楽屋裏
カスコーネ座の公演最終日だというのにその日はあいにくと朝からしとしとと細い雨が降っていた。秋らしい嫌な雨だ。この水が秋という気配を一段と濃くしているようである。大多数の人間と同じようにフィアンメータも雨は嫌いだ。雨だと客の入りが悪くなる。
最終公演だというのに、雨。
それでなくてもフィアンメータは最近苛立っているというのに。
劇場付きの見習いの小娘にフィアンメータが自慢の金の髪の毛を巻かせていると劇場の受付係が来客を告げに来た。
「もうっ! なんなのよ。この忙しい時に」
フィアンメータはヒステリックに叫んだ。
「この名前を出せば絶対に通すだろうとおっしゃっておりますが」
受付係の中年男の言葉にフィアンメータは眉を持ち上げる。そういうことを言う男が何人もいるのである。まったく気障な男にも困りものだ。
「仕方が無いわね。それで、誰なの?」
最終公演なのだから相手もそれ相応でなければ相手になどするものか。ただでさえ今フィアンメータは虫の居所が悪いのだ。受付係の名前を聞いたフィアンメータは、少し間を置いてから返事をした。
客人を連れてくる間に小娘たちに命令して残りの支度を手伝わせる。
全身を姿見で点検して、化粧部屋から内扉を開けて控室へ入った。控室には花束がいくつも運び込まれている。人気歌手の証だ。このあと休演を挟んで年末年始の演目に変わる。フィアンメータが応接セットのテーブルの上に指をつけて埃の有無を確認しているとき、扉を叩く音が三回聞こえた。
「どうぞ、お入りになって」
フィアンメータは部屋の主として相応しいよう、ゆっくりとした声を出した。声のあと、約十秒くらい後だろうか、ゆっくりと扉が開いて金髪をふわりとまとめた少女が中に入ってきた。まだ十代の小娘である。寄宿学校を卒業してすぐにダガスランドにやってきたと聞いている。新聞にも大きく書かれていた。アレット・ヴァレア・フェザンティーエ、フラデニアの由緒正しい貴族の娘。まっさらな絹のハンカチのように汚れ一つ知らないような顔をした小娘。
「ごきげんよう、フィアンメータ」
アレットの顔は固いままである。緊張しているらしい。
フィアンメータはどうぞ、と右手を前に出して着席を勧めた。
「それで、用件はなあに?」
腹の探り合いは嫌いである。特に、鼻持ちならない相手とそれは。フィアンメータとしてはさっさと終わらせて帰って頂きたい。それでも彼女を招き入れたのは余裕を見せるため。
「ソイリャから聞いたわ。ずいぶんと手の込んだ嫌がらせをしてくれるのね。わたし、避妊薬なんて必要ないわ。あなたに返してあげる。あなたは、ずいぶんとお友達が多いみたいだもの。こういうものも必要なのでしょう?」
アレットはポケットの中から小瓶を取り出してテーブルの上に置いた。
小さな暗い色の瓶である。フィアンメータは背もたれに体を預けて「あら、もうばれたの。早かったわね」と笑った。
それにしても可愛らしい嫌味を言ってきたものである。深窓のお嬢様が精いっぱい考えて、お友達が多いみたいだとは。本当に可愛らしい。フィアンメータはくすくすと笑った。
「なにがおかしいの?」
「いえ、べつに。あなたみたいなお嬢さんでも嫌味の一つも言えるのねって。もちろん褒め言葉よ」
「それはありがとう。とにかく、夫とわたしの仲を割こうだなんて、そういうことは金輪際お断りだわ。恋人ごっこがしたいのなら、別の男性として頂戴」
アレットは言いたいことを言い終わったとばかりに立ち上がる。フィアンメータは憤然とした。言われっぱなしは性に合わない。とくにこの女のお陰でもうずっと気分が悪いのだ。
「まだヴァレルの妻のつもりなの? あなた置いていかれたのに」
「夫はいま鉱山に行っているのよ。遊びじゃないもの、妻を置いていくのは当然だわ。遊ぶことしか考えていない人にはお分かりにならないのかしら」
澄ました言い方にかちんとした。
フィアンメータは涼しい声と顔をして上から人を見下す女が大嫌いだ。さっきの嫌味の方がまだ人間味があって可愛げがあった。
「お飾りの妻だものね。ヴァレルも大変ね。高いお金を積んで買った妻から手酷い裏切りにあって。彼、泣きそうな顔をしていたわよ」
「あなた、ヴァレルに会ったの?」
アレットから仮面がはがれた。
フィアンメータはにんまりした。そういう顔が見たかった。
「ええ。駅まで見送りに行ったわ。彼、さすがに今回は堪えていたみたい。当然よね。妻の仕事は子供を産むことでしょう? それなのに避妊薬に手を出していただなんて」
「あれは、あなたの仕業でしょうっ! ソイリャをそそのかしてわたしに薬を押し付けさせた。彼女の証言だってあるわよ。わたしに金髪の女の召使なんていないんだから。彼女の前にあなたを連れて行ったらすぐにわかることよ」
