愛おしいあなたへ

 ヴァレルの困惑はその後も続いた。

 アレットがにっこり笑って宣言したからだ。曰く、「旦那様のお世話をするのは妻の特権よ」とのこと。


 安静に、という医者の言葉のせいでヴァレルは仕事を制限されている。鉱山近くの町の小さな診療所から同じ町のヴァレルの持つ屋敷に移ってきて、そこでもアレットは甲斐甲斐しくヴァレルの世話をして、いつもヴァレルの側から離れなかった。


「きみね、こんなことをして点数稼ぎでもしているつもり?」

「失礼ね。わたしはあなたのことが好きだからあなたの側にいるのよ」

 嫌味を言うとアレットはぷうっと頬を膨らませた。

「それから、夫婦で話し合いをしようとも思っているわ」

「俺はきみと話すことなんてないよ」


 ヴァレルは現在寝台の上から動くことができない。小うるさいのは妻だけでなくベンジャミンもだし、あとから到着した母エルヴィレアもである。三人ともヴァレルに仕事もいいけれど今は体をしっかり養生させなさいと言う。

 体はもう元気だし、進めたい案件もあるのに身内が邪魔をしてどうするのか。


「シレイユからの手紙読んでくれたのでしょう? わたしの、あの体調不良は……その……生ガキに当たって」

 アレットは頬を少しだけ赤らめる。

「……まあね」

 たしかにこの町、ドーンヴィルに着いて何日か経った後シレイユから手紙を受け取った。


「わたし、ソイリャ・ヘオンツーク夫人から一方的に薬の瓶を押し付けられただけで飲んだりはしないわ。開けてコップには入れてみたけれど。さすがのわたしだって得体のしれない飲み物は口にはしないんですからね」


 アレットは威張り口調である。

「だいたい、あの医者も医者だわ」

 アレットは頬を膨らませている。たしかに医者の早とちりではあったのだが。

 だが彼女はシレイユの勧めるままに魚市場の屋台で生ガキを食べたのだ。そこは普通のお嬢様は拒むところだろう。品のいいレストランならともかく、屋台で生ものを食べるとはどういうことだ、とヴァレルのこめかみあたりの血管がぴくぴくと痙攣する。彼女に会ったら言いたかったのだと思い出した。


「フィアンメータとは女同士の決着は付けてきたんだから。わたし、絶対に負けないのよ」

 アレットは手を腰に当ててぷんすかと怒っている。

 フィアンメータとアレットの間に何かがあったことはわかった。

「一応、俺の身の潔白のために言っておくけれどね。フィアンメータと付き合っていたのはきみと婚約をする一年も前の話だよ。いつまでも俺が女性に不誠実な男だと思われたくないから言うけれど。どうせきみにとってはどうでもいい話なんだろうけど。一応言っておく」


 最後はかなり言い訳じみてしまった。しかしアレットに、女にだらしがないと思われるのもなんとなく嫌なのだ。


「そのことはもういいの。いえ、ちょっと気にはなるけれど。わたしにはもっと大事なことがあるから」

「ああそう」

 アレットにさらりと受け流されてしまいヴァレルは空しくなった。やっぱり弁解などしなければよかった。

「ちょっと待っていてね。今日到着したのよ」


 アレットはヴァレルを置いて部屋から出て行ってしまった。


 いったい何が到着したというのか。離婚届だろうか。いや、アレットは自分のことを嫌いであっても自ら離婚を切り出したりはしないはず。実家の援助の件があるからだ。いや、しかし。ヴァレルの冷たい態度に今度こそ愛想を尽かしたと言われても言い訳できない。初恋を拗らせてアレットに冷たく当たってしまっている自覚なら十分にあるのだ。


 自分からアレットを逃がそうという考えはあるのに、いざその時が来たら絶望で心が壊れてしまうかもしれない。すぐに再婚なんてされたら、それこそ鉄鉱石に潰されて天に召されたほうがましかもしれないなどと思考が暗い方向へ掘り進んでいく。

 ヴァレルが頭の中で最悪の事態を想定しているとアレットが戻ってきた。

 彼女は何冊もの冊子を抱えていた。


「あなた、暇でしょう。これを読んだらいいわ」

「俺は暇じゃない」


 アレットはヴァレルの体の横に冊子を積み上げた。

 明るい赤や青や緑の布張りされた冊子はいかにも女の子が好みそうなもの。どうやら日記帳のようだ。

 一冊手に取るとアレットが頬をうっすら赤く染めた。


「これは、わたしの……青春時代の遺物……というか。誰にも見せるつもりもなく書いた正真正銘わたしの気持ちというか……。とにかく、ヴァレルはここにあるわたしの日記を読んでほしいの!」


