第9話 悪手はいつだって終盤にやって来る
その日、というか大会の前日、将棋部の部室は結成以来の大盛況となった。
阿僧祇肇、佐々良沙羅、布留川みりん、御厨美冬、白樺あんず……ついにメンバー全員が部室に集合したのである!
……このメンバーになってからそろそろ一年近く経つのに、一度も全員集まったことない方がおかしいんだよなぁ。そら教師から嫌味の一つも言われるわ。
御厨は入部時の宣言通り、相変わらず将棋を指さないのだけど、今日は来ていて布留川の将棋を後ろから眺めている。
「御厨さんが睨んでる……。ひぃん……」
白樺はやたらと顔色が悪いが将棋自体はちゃんと指せているので問題ないだろう。
「布留川と白樺は同じくらいの棋力みたいだな」
「そうみたいっすね」
布留川と同レベルの対局相手が現れたのは良いことだ。ずっと幽霊部員だった人間と同レベルという点については深くは考えないことにする。それを言うと布留川の教師役であるボクに飛び火するし。
というわけで布留川と白樺は勝ったり負けたり。
最近の布留川は勝利を渇望している様子だったけど、これで少しは溜飲が下りただろうか。
「もう一回指そう! もう一回!」
「ひぃん……」
いやー、相変わらずやる気に満ちている。
どうしたんだろう。大会と聞いて元バスケ部の血が騒ぐのだろうか。
「布留川の奴、気合いが入ってるなぁ」
「そりゃそーっすよ。布留川は次の大会にかけてるんすから」
「そうなの?」
活動実績に書くことがなくて体裁が悪いのは布留川の責任ではないので、負担を掛けてしまうのは申し訳ない。
大会はボクと沙羅が……主に沙羅が頑張ると思うので、後輩達にはのびのびと指して欲しい。
まあ結果が奮わなくて活動実績に書くことがなかったってそれだけの話だし。教師に多少嫌味は言われるだろうけど、既に動いている部活動を止めるなんて出来ないのだ。最悪無視してりゃいい。
大人の言い分をスルーすることに掛けては阿僧祇肇は一家言ある。
「ろくでもないこと考えてる顔してるっすよ」
後輩に呆れ顔で言われた。
いや、君が銀髪なのも問題あるんだからね?
「お前こそせっかく見てるんだからアドバイスでもしてやれば?」
「うーん、今下手に違うことを外から入れたら混乱しそうっすし」
おや?
御厨のことだから「初心者の将棋は分かんないっすー」みたいなことを言って拒否するのかと思った。これも断っていることには断っているが、布留川達のことを考えた上で今自分がアドバイスをするべきではないと判断している。
「なに人の顔じろじろ見てんすか? セクハラっすよ」
「何で顔を見るだけでセクハラになるんだよ!」
ボクに対してツンツンしてるのは変わりない。デレる御厨も想像つかんけど。
「まあ布留川は脳味噌の容量そんなに多くないし、大介本が身につきかけてるなら今は他のこと教えない方がいいか。特に大会前日には」
「そういうことっす」
御厨もこの一年で随分丸くなったと言っていたけれど、北極星の周期のように緩慢ながら、静かに変わってはいるのだろうな。
「解けた!」
ずっと詰めパラと睨めっこをしていた沙羅が晴れやかに顔を上げた。
「おー、お疲れ」
ちらりと沙羅が取り組んでいた図面を見てみたが、よく分からない。駒が入り組んでいて、相当な難問らしいことは分かる。
「これを十分そこらで解いちゃうんすねぇ……」
御厨は驚くというより呆れている様子だった。
「この間までは無理だったと思うぞ?」
恐らく今度の大会で勝つと決めたのだろう。
御厨のことを絡めて嫌味を言われたのが、ボクの想像以上に気に障ったのかもしれない。
今まで沙羅はこの将棋部の空気に合わせてゆるゆるとやっていた。必要以上に強くならないようにセーブしていたといっていい。
だけど今度は必ず勝つと、彼女は決意した。そう決めてしまったのなら、佐々良沙羅は期日までに際限なく強くなる。
☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖☗☖
夕焼けに染まる街道を私は先輩と肩を並べて歩いていた。
――もう時間も遅いし、後輩を自宅まで送っていくのは最低限のマナーだよ? 肇ちゃん。
