エピローグ

 次の日。

 さっさと帰ればいいのに、スケジュールで日程が組まれてしまっているため、まだ城に滞在しているマチアスと、クーネルは中庭のばら園をともに歩いていた。

「どうした。元気がないようだな」

「べつにそんなことないけど――って……」

 マチアスが自分を気にかけるなどおかしいと思ったら、彼は腕の中のくまに懸命に話しかけているところだった。

「なんだ、婚約者? おまえになど話しかけていないぞ」

「うるさいわね……間違えたのよ」

 気まずさにそっぽを向いて腕を組んで、クーネルは話題を変えた。

「あんたさぁ、くまさんをどんなに好きでも、おしゃべりできないじゃん。それでもいいわけ? この先ずーっと、一方的に話すだけなんて」

「くまさんではなくリリーだ。それに、会話は可能だ。毎日話している」

「えっ? そうなの? ぬいぐるみだけど……」

「リリーはちゃんと生きている。余にはわかる、彼の声がはっきりときこえるのだ。彼も余がたいへん気に入っていると言っている」

「……え、そうなんだ。……いやきこえないでしょ」

「きこえるのだ!」

 ぷんすかと怒りはじめるマチアスに、まるで昨日怒ったこともどうでもよくなってきて、クーネルは笑った。マチアスは怒りの沸点がかなり低い。これまで、ぬいぐるみのことで周囲からよく言われていないせいで、誰も自分のことを理解しないと思っているのだ。

 彼の腕に抱きしめられて苦しそうにしているリリーは、おなかや腰を、幾重ものフリルのひだに包まれていた。薄いピンクのワンピースの上に、真っ白のエプロン。すぐに汚れがつきそうな色なのに、よく手入れされ、清潔に保たれている。

「その服、かわいいね」

「わかったか? これはお出かけ用なのだ。今日のために手塩にかけ、三週間かけて縫い上げた。特別仕様だ」

「すごい気合い。でもリリーって男の子なんでしょ」

「男だとか女だとかそんなものは重要ではない。リリーは余のかわいい伴侶だし、どんな衣装でも似合うから、いろいろと着せてやりたい。それだけだ」

「たしかにそうね……」

 生き物である生身の人間と、繊維で作られたぬいぐるみ。両者にとって性別なんて、ボタンから飛び出た糸のように些末なことだ。

「はぁーあ、この散策が終わったらようやく自由時間だ! 図書館で次に読む本を探さなきゃ」

「それ、余も行きたい。裁縫の専門書はあるか?」

「もちろん。トワール国の図書館の蔵書は、どの国よりも優れているわ。利用者のニーズに遺憾なく応えているし、王立図書館として必要なものも無駄なく取りそろえて、学術的にもアカデミーより充実してるわよ。なにしろ、お兄さまが館長をしてるんだもの!」

「兄君と仲がよいのだな」

「ぜんぜんよくないけど……」

「余は兄姉たちに厭われている」

 互いに結婚する意思がない婚約者とはいえ、幼少期から幾度も会っているマチアス。周囲から理解されない彼のことを、クーネルもまた理解できていないし、今後も寄り添えることはないだろう。けれど、彼にとって、少しでもこの会話がほっとできるといい。

「自国では余の味方はいない。皆、厄介者を早く追い払いたいという目をしている。だから余は旅が好きだ。だが立場上ずっと放浪をするわけにはいかない。せめて、ずっとここにいたいのだ」

「……でもわたしと結婚しないと、ここには住めないわよ」

「それが問題なのだ。おまえと結婚したくない」

 ばらのかおりに包まれて、少年はぬいぐるみをよりいっそういとおしそうに抱きしめた。

「余の心は、永遠にずっと、リリーのものなのだ。な、リリー?」

 ああ、とクーネルは思った。

 リリーを見つめるマチアスの瞳。命を差し出しても惜しくないとささやく本気の目の色。

 リリーのまんまるの、天然樹脂コーパルを加工して作られた、生きているみたいな目。その琥珀色の瞳には、いつも反射してマチアスが映し出されている。

 ルイ先生を見つめる、シャーリーの瞳。シャーリーを見つめる、ルイ先生の瞳。

 羨ましかった。

 彼らは周囲にどう思われるか、他人からの評価など歯牙にもかけない。自分の心のほんとうを、真実の愛を迷わずに見つめる。すこし寂しい。誰の心も、どんな瞳も、まだクーネルには向けられていないのだ。

 そのとき、

『マチアス』

 リリーの鼻先あたりから声がした。

 クーネルは二歩下がって、背中を薔薇の花壇にくっつけていた。指に棘が刺さったような痛みが走っていたが、今はそれどころではない。跳ねるようにして、マチアスの目の前に舞い戻る。腰をかがめ、背の低い婚約者に合わせた。

「いま、しゃべった~!?」

「きこえたのか? おまえにも」

「うん……!」

「リリーの声がきこえたのは、余の他ではおまえが初めてだ」

 びっくりしすぎたクーネルの頭から、細かい迷いごとや不安が消し飛んで、ただただリリーのコーパルの瞳と柔らかい茶色のほっぺ、赤い鼻をまじまじと見つめた。

その声は本当に男性の声だった。マチアスより低く落ち着いて、だいぶ年上のようだ。種族の違いだけではなく、年の差の恋でもあるのか。

ほほえましく暖かくほろにがい。少女の好奇心が角を生やして、気持ちは飛ぶ。ぐんぐんと、真夏のひまわりのように。

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クーネル姫の冒険 らいらtea @raira_t

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