「そんな証言どうとでもなるわよ。ただの誤解だったと言えば済む話だもの」
フィアンメータは肩をすくめた。
アレットは悔しそうに唇をゆがめた。ようやく優位に立ててフィアンメータは落ち着きを取り戻した。まだまだ十代の小娘らしく甘い子供だ。
「悪いことは言わないわ。あなただって本当は嫌なんでしょう。ヴァレルみたいな成金の妻でいるのは。わたしたちは気にしないけれどね。こっちで生まれ育ったわけだし。けれども、西大陸の血統書付きのお嬢ちゃんのお相手としては不足でしょう。ヴァレルのことはわたしが慰めてあげるから、あなたはヴァレルに頼んでどこか暖かい場所に別荘でも買ってもらってよろしくやったらいいわ」
「嫌よ!」
広い室内をつんざくような高い声が響いた。
「ヴァレルはわたしのだもの! 絶対に嫌」
興奮で白い頬が赤く染まっている。青い二つの瞳が切っ先のようにフィアンメータを射抜いている。彼女のどこにこんなにも大きな声を出す力が眠っていたというのだろうというくらいの大きさだった。
「初恋だったのよ。十六の頃だわ。彼に会って、わたしヴァレルのことが大好きになったわ。あなたには絶対に分かりっこない。わたしがどれだけヴァレルのことを好きかなんて。わたし、誰にも負けないくらいヴァレルのことが好きなんだから!」
「な、なによ。それ」
突然の告白劇にフィアンメータはかろうじてそれだけ言った。適当な言葉しか出てこない。初恋って、一体誰の。ただの政略結婚ではなかったのか。一体、何を言っているの、この娘は。
フィアンメータはたじろいだ。温室育ちのお嬢さんが顔を真っ赤にして叫んでいる。ヴァレルが称した金色のお姫様が、だ。彼はこの小娘のことを愛しているという。
そして、目の前で気色ばんだ少女もまた、ヴァレルのことが大好きで初恋だと宣言をした。一体なんなのだ。
「あなたにはまったくもって関係のない話だけれど、わたしとヴァレルは二年前の夏から顔見知りってことよ。とにかく、絶対にあなたにヴァレルは渡さないんだから」
わたしだってヴァレルとはそれなりに長い付き合いだ、と言おうとしてけれどもフィアンメータがヴァレルとお近づきになったのはいつだったか。同じ頃合だったけれども……。
「ヴァレルとの結婚証明書に署名をしたのはわたしの方なんだから」
「ふんっ。ヴァレルに嫌われているくせに。偉そうに」
フィアンメータがかろうじてそれだけ返すとアレットは泣き笑いの顔を作って、「それでもわたしはヴァレルのことを愛しているのよ」と答えた。
フィアンメータは目を見張った。小娘だとばかり思っていたのに、そのときのアレットの瞳に吸い寄せられて目が離せなかったからだ。恋も愛も男も知らないような子供かと思っていたのに、彼女はフィアンメータでさえも惹き付けるくらい狂恋しい相手を想う女の顔をしていた。ああそうか、この女は男を知っているのだと唐突に感じた。
「今日は宣戦布告に来たのよ。わたし、あなたには負けない」
アレットはそれだけ言って部屋から出て行ってしまった。
結局言われっぱなしになったのはフィアンメータの方だった。嵐のような娘だと思った。途中まではしおらしくしていたのに。夏のフェスティバルのときだって、フィアンメータにびっくりしておどおどして、これなら簡単に優位に立てると思っていたのに。
(なにが初恋よ。愛しているよ。ばっかじゃないの!)
初恋ってどの口が言うの。あなたたち、ただの政略結婚でしょう。
フィアンメータの眦にあの日のヴァレルの顔が浮かび上がる。彼は切なそうに笑っていた。アレットを愛している、と。ヴァレル・カイゼルともあろう男が陳腐な台詞を言ったのだ。今どき舞台の上か寝台の上での冗談でしか聞かないような台詞を堂々と。
同じセリフをあの小娘も吐いた。二人とも相手のいないところで互いを求め合っているのだ。フィアンメータの胎の奥底からふつふつと怒りとも呆れともどちらとも言えない感情がせりあがってきた。
「ふっ……っはははっ! ばっかじゃないの。ほんとうに、あほらいしわ!」
ふざけるな。なんなの、二人とも。互いに惹かれ合って、愛しているだなんて言っちゃって。
フィアンメータは長椅子の上に置かれているクッションを手でつかみ取って上に持ち上げて思い切り振り落とした。
悔しい。悔しかった。なんなの。いったい。あの二人は。
(ばっかじゃないの! なんなのよ! わたし、とんだ馬鹿じゃないっ! 何が二年前から囚われている、のよ!)
フィアンメータは何度も何度もクッションを力任せに地面へとたたきつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます