第十一章 喧嘩

翌朝、俺は約束通り彼女の家に迎えにいった。幸い、道を覚えるのが得意な方だったので、道に迷うということはなかった。

 彼女の家の前に着くと、少し緊張しながらインターフォンを鳴らしす。一拍おいて、聞きなれない女性の声が聞こえてきた。

「はーい、どなたでしょうか?」

 きっと、彼女の母親だろう。一瞬硬直してしまったが、努めて冷静になってから口を開ける。

「すみません、朝早くに。俺はお嬢さんの友人です。お嬢さんは今いらっしゃいますか?」

 それに、インターフォンの向こう側で息を呑む気配がした。首を傾げていると、慌てたような足跡が聞こえてきたと思ったら、中年の女性が玄関を開けた。なるほど、たしかに彼女と雰囲気が似ている。

「あらあら。ごめんなさい、娘はまだ用意が終わってないの。もうちょっと待っててもらえるかしら?」

 突然のことに驚き、目を丸くしたものの、俺はこくりと頷く。

「は、はい」

「ごめんねぇ」

 苦笑まじりに言われ、俺は緩く首を振る。それに、女性はぽんと手を叩いた。

「そうだ。あの子の準備が終わるまで、中で待っていてくれるかしら?珈琲でもご馳走するわ」

「え、いや…それは申し訳な…」

 断ろうとしたところで、俺は女性にぐいぐいと背中を押され、家の中に入れられた。

 さすがに振り払う訳にもいかず、されるがままに台所まで連行されていくと、そこには驚きに目を丸くした、俺よりも少し年上くらいの女性がいた。彼女の姉だろうか。

 若干の気まずさを感じながら、俺は軽く頭を下げた。それに、女性も戸惑いながら頭を下げてくれる。

「…えっと、妹の彼氏ですか?」

 その質問に面食らってしまい、俺は口をぽかんと開ける。

「は…いえ、違います!…彼女のお姉さんですか?」

 頷く彼女の姉に、俺はふむふむと内心で納得したように頷く。とてもよく似ている姉妹だ。

「珈琲でいいかしら?」

 そんな俺たちを他所に、彼女の母親は上機嫌ににこにこと笑いながら聞いてきた。それに、俺はこくこくと頷く。

「ふふ。そんなに緊張しなくても、好きなところに座ってね〜」

 そう言って、母親は珈琲を淹れ始める。俺は戸惑いながらも、すぐそばにあった椅子を引いて座った。

 少しして、ぱたぱたと慌てたような足音が聞こえてきた。次に、彼女が顔を出す。

「お母さん!ゴキブリが出た!!!」

 いつになく慌てて、顔面蒼白な彼女に、俺は目を瞬かせる。目が合うと、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「え!?なんでいるの?」