 アレットは言うだけ言って部屋から出て行ってしまった。

 ヴァレルは呆気にとられて彼女が勢いよく飛び出していってしまった方を眺めたが、やがて嘆息して視線を下に落とした。

 アレットの日記帳。

 こんなものを持ってきて彼女は一体どうしたいというのか。

 こういうものは普通他人には見せないだろうに。


「……」


 ヴァレルは試しに一冊ぱらぱらとめくった。現在暇を持て余しているのである。

 中はぎっしりと文字で埋まっていた。妹のシレイユも小さなころ文字の練習も兼ねて日記帳を両親から贈られたことがあった。可愛らしい柄の表紙のそれをシレイユも気に入ってうっとり眺めていたが、あいにくと三日ももたずに日記帳はその役目を終えた。


 アレットは机に向かう作業と相性がいいらしい。

 しかし、これを読めとは。ヴァレルは困惑して頭に手をやる。


「旦那様。お茶をお持ちしました。読書にお茶はつきものです」

 ベンジャミンが入室をしてきて寝台の傍らの台に紅茶を置いていった。本格的に読書をしろということらしい。アレットは一体何を考えているのか。

「おまえはだれの味方なんだ。俺は忙しいんだぞ」

「奥様はそれはもう旦那様を心配なさっていました。仕事で根を詰めているからいまは息抜きが必要なのだとか。まさにその通りでございます。旦那様は昔からすぐに仕事に一直線になってしまいますからね」


 ベンジャミンは好々爺(そんな年ではないのだが)のように唇を持ち上げながら部屋から出て行ってしまった。


 ヴァレルは仕方ない、と観念することにした。これを全部読めば仕事に言ってよいということなのだろう。勝手にそう解釈する。

 ヴァレルは今手に持っている日記帳の最初の項を開いた。

 アレットの書いた可愛らしい文字が目に飛び込んでくる。


 日付からすると、十六歳の頃らしい。ヴァレルの胸が大きく脈打つ。


 日記には寄宿学校での生活が書かれていた。先生が厳しい。友達とこんな話をした。もうすぐ夏季休暇が始まる。今年もフェザンティーエ公爵家の領地の大きな屋敷に行くことになっている。近所で釣りをしたいけれど淑女は駄目です、なんて言われるからつまらない。子供の頃は連れて行ってくれたのに、などなど。

 やがて夏季休暇になり、アレットの綴る日記には、今日は誰がやってきただの、お客として来た誰それが偉そうだの、率直な感想が綴られている。


 その中で、ヴァレルの指がぴくりと動いた。

 日記にヴァレルが初めて登場したからだ。ヴァレルは一瞬目をつむった。できれば読みたくはない。彼女の心のままに書かれた日記だ。きっとヴァレルのことをこき下ろしているに違いない。


(アレットはこれを読ませてどうしようっていうんだ……?)


 どうしようもないくらいヴァレルのことが嫌いです、と改めて突きつけるつもりなのか。

 ヴァレルはしばし葛藤した。

 本心ではこのまま日記帳を閉じてしまいたい。

 しかし。アレットはこれを読めという。ヴァレルは紅茶を口に含んだ。

 気を落ち着かせ、仕方なしにもういちど日記帳に視線を落とす。


 日記帳にはヴァレル・カイゼルというダガスランドからやってきた実業家と知り合ったことが書かれてあった。彼ったらとっても明るくて楽しい人。アルメート共和国ってどんなところだろう。いいなあ、自分の力で世界中どこにでもいけるのね。うらやましい。明日も会えるかしら、など。


 アレットはその後もヴァレルのことばかり日記に書いていた。

 庭園を案内したこと、午後のお散歩の時間が待ち遠しいこと、二人きりで話をするのが楽しいこと。夏の休暇が終わらなければいいのに、と。


 そうして、運命の日。

 ヴァレルの心を砕いたあの日の出来事。彼女の本音を聞いてしまった日の項。とても乱れた筆致だった。水に濡れたのか一部皺が寄っている。


 ヴァレルは痛む胸を抱えてアレットの日記を読んでいく。

 何度も何度も謝罪の言葉で溢れていた。


 ごめんなさい。心にもないことを言ってしまって。まさか聞かれていただなんて。違う。本当はそんなこと思っていない。ただ、恥ずかしかった。友達からからかわれて。だって、わたしがヴァレルのことを好きだなんて言うんだもん。あなたに会うととても楽しい、嬉しい、早く会いたい、夏季休暇が永遠に続けばいい、そう思う気持ちが好きという気持ちだなんて、わたし知らなかった。


 ヴァレルはアレットの言葉を辿っていった。

 そこからはずっと彼女の懺悔の言葉で埋まっていた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。言ってしまった言葉は取り消せない。傷つけてしまってごめんなさい。本心じゃなかったの。


 ヴァレルは項をめくった。

 日付が少しとんで、アレットの日記にはヴァレルが屋敷をあとにしたことと、最後まで話をすることができなかったことに対する悔恨の言葉が書かれていた。

 ヴァレルはあのとき、アレットを避けたのだから当然だった。元よりヴァレルのような男が公爵家の娘と親しくなったのが予想外のことだったのだ。

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