第15話 星の転換(四)

 意識がはっきりしない。頭が重く、身体が熱を帯びて気怠い。瞼を開けても視界がぼやけて何があるのかよく見えない。

「クエルクス、起きたの? まだ熱が下がらないんだから寝てなくちゃ駄目よ」

 聴き慣れた声がした後に額に布が置かれた。冷たくて心地よい。クエルクスは布の重さに再び瞼を閉じる。すると意識はすぐに微睡みの中へ落ちていった。



 次に気がついた時、明るい白木の天井が一番にクエルクスの目に入った。自分の身体は綿織の薄掛け一枚で布団の上に寝かせられていた。着ていたはずの服の感触はなく、上半身には太い帯状の布が巻かれているようだ。窓が開いているのか、頰を生温い風が撫でる。湿気と熱を含んだ空気は盛夏のそれであり、上体に巻かれた布がじとりと汗を含んでいるのが背中に感じられた。

 ——ラピス様は。

 人気が無いのにぎょっとして飛び起きると、クエルクスはそこが自分達の泊まっていた宿の一室であることに気がついた。自分の着ていた合物の上着は丁寧に畳まれて寝台の脇に置かれた椅子の上にあった。その他の荷物も全て揃って床に並べられており、ラピスが来ていた旅用の上着も椅子の背もたれに掛かっている。

 机が寄せ置かれた壁の窓は開け放たれ、そこから入る風に吹かれて柔らかに波打つ垂れ幕の布端が、机上の帳面を撫でている。ラピスのお気に入りのその帳面は、中の頁が開いたままだった。

 クエルクスは寝台から降りて机に近づき、開かれた頁に書き付けを見つけた。

『食堂にいます。』

 斜めがちの文字はラピスの筆跡だ。眼が覚めてから初めて、クエルクスはゆっくりと安堵の息を吐いた。上着を掴んで袖を通しながら部屋を出る。

 廊下の木枠の窓は全て開いており、真昼の太陽の強い光が板張りの床を明るく照らす。眩しさに手で陰を作って外を見ると、菜の花で黄色一色のはずだった地面は青々と茂る草に覆われていた。本当に盛夏に変わったのだ。

 クエルクスは、星読みの夜に自分が大鷲に背中を襲われたところまでしか記憶になかった。無事かと自分に叫んだラピスの声は耳に残っている。背中に燃えるような強い痛みが走った気がするが、そのあとどうしたのか、全くわからなかった。

 徒らに記憶の端を探りながら歩いていたら、いつの間にか食堂に着いてしまった。朝食の時間はとうに過ぎたのだろう、洗い場からの水音も聞こえない。

 他に誰もいないせいかやけに広く感じる大部屋の中で、ラピスと星読みの青年が窓辺の卓に座って何やら話し込んでいた。入口側を向いて座っていた青年の方が先にクエルクスに気がつき、ラピスに合図する。

「クエルクス!」

 振り返ったラピスはそのまま立ち上がり、クエルクスに駆け寄ると上着の袖を引っ張って抱きしめる。

「うわぁやっと起きた! 背中は? 痛くない? もう意識は大丈夫?」

「うっ」

 正直なところ、ラピスの抱きしめる腕が強すぎた。

「『うっ』って、まだ痛い? ねぇクエル、寝てなくて平気?」

「嬢ちゃん、兄さんはあんたの腕が痛いんだと思うよ」

 青年が苦笑いしながら声をかけると、ラピスは「あぁっ」と小さく叫んでクエルクスから跳び離れた。ラピスが自分の袖を持ったまま跳び退ったのでクエルクスは前につんのめりそうになったが、何とか爪先を踏ん張って姿勢を保つ。

「大丈夫、もう痛みは無いですよ。それより、僕はどれだけ寝ていたんです」

「一ヶ月だよ」

 ラピスより前に青年が答えた。

「そんなに⁉︎ まずい、早く出発しないとっ……」

 信じがたい数字にクエルクスは全身の血の気が引いた気がした。まさかそこまで長い間、意識を失い床に伏していたとは。こんなところでぐずぐずしている時間はないのだ。一刻も早く、少しでも先に進まないと。

 驚きに眼を丸くし、荷造りのため大急ぎで部屋へと踵を返しかけたクエルクスの腕を、ラピスがちょっと待ちなさいよ、と引き戻す。何で止めるのかと、若干の苛立ちを感じて振り返ると、窓辺に座ったままの青年が笑いを噛みしめていた。

