第十一楽章 永遠に壊れぬ結晶として

 母はラルムのレッスン中、ピアノの後ろに置いた揺り椅子にすわって、

 言葉ギフトを贈り続けていた。基本的に褒め言葉しか贈らない。


「その調子。素晴らしい」

「記号は、あくまでも参考に。ラルムちゃんの表現を聴かせて」

「上手な表現だわ。左手、もう少し弱く……そう。いい感じよ」


 しかし、言葉の無い時間もある。

 今日は、やけに静かで、僕の演奏は、まずいだろうか。

 ラルムが不安になって振り返ると、母は決まって船を漕いでいた。


「おかあさん、疲れているんだね」


 呼び掛けても午睡ひるねから目覚めない母の肩を、ひろげた大きなストールで羽包くるむ。

 甘い香りが遊ぶ。

 母は、長い髪に甘いバニラの香りをまとっている。


 それは、少年が大好きなパンケーキを毎日、焼き続けたから放たれる愛の香り。


 母は無垢に眠る人だった。

 眠っているあいだは殊に、少女のようで、人形めいていた。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 今、揺籃ゆりかごに眠る御人形に、母の寝顔が重なる。

 静かに静かに、森の中に恵みの雨が降っていた。

 泉下に沈む雨滴のように、音無く降りめる雨は、

 アーベント終了後、止む気配がない。


 ラルムは貴婦人に着付けてもらったドレスの外し方が分からず、

 オートマティックメロディードールの姿のまま、子守歌を弾いていた。

 その恰好すがたでいることに苦痛は無い。


 あつらえたように、ぴったりなドレス姿で、

 興奮冷めやらぬ舞台に残った少年は独り、

 鎮座する瑠璃色アズレーのピアノに寄り添い『象の子守歌』を弾いていた。


 ドビュッシーの『こどもの領分』より第二曲。第三曲へ続く準備の歌。

 御人形を硝子函ケースに眠らせる以前まえ麻酔薬リドカインのような曲。


 あの壊れそうなソーダライトの瞳は、舞台の終演と共に閉じられて、

 もうきらめかない。


 たからは、いつのまにか佇立ちょりつしていた。

 どうやらオートマティックメロディードールとは、

 どんな姿でも眠りに就くことが可能らしい。


 ラルムは、たからの瞳が再び自分を見て欲しくて、

 第三曲『人形へのセレナード』を、ソフトペダルを外して奏で始めた。


「起きて」と、想いを込める。

 静かに降る雨の雫を、スタッカート音が破る。


 聴覚過敏のラルムは、自らの奏でた音量に吃驚おどろいて、

 やはり途中からソフトペダルを踏んだ。

 尽きない恋心をガーゼで包んで眠らせた。


 独奏に満足したラルムは壇上を去る。靴音は霖雨あめの響き。

 ラルムは、たからと向かい合う。


「たからちゃん」


 室内に佇んだラルムは、少女人形の名を呼んだ。

 彼女には心が、あるような気がした。


「たからちゃん、聴こえているよね。

 僕がピアノを弾きたがっている気持ちを察して、舞台を譲ってくれた。

 そうでしょう。ごめん。ありがとう。楽しい時間だったよ」


 しかし、たからはオートマティックメロディードール。少年の声には応えない。


「たからは御人形です。可哀想かわいそうな御人形。壊れてしまった御人形。

 この子と別離わかれて、私は、新しいドールを羽包はぐくむのです」


 貴婦人が眼鏡を外す。洋菓子屋のような帽子も外し、まとめた髪をほどく。

 その毛先からバニラの香りが遊ぶ。


 どうして今まで気付かなかったのだろう。


 目の前にいるのは、


此処ここは永久不変の、やすらぎの世界です。

 の世界とは二度と、つながることは、ありません」


 ラルムの心臓は、いつ鼓動を喪失うしなったと言うのか。

 思い当たる節など、何処どこにも無かった。


 否、あの音だ。


 たからが奏でたドビュッシーは、現実と幻想をクロスさせた鼓動の音。

 速度を上昇させた挙句、心音を停止させて、

 少年を天上のように平穏な世界に導いた。


「端末の充電を切ったのは、おかあさんだったんだね? 

 僕を此処ここに呼び寄せて、閉じめるために」


 淋しかったの? 永遠に一緒に、いたいの?

 それは、ラルムから母への、同時に自分への問い掛けだった。


「僕も、オートマティックメロディードールに、なれるのかな」


 母の生きる世界で永遠に成りたくて、少年は問い掛けた。


「ラルムちゃんなら既に、最上の御人形ですよ。私が保証しましょう」


 旭日きょくじつの瞬かない屋敷の中で、ラルムは生まれ変わる。

 ラルムは、こよなく愛されるオートマティックメロディードールとして

 生きる。


 狂瀾きょうらん既倒きとうめぐらせ、森の奥の屋敷には再び、

 ホ長調のドビュッシーが響き始めた。


 小夜曲セレナード硝子函ケースに封印されし世界。

 永遠に壊されることなき領分は、とざされた世界で幾重にも、

 保護のガーゼに包まれて眠る。


 誕生日バースデーに『人形へのセレナード』を贈られたクロード・ドビュッシーの愛嬢

 シュシュは、少女のうちに、父を慕うようにしてはかな終熄きえた。


 こどもは親を慕って消えることを怖れない。

 むしろ、束の間エフェメラ生命いのちを希求する。

 それは幼さ故の、未熟な故の、純粋が故の、透明な希求である。



第十二楽章『閉じ込められて標本化する』

             に、つづく

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