第9話 バンの弓


 夕方、本陣に商人の一団が到着した。


 エスタールの商人で、クリシュナの馴染みの者だった。


 荷車から食糧や武器が降ろされていく。近くにいた者が誰と言うわけでもなく手伝っていた。私も慌てて加わった。ガゼルやロナーもこういった雑用を手伝っている。


「新しい弓だな。ずいぶん大きい」


 ロナーが小さくつぶやいた。ロナーはいつも弓を携えている。剣よりも弓が得意なのだという。国一番の弓の名手だろうとガゼルが