、慌てて袖口で拭うと、お味噌汁に口をつけた。こちらは玉ねぎとなめこのお味噌汁のようだ。甘みが強いようだけれどこれは、もしかして。
「新玉ねぎですか?」
「よくわかったな」
一瞬、目の前の男性が驚いたように目を開いた。食べることに関しては人一倍大好きなのだ。これぐらいは朝飯前だ。
まあ、食べることだけ、なんだけど。
みっともないとは思いつつも、ガツガツとあっという間に食べ終えてしまう。最後に残ったお漬物を食べ終えると、その人はお盆を持ってカウンターへと戻っていく。
「あの……」
「食べたならさっさと帰れ」
「なっ」
「もうすぐ店を開けるんだよ」
「あ、それで……」
壁に食品衛生責任者「
と、いうか、店を開けるってことはここって、潰れてなかったんだ。開いてるところなんて見たことなかったから、てっきり閉店してるんだと思っていた。
「なんだ?」
「いえ、あのここって何時開店なんですか?」
「どうしてそんなことが気になるんだ?」
「その、いつも閉まってたから不思議に思ってたんです」
「ああ、そういうことか。うちは十九時から二十二時までなんだ。子供はおうちに帰ってる時間だからな。知らなかったんだろ」
「子供って! 私、大学生です!」
「自分の健康管理もできねえ、金銭管理もできねえやつはガキだ」
「うっ……」
それを言われてしまうと、何も言えなくなる。思わず黙り込んでしまった私に、神代さんはため息をついた。
「ちゃんと三食食べねえと、また今日みたいに倒れるぞ」
「……はい」
「わかったらさっさと帰れ。もうすぐ仕事帰りのお客さんたちがいらっしゃるんだ」
「わかりました……。あの、やっぱりお金払います」
「あ?」
だって、赤の他人であるこの人にご飯をごちそうになる理由がない。それに……。
「お金のことはちゃんとしますから! 子供じゃないですし!」
「ふっ……」
私の言葉に、目の前のぶっきらぼうな男の人は小さく笑った――気がした。
「え?」
「うどんしか買えないくせに何言ってんだか」
「そ、それは……!」
「今日の飯代は気にしなくていい。あー、そうだな。悪いと思うなら今度は普通に食べにこい。客として」
その口調があまりにも優しくて、私は思わず頷いてしまう。そんな私の背中を追い立てるようにして、神代さんはお店の外へと出て行く。押し出されるようにして外に出た私は扉にかかった札を替えようとする神代さんの背中に声をかけた。
「あの! ありがとうございました!」
神代さんは何も言わずに片手をあげると、お店の中へと戻っていく。
一人っきりになった私は、朝よりも幾分か軽い足取りで自分の部屋へと続く階段を駆け上がった。
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