「えっと…」

 返答に困っていると、母親が代わりにのんびりと答える。

「あなたの準備がまだ終わってないから、中に入ってもらったのよ。もう、朝からゴキブリごときで騒がないでよね〜」

「いやいや、ゴキブリだよ!?」

 どうやら彼女にとってゴキブリは恐怖の対象のようだ。出会ってからこんな反応を見たのは初めてなので、新鮮に思いつつ俺が首をかしげる。

「よかったら俺が退治してやろうか?」

 俺の言葉に、彼女はものすごい勢いで俺の手を握ってきた。それに、一瞬不覚にもどきりとしたのは許してほしい。

「ぜひ!お願いします!!」

 面食らいつつ、俺は頷いて連れられるがまま移動した。


 ゴキブリを退治したあと、冷静になった彼女に思いっきり頭を下げられた。

「ほんっとうに、ごめんなさい!!」

「い、いや…そんなに気にすんな」

 困惑気味に苦笑すると、彼女はうなだれる。

「私さ…普通の虫は全然平気なんだよ?けどね?ゴキブリだけは、どうしても無理なんだ…」

 哀愁感漂う彼女に、俺はなんだかだんだん面白くなってきてしまい、思わず吹き出した。

「ぷっ…そんなにか?あんたでもあんなに取り乱すことがあるんだな」

「そりゃあるよ。本当に、君は私のことをなんだと思ってるの」

 不服そうに眉を寄せた彼女に、俺は苦笑する。

「悪かったって。そんなに拗ねんなよ」

 そんなことを話しながら、再び台所に行くとすでに珈琲と彼女の分らしき朝食が用意されていた。

「あ、戻ってきた。おはよう」

 先程は挨拶をする間も無くゴキブリ退治に行ってしまった妹の顔を見て、姉は苦笑する。それに、彼女も苦笑した。

「おはよう、お姉ちゃん。ごめんね、朝から騒がしくて」

「あはは、大丈夫だよ。ちょっと驚きはしたけど。それで、その子は本当に彼氏じゃないのね?」

 ちらりと俺を一瞥した姉に、彼女は目を瞬かせる。次に、ぶんぶんと頭を振った。

「違うよ!友達」

「そっか。奏くん以外でうちにあんたの男友達が来るのなんて、初めてだったから。しかも迎えにきたなんて」

「う…すみません」

 なんだかいたたまれたくなって、俺は謝る。それに、姉はおかしそうに笑った。

「冗談だよ。ちょっとからかってみたくなっただけ」

 ふふ、と笑って、姉は朝食の最後の一口を口に入れ、立ち上がる。

「さて、そろそろ私は行くね。いってきまーす」

 そう言い残して、姉は母親と彼女に見送られて台所を出て行った。

「…あんた、姉ちゃんと似てるな」

「あはは、よく言われる」

 少し嬉しそうに笑って、彼女は椅子に座り、朝食を食べ始める。俺も、せっかくなので母親に礼を言ってから用意された珈琲を飲んだ。


 彼女の母親に改めて礼を言ってから、俺たちは彼女の家を出た。

 それから少しして、黒い学ランに長めの黒髪の、見たことのある後ろ姿を見つけて、俺は首をかしげる。

「あれって高木か?」

 俺が確認するように隣にいる彼女に聞くと、頷く。

「そうだね。奏〜!」

 彼女が声を張り上げると、ぴくりと反応し、高木が振り向く。そして、俺の姿を認めて怪訝そうに首を傾げた。

 俺たちが高木のところまで追いつくと、彼女がにこにこと笑う。

「おはよう、奏。今から春乃と合流するんでしょ?」

「おはよう。そうだけど、なんで君がいるの?」

 高木が相変わらず俺を胡乱気な目で見る。それに答えあぐねていると、彼女が口を開いた。

「あれ、話してなかったっけ?今日から登下校一緒に行くんだよ」

「は?」

 低い声音に、俺は思わず背筋を伸ばす。固まったかとおもったら、高木は鋭い視線で俺をにらんだ。

「…変なことしたら、ただじゃおかないから」

 どうやら、一緒に登下校をするのは止めないようだ。ものすごく嫌そうではあるが。

 困ったように笑ってから、俺は首を傾げた。

「あの、春乃って誰だ?」

 それに、彼女が虚をつかれたような顔をした後、ぱっと表情を明るくする。

「私と奏の幼馴染だよ。三鷹春乃っていって、すごい天然で、優しい子なの」

「へぇ〜。じゃあ、その子もあんたが陰陽師だってこと知ってるのか?」

 それに、彼女は頷く。

「うん。あのね、本当は2人には内緒にしたかったんだけど、バレちゃって…」

 苦笑する彼女に、高木が軽くため息をついた。

「君は嘘をついたり隠し事をするのが下手だから、すぐにわかるんだよ」

「とのことです」

 諦めたようにうなだれる彼女に、俺は苦笑する。この場合、良くも悪くも素直だと言うことなのだからどう声をかければいいのかわからない。

 そんな俺に、高木が首をかしげる。

「君にはいないの?」

 その質問の意味を測りかねて、今度は俺が首をかしげた。何がだろうか。

 俺の反応に、高木は呆れたように肩をすくめる。

「だから、仕事のことを話せるような幼馴染とか」

 もしくは、信頼できる相手、と。彼は言った。それに、俺は困ったように笑う。

「そうだなぁ。信頼できる幼馴染は、いるにはいる。けど話してない」

 それに、高木は目を細める。

「ふーん。あんた、その制服からして結構頭いい学校通ってるよね?なのに、とんでもない馬鹿だ」

 突然馬鹿呼ばわりされて、俺はぽかんと口を開けた。いや、別に構わないのだが、まだあって間もないのに馬鹿呼ばわりさせるのは、なんというか、少し複雑だ。

「こら、そんなこと言わないの!」

 俺の代わりに、彼女が眉を吊り上げる。それを華麗に黙殺してから、高木は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「いや、やっぱり馬鹿なのは君の幼馴染だね。たぶん君と何年も一緒にいたはずだろうに、君のことを何もわかってないんだ」