「お兄さん、あんまりからかわないで。クエルは真面目に取りすぎるから」

「は?」

「五日よ、五日。一ヶ月も寝ていたらその細い体が餓死しちゃうわよ」

 くっくっと声を押し殺して笑う青年を軽く睨んでラピスが訂正したが、それでも五日という時間はクエルクスにとって十分に衝撃的だった。

「それにしたってラピス、そんなに長くここに逗留する予定では」

「だって貴方の背中の傷、肉が見えるほどだったのよ。お宿のご主人がよく効くお薬を下さったから助かったけれど、高熱まで出てきてうなされて……怒ってるんだからね」

 口調はさほどではないが、ラピスの表情には深い心配の色が浮かんでいた。その性格を思えば、怒っていたという言葉の裏の意味もクエルクスには分かる。しかし護衛としてはむしろ不甲斐ない限りだった。

「まあ普通は傷だけならこんなに寝てなかったと思うけどね。見たところちょっとの外傷じゃ倒れないくらいは兄さん鍛えてるだろ。一応補足しておくけど、運悪く悪い菌が入っちゃったんもんで傷も塞がりにくいしすごい熱になっちゃったってわけ」

 青年は二人の様子を見ながら笑い顔で説明を加えた。察するに彼が色々と手配してくれたのだろう。クエルクスは青年に深々と頭を下げた。

「もう大丈夫のようです。ありがとうございます。本当にすまないことをしました」

 背中の傷は、ラピスの言う薬が効いたのか、今では傷跡が布に触れる時に少しばかり痒みのような違和感を感じるくらいで、特に痛みも気持ち悪さもない。

「とにかく、僕はもう大丈夫ですから、可能ならもう今日にでも発ちたい。馬車はまだありますよね」

「あるよ、昼過ぎに谷へ降りるのが。その前に兄さんはしっかり食事をとることだな。夢現で流動食なら口に入れていたけど、もう肉食べときなよ。あと、巻き布も換えとくか。汗で気持ち悪いだろ」

 言うなり青年は立ち上がり、宿の帳場に伝えにいくと言って廊下へ出て行った。クエルクスとラピスも調理場に早めの食事を頼むと部屋に荷物を整えに行った。再び食堂へ戻るともう食事は出来ていて、それをあと少しで食べ終わるという頃、外で馬車の車輪が道の石を踏みしだく音が聞こえた。



「お二人さん、道中、気をつけなよ」

 二人が宿代を払って馬車へ乗り込もうとした時、星読みの青年が玄関まで出てきて声をかけた。するとラピスは「あっ」と言って小走りに玄関へ走り寄った。クエルクスが怪訝に思って近づくより早く、ラピスは青年と少し話すとすぐに馬車まで引き戻してくる。

「何かあったのですか?」

「ん、何でも。ああ、お兄さんはまだいるのかって」

「本当にそれだけ?」

「そうよ。星読みは季節が安定するか確かめるのに、十日はいるのですって」

 どうもラピスが何か隠していることにクエルクスは気がつかないわけではなかったが、特に追求する理由もなく、ラピスに続いて馬車に乗り込んだ。

 来た時とは対照的に、馬車にかけられた幌は風通しのいい麻布になっていた。布は肌を焼く日差しを和らげ、車内に淡い影を作る。とはいえ夏の熱気に対しては気休めみたいなものだ。緩やかに進む馬車の中に入る風は少なく、蒸した空気が車内を満たし、間を詰めて座る客の口数を減らしていた。

 太陽の位置からして、今が盛夏ならば日が落ちるまでまだ十分に時間がある。

「このまま谷まで行けば、谷間の街の隣が首都になる。首都までそう距離はありませんから、今日中に行ければいいのですけれど」

 クエルクスは、ラピスが膝の上に広げた地図を横から覗き込んだ。元々の予定では丘の上に着いた翌日の早朝に出立し、首都も一日で抜けてしまうつもりだったのだ。しかしラピスは意外にも、いいえ、ときっぱり言った。

「宿を探すわ。谷合の街は交易の要所になる大きな街だもの。すぐに見つかるでしょう」

「そんな、泊まっている時間がもった……」

「怪我人が何を言っているのよ」

 そう言って睨まれては、クエルクスの方は言葉を引っ込めるしかない。しかもラピスはつんとすまして進行方向から目を逸らさず、軽々しく話しかけられる雰囲気でもなかった。

 丘を下りた街から先は、パニアの平野地域に入る。南北の街道と東西の街道が出会うこの街は、交通の要所としての位置上、当然ながら商人や物資が四方から集まる。さらにラピスたちが進んだ南北の道をそのまま北に北上すればもう隣の都市がパニア王都であるため、自然とパニア随一の交易小都市に発展した。

