第15話

 赤銅色の月――レッドムーンが天頂に達した夜、世界の境界線が、音もなく、静かに滲んだ。


 美羽は、鏡の前で震えていた。

 鏡の中に映っているのは、美羽。だけど――


「……名前が、思い出せない」


 唇が動いた。声帯も震えた。

 けれど、出てきた言葉が、空気に溶けていくようだった。


「わたしは……」


(――誰?)


 “さくらばみう”という響きが、のどの奥で引っかかる。


 それが、自分だったかどうか、今となっては確信が持てない。


 代わりに、朱音の記憶が美羽の中を満たしていった。


 誕生日、血液型、家族構成、好きな色、朝の歯磨きの順番。

 それは確かに、朱音の記憶――だったはずなのに、

 いまはどれも、“わたし自身”のような気がしてならなかった。




 朝、目を覚ますと、机の上に一冊のノートが置いてあった。


 黒革の装丁。金文字で「鏡守」と書かれていた。


 ページを開くと、誰かによって綴られていた。


 もしかして――これは、“もう一人の美羽”が書いたもの?


 ページの最後に、こう記されていた。


「忘れてくれたら、楽になれる」

「あなたが“朱音”を忘れた瞬間、あなたは“あなた”に戻れる」

「ただし、わたしは消えるよ――“あなたの中の朱音”として」


(忘れたら、全部戻る?)


(でも――それって、あの子が本当に消えるってこと……?)




 放課後、鏡守の間へ向かった美羽に、老婆は言った。


「選ぶがいい」


「“自分”を取り戻すために、“朱音”を忘れるか」


「それとも――“朱音”を残すために、自分を明け渡すか」


「わたしがいなくなるって……?」


 老婆は目を伏せて言った。


「存在とは、“記録されていること”じゃ」


「君が“君”であるためには、世界がそう記録し、周囲がそう認識せねばならぬ」


「それが揺らいだとき、君は“幽霊”になる。生きながら、“記録から外れた存在”となる」



 その言葉は、美羽の心をえぐった。


 生きていても、生きていないもの。

 誰にも覚えられず、誰にも話しかけられず、誰にも必要とされない。


 それは――“朱音”がたどった運命だった。




 その夜。

 レッドムーンがまだ空にあった。


 美羽は自室で、ひとつの決断をした。


 鏡の前に座り、ノートを開く。


 そして、“名前”を上書きした。


 【わたしの名前は――朱音】

 【“美羽”は、ただの夢だった】


 その瞬間、鏡の中の“もう一人の自分”が微笑んだ。


 「ありがとう、ミウ」


 「わたしを、忘れてくれて」


 そして、“本物の朱音”は、美羽の姿で、現実世界へと歩き出した。




 翌朝。


 学校では、誰も“桜庭美羽”の名前を口にしなかった。

 名簿には、はじめからその名は存在しない。


 誰も彼女を思い出さない。

 写真にも、書類にも、彼女の痕跡はない。


 ただ一人――


 鏡守の老婆だけが、ポツリと呟いた。


 「忘れてくれて……よかったのう。あの子は、ようやく“本物”になれたんじゃから……」


 レッドムーンは、ゆっくりと沈んでいった。


 その夜――誰かが、完全に世界から消えた。


 そして、鏡の奥から、新しい“わたし”の目が、こちらを見つめていた。




#ホラー小説

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