 それに、俺はぴくりと眉を動かした。徐々に苛立ちが湧いてくる。

「君の幼馴染は、随分と馬鹿で鈍感なんだね」

 冷ややかな視線。吐き捨てるように、高木は悠人を馬鹿にした。

「は?」

 自分でも驚くほどに、低い声が出た。頭に血が上っているのがよくわかる。ここまで人に対して怒りや苛立ちを感じたのは久しぶりだ。

 険悪な空気を感じ取ったのか、彼女が困惑したように眉を寄せているのが視界の端をかすめる。だが、今はその相手をしているような余裕はなかった。

「あんたに俺の幼馴染を非難する権利なんてないよな?」

 そのままの声音で、俺は高木を睨みつける。それに、高木は一瞬ひるんだように見えたが、すぐに睨み返してきた。

「そうだね。だけど、君にも俺の考えを否定する権利はないよね?」

「幼馴染をこれだけ馬鹿にされて、あんたは怒りや苛立ちを感じずにいられるのか?だったらとんだクズだな」

 俺の言葉に、高木は不機嫌そうに眉を動かした。再び向こうが何か言おうとしたところで、彼女がバシン!と手を叩く。それに、俺たちは同時に体をぴくりと反応させた。

 俺は急速に頭が冷えていくのを感じた。

「2人とも、喧嘩をするならまた今度。遅刻するよ」

 淡々と言って、普段通りに微笑む彼女に、俺たちは顔を見合わせすぐに背けた。今は顔を見たくない。

 そのまま、高木は俺たちを置いて先に行ってしまった。

「あー、奏も意地っ張りだからな…あんまり、気にしなくていいからね?」

 その後ろ姿を見送って、彼女は苦笑した。それに、俺は黙って頷く。

 それから、俺たちは彼女の学校に着くまで終始無言だった。着いてから、彼女に「また後でね」という言葉にも、俺は無言で頷くしかできなかった。


 俺が2人を置いて足早に通学路を歩いていくと、いつもの場所に春乃が立っていた。春乃は朝が弱いので、いつもよりもぽーっとしている。

 それに呆れながらも、いつも通りの日常にほっとしてしまったのが恥ずかしい。

「おはよう、春乃」

「…おはよう〜、奏くん」

 朗らかに笑って、春乃は首を傾げた。

「なんか、あったの?」

「ちょっとね。早く行こう」

 苦笑した俺に、首を傾げつつも頷いた。きっと、その前にきょろきょろと辺りを見渡していたので、彼女と何かあったということに勘付いたのだろう。特に聞いてこない辺り、すごいな、と思ってしまう。

 あとから彼女に何をいわれるか覚悟しながら、俺たちは学校へと足を向けた。


 俺は、彼女を学校まで送ってから、沈んだ気持ちのまま自分の学校へと向かった。

 バスを降り、俺はとぼとぼと校門を通り昇降口へと向かう。

 すると、耳元で愉快そうな笑い声が響いた。暁だ。隠行したまま、言葉を続ける。

「いやぁ滑稽。さっきのガキは威勢がいいなぁ?あんたを怒らせるたぁ最高だ」

 滑稽、というのは、きっと俺に向けられた言葉だろう。一応主に向かってこんなことを言う式神はいるのだろうか。俺は目をすがめたが、今は相手にする気力もなく、黙殺した。

「なんだいなんだい?あんたらしくもなく落ち込んでのかい?」

 ケラケラと、それはもう愉しそうに笑う。図星を突かれ、俺はぐっと顔をしかめた。

「あーもう、うっせぇなぁお前は!」

 思わず叫んでから、俺ははっとして周りを見渡した。暁は妖だ。当然普通の人間にはその声は聞こえない。よって、俺は1人で急に叫び出したおかしな奴だと思われてしまう。その証拠に周囲にいた生徒達が、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。

「あー…やらかした」

 毒づいて、俺は不機嫌さを隠さずに頭をガシガシとかいた。

「クックックッ…!ここまで負の感情をあらわにしてるあんたも、珍しいよなぁ?あのガキには感謝しねぇと」

 なおも愉快そうに笑っている暁の声が聞こえる場所を、俺はぎろりと一睨みしてから視線を外した。いつまでも睨んでいても、周りにはただ単に虚空を睨みつけているようにしか見えないからだ。

 深いため息をついてから、俺は昇降口へと足を早めた。


 私は彼と別れたあと、少し早歩きで教室へと向かった。

 教室のドアを開けると、すぐに奏と春乃の姿を見つけて、そこに向かう。

「あ、おはよう〜」

 呑気そうに笑って挨拶してくる春乃に挨拶を返してから、気まずそうに眉を寄せている奏の腕を掴んで廊下に連れ出した。この一連の流れの中で、春乃が朗らかに笑って「いってらっしゃい〜」と手を振っていたので、ある程度の事情は察してくれているのだろう。春乃は天然だが、殊こういう事柄に関しては鋭いのだ。

