第30話 迷子の道しるべ

野良犬と追いかけっこをしたせいで、辺りはいつの間にか深い森の中である。

「さあ、さっさと帰りましょう。じきにセサルが迎えに来るでしょ」


そのリアナの声を合図にして、俺たち三人は、元来た道を引き返し始めた。

だが、深い森というのはそうそう容易に抜け出せる場所ではないものだ。

右へ、左へ、感覚の指さす方に進むが、一向に出口が現れる気配はない。


1時間ほど彷徨い歩いたところで、リアナが音を上げてその場に座り込んでしまった。

「ああ、もう、ぜんぜん抜け出せないじゃない」

「道、間違えたのかな?」


俺は後ろを振り返るが、その光景は前に続く道と何ら変わりはしない。

「そんなに長く森の中を走ってたわけじゃないし、大丈夫だと思うけど」

少女がそう言うが、その声には力がない。


すっかり俺たちは、自分たちがどこにいるのかもわからない。完全に迷子になっていた。

何も考えずにこれ以上歩くのは不毛だし、むしろ危険だな。


「あたしも疲れた」

そう言って、少女も同じようにその場に腰を下ろす。


「しばらく休憩にしましょう」

「そうだね。私も疲れた」

言いながら、俺は持っていた鞄から水筒を取り出す。喉がカラカラだ。


水筒を傾けて水をあおっていた俺の視界に、その時、ふっと、妙なものが映り込んできた。

村の背後の森の中で、一本だけやけに目立っている。それはそれは背の高い大木である。




俺が二人に大木のところまで歩くことを提案したのは、言ってしまえば気休めのようなものだった。

そう距離があるわけでもないし、大木に上ればどの方向に行けばいいか、分かるかもしれないとも思った。ただそれだけだ。


「あんなに大きな木があるのね」

リアナが大木の方を仰ぎ見ながら、感心したように言う。


「他の木の数倍はあるね。森の主みたい」

「――杉みたい……」


少女が唇から零した小さな言葉は、俺の耳にははっきりとは届かない。

俺は、そのセリフに妙な違和感を覚えながらも、2人と共に大木の方へと歩みを進めていった。




巨木まで残り僅かに50メートルほど、大きく首を傾けなければその全体がとらえられないほどの距離だ。


「ねえ、なんか、妙な物音がしない?」

「え、そうかな?」


リアナに言われて耳を澄ますと、確かに、重低音のなにか大型の獣が寝息を立てるかのような不穏な音が聞こえてくる。

「何かな、熊とか?」


そう言いながらも、臆することなくずんずんと巨木の方へと進んでいく少女。

「あ、待ってよ」


俺とリアナも、それを追って辺りをきょろきょろと見まわしながら進む。

あの子、ちょっと非常識すぎやしないか?


20mほど進んだところで、少女がこちらを振り返り、

「何もいないよ。大丈夫、気のせいじゃないかな?」

と叫ぶように言う。


「大丈夫なの、あの子?」

リアナが呆れたような表情で、俺に耳打ちする。


「さあ。まあ、親の名前も分からないって言ってたし、もしかしたら、記憶喪失なんじゃないかな?」

「記憶喪失? 何それ」

「記憶がなくなることだよ。病気とか、事故とかで」


リアナは、想像ができない、というように表情に疑問符を浮かべる。

だが、今はそれよりもあの子を止めることが先だ。


「待って、君、あんまり一人で進むと危ないから」

そう俺が声をかけると、少女は少し不貞腐れたような、しかしどこか楽しそうな表情で振り返った。

「もう、分かったよ、早く早く」




「さ、リアナ、行こう」

「あ、そ、そうね。わかったわ」


なおも謎の音はやまない。

強い風のこすれあう音のような、大型の獣のいびきのような。


その音は、むしろさっきよりも大きくなっているようにすら感じる。

既に俺たちは、巨木が作る陰の中に入っていた。


近くまで来てみてわかったことだが、巨木の根や枝は、近くの他の木々にまで伸びていて、まるでこのあたりの木々全体を支配しているようですらあった。


その太い根は地面への広がり方も半端なものではなく、周囲半径10メートル以上にわたって広がっているようであった。


そして俺が前を行く少女に視線を映すと、少女は楽しそうな表情を浮かべ、その巨木が伸ばす根の一つを踏み台に軽く跳ねる。

その刹那であった。


ドドドドドドドドドドドドドドドドド……


大型獣のいびきは叫び声に変わり、強風が空気を切り裂くような音が響きわたる。

一瞬の後、目の前の大木の根の幾つかが波打ち始めた。


おっかなびっくり少女は自身が踏みつけた根から飛び退くが、時すでに遅し。

目を覚ました森の主、トレントは、その大きな目で、真っ直ぐとこちらを睨み付けていた。

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