一人先に電車から降りようと別れの挨拶を切り出した私の言葉を遮ったその助言が、入部以降一度として発生することのなかったこの状況を作り出していた。
「えっと。わざわざ送って貰ってありがとうございます。」
「別に気にすんな。ここからボクの家までならそう遠くはないし。あと八割が路地裏で構成されると噂の通学経路も確認したかったしな」
「それ覚えてたんですね……」
いつもと変わらない軽口を返す先輩。それは初めての自宅送りイベントに浮遊感を覚えたままの私とは対照的で。なんだかホッとするような。ああやっぱり先輩にとって私はあくまで後輩でしかないのだと少し胸が痛むような。そんな相反する感情を背負ったまま、私の家は刻々と近づき、貴重な時間は過ぎていく。
この貴重な時間が先輩が佐々良先輩からの要望に応えた結果であるという点に少し引っ掛かるものを抱えながら。
「それにしても。あんずちゃんが大会に出場してくれるって言ってくれて本当に良かったですね。てっきり絶対出ないって言うものだとばかり」
「そうだなぁ。毛布に籠もったときは終わったと思った」
「先輩って私達のことを全然見てないみたいで、意外と見てるんですねぇ」
「意外とは余計だ」
いいえ、やっぱり先輩は見てないですよ。
なんて言えないけど。
「今度の大会! 見てて下さいね! ばっちり結果を残して将棋部の活動実績を輝かしいものにしちゃいますから!」
「おお、頼もしいな」
と、先輩は笑う。
「だけどまあ、お前達は気負わなくていいからな」
「と、言いますと?」
「何というか、活動実績に書くことが何もないなんていう事態は先輩であるボクと沙羅の不徳の致すところで。そっちはボクらでどうにかするから、というか多分沙羅がどうにでもするだろうから、布留川と白樺は大会を楽しんでくれたらいい」
「…………」
後輩を気遣った、優しい言葉なんだろうと思う。
客観的に見ても、今まで公式戦で一度も勝ったことのない私が今度の大会で入賞なんて出来るわけがない。
先輩は気づいているだろうか。
先輩にとって後輩はどこまでいっても庇護の対象で、唯一肩を並べているのは佐々良先輩だけだってことに。
先輩は気づいているだろうか。
バスケが出来なくなって、一番大好きだったものが奪われて、私という人間に価値なんてなくなってしまったと思った時。
私が将棋と出会って、どれだけ救われたのか。
この一年間、楽しかった。
それは先輩の背中を見ていた一年間。
こんな関係が、こんな日々がずっと続いていけば、それで十分に幸せなのだろう。
だけど私は思ってしまったのだ。
願ってしまった。どうしようもなく。
先輩と、この先に進んでみたいって。
「っと! この角を曲がったところが私の家です。ええと。ありがとございました! わざわざ送って頂いて」
「だから気にすんなって。まあ八割どころか路地裏を通った記憶すらなかったから、今後お前を心配して一緒に登下校をする必要はないって分かったことは収穫だな」
地に付かない脚を曲がり角の前まで運ぶ。
そして振り返って左手を挙げる。
「先輩! 今度の大会! 私勝ちますから! 絶対勝ちますから! 見てて下さい!」
叫ぶ。声の限りに。
宣言だ。そうやって自分を鼓舞しないと折れてしまいそうになる。
一年前の自分に戻ってしまいそうになるから。
「活動実績なんて気にすんな! お前は好きなように飛車振ってろ!」
何故だか知らないけど先輩も大声で返してくれてる。
「そういうことじゃないんですよぅ! この分からず屋!」
「意味分かんねーよ! どういうことなんだよ!」
そんなの。
そんなの決まってるじゃないですか。
「先輩のことが好きだって言ってるんですよ!」
――あ。
挙げた手を降ろした時、それはもう着手が終わった後で。
全身に血が巡り、視界が霞み、頬が蒸気し、全身の毛穴が開く。それは将棋指しの端くれなら誰でも一度は経験したことがあるあの感覚。
その日、布留川みりんは悪手を指した。
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