 乗合馬車が谷に着いたのは、丘の上の宿を発ってからかなり時間が経ってからのことになった。だが太陽はまだ天高く昇っており、馬車から降りると強い陽射しが肌を焼く。

 街は背格好さまざまな人々や荷物を乗せた馬車が行き交っており、地元の人よりも旅行者や外国商人の方が多いと思われた。乗合馬車の停車場の周りは旅籠を意味する寝台のしるしを看板に掲げた建物が間隔狭く並んでおり、宿屋の集まる一画だと知れる。

 その宿場町の中をラピスは手に持った帳面を見ながらすたすたと進んでいくのだが、歩みには初めての街とは思えぬほど迷いがなく、止まって後ろにクエルクスがついて来ているのを確かめようともしない。クエルクスは無言のラピスの様子を窺い、「えらく機嫌が悪いな」、と倒れてしまった自分の失態に不安を感じつつ、黙って後ろを追うことしかできなかった。

 街の中央に近いと思われる辺りに入ってしばらく歩き、明るい壁に白い寝台の印をつけた小さめの宿屋の前でラピスは足を止めた。やはりクエルクスに何も言わずに木戸を叩くと、まもなく中から活発そうな中年の女性が山吹色の前掛けで手を拭いながら出てきた。

「すみません。今夜泊まりたいのですけれど、一部屋空いていますでしょうか」

 女性はラピスを見ると少し驚いたようだ。それはそうだろう。若い娘の一人旅は珍しい。しかも、どのような衣装を着ていようが仕草や風貌から出自の良さが見るからにわかるラピスならば尚更である。

「お嬢ちゃん、一人? その顔つきはリア辺りからじゃないの」

「いえ、兄がおります。これから王都に向かう途中です」

 小走りに追いついたクエルクスの方へ手のひらをひらひらと振ってラピスが答えると、女将らしい女性はクエルクスを一瞥して「おやまぁ、ひょろいわねぇ」と呟く。さらに心配が増したようだ。

「王都までの中継で一泊、お願いしたいのです。ここの宿のことは南の丘で、星読みをやっている方からお伺いしました。この宿であれば若者二人でも安全だと」

「あら、あの人の知り合い? ってことはまた星読み成功したのね」

「それで、ここなら女将さんの心遣いも行き届いているし、とびきり料理が美味しいと」

「あらやだ、なぁに上手ねえ」

 女将は少女のように顔を赤らめるとたちまち機嫌を良くしたようで、階上の部屋と夕飯の手配を請け負った。そしてすぐに上がって体を休めるよう勧めたが、ラピスは女将の申し出をあっさり断る。

「街へ出掛けたいので。荷物だけ預かっていただけますか? お夕飯の時間には間に合うように帰ります」

 自分の大きな荷物とクエルクスの背負った鞄をさっさと女将に手渡すと、ラピスは「じゃあよろしくお願いします」と頭を下げ、クエルクスの手を半ば強引に引っぱった。そして宿屋の先の角を曲がり、中心部の方へ歩み始める。

 またも早足かつ無言で進むラピスに、流石にクエルクスも会話がないままでいるのは決まりが悪くなる。

「いつの間に宿のことなんて聞いたんです?」

「貴方が寝ている間」

 遠回りに機嫌伺いをしようと違う話題から入った質問をばっさり切られて、クエルクスは自分の不覚にただでさえ焦りを感じていたところを追撃された。

「……やっぱり寝込んだの、怒っていますよね……」

「そうじゃないわよ。それは、別問題。むしろ怒るとしたら自分が大怪我してまで私をかばったことと、クエルの療養を私が怒っていると思っているところかしら」

 クエルクスの方を見もしないで鼻息荒く言い放たれたのだが、クエルクスの方はラピスに否定されたことの他に怒られる理由が思い当たらない。何かそれ以外に護衛としての不覚は……と逡巡していたら、あっという間に繁華街についてしまった。

 ラピスは街に入っても地図を見てずんずんと人をかき分けていく。クエルクスには行き先の検討がつかず、遠慮がちに問いかけると、いつになくきっぱりとした返事が返ってきた。

「買い物をします」

「買い物?」

「合物の服のままでは衛生面でクエルの傷に悪いでしょう。旅を続けるにも良くないから夏服を買います」

「それはそうだけれど……」

「それに」

「それに?」

 目で地図を真剣に辿りながら、ラピスは言い放つ。

「パニア王宮に行くのに、旅装では失礼にもほどがあるでしょう」

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