 奏の腕を掴んだまま、廊下にかけてあった時計をちらりと見る。よし、まだ時間はあるね。

「奏、ちょっと付き合ってもらうよ?」

「は?付き合うってどこに…」

 戸惑う奏の問いかけには答えずに、私はそのまま廊下を歩いて行った。


 私が奏を連れてたどり着いたのは、長刀部で普段使っている道場だ。私は、無言で2本の練習用の竹でできた長刀を取り、そのうちの1本を奏に手渡した。

「さて、朝からで悪いけど、私の相手をしてもらうよ」

「はぁ?」

 あまりにも唐突なので、さすがに奏も間抜けな声を出した。それに構わずに、私は構える。制服のままだが、この際そんなことは気にしてられない。

 そんな私の様子に、奏は諦めたのか同じように構えた。

「ちなみに、私に勝ったらあの子に謝らなくていいけど、負けたらちゃんと謝ってね?」

 にっこりと笑って言えば、奏は顔色を変えた。

「は、ちょっと待っ…!」

 奏の制止の言葉を遮って、私は長刀を振るう。

「問答無用!」

 それを、奏はかろうじて受け止めた。ギリギリと音を立ててこすれあう長刀を間に挟んで、私たちは睨み合う。

「なんで急にそんな無茶な賭けを出すんだよ?」

「だって、こうでもしないと奏は素直に謝らないでしょ」

 そう言って、私はさらに力を加える。それに、奏はなたを横にずらし、私の刀を受け流した。

「なんだよ、素直になるって。俺は別に、本心を言っただけだよ」

「でも、言いすぎた、とは思ってるでしょ?」

 私の言葉に、奏はぐっと言葉を詰まらせる。図星のようだ。

 それに、私は思わずため息をついた。

「もう、そんなんだから友達少ないんだよ」

「余計なお世話だよ」

 不服そうに口を尖らせて、今度は奏から向かってくる。それを受け止めながら、私はひとまずこの勝負は絶対に勝たなきゃね、と内心で決めた。


 色々な葛藤が疼いている中で机に突っ伏していると、頭に衝撃が走った。

「いっ…!?」

 頭を両手で抑え、思わず涙目になって顔を上げると、そこにはこの葛藤の原因とも言える悠人が分厚い教科書を持って立っていた。

「お前…、まさかその分厚い教科書で俺のことを叩いたのか?」

 信じられない思いで、俺はわなわなと震える指で教科書を指した。

「ああ、その通りだ。それも最も痛いであろう角で」

 至極真面目くさった顔で、とんでもないことを言いやがった幼馴染に、俺はお返し言わんばかりに机の下から脛を蹴ってやった。それに、悠人は脛を抑え悶絶する。

 ざまぁみろ、と思いながら、俺は頬杖をついて窓の外を眺めた。

 やがて、痛みが引いてきたのか比較的落ち着いた様子の悠人が、俺の目の前で手をひらひらとさせてきた。

「…なんだよ」

 目をすがめて聞くと、悠人は虚をつかれたような顔をした。

「お前、今日はいつになく不機嫌だな。なんかあったか?」

 一見茶化すように聞いているが、その声音には俺を心配する想いが滲んでいる。俺は、一瞬今朝のことを言おうかどうか迷ったが、結局言わないことにした。

「別になんでもねぇよ。それよりも、さっさと授業の準備しないとぎりぎりになるぞ」

 あっち行け、とでも言うようにして、俺は手を払った。

「けっ、人がせっかく心配してるのによ。可愛くないなー」

 ぶつくさと文句を言いながら、悠人は廊下へと向かった。

 その後ろ姿を見送って、俺はため息を一つつく。言えるわけがないんだ。喧嘩のことではなく、そうなってしまった経緯についてを。俺は、自慢ではないがあまり人に対して怒りを見せたことがない、と言うかそもそも、怒りを感じたことがあまりないのだ。当然、そのことを幼馴染である悠人は知っている。俺が誰かと喧嘩したとでも言おうものなら、絶対に何が原因だったのかを聞くだろう。いや、あいつなら聞かないかもしれない。でも、代わりにすごく心配をかけてしまう。それは嫌だ。

 我ながらとてもいい友人を持ったな、と小さく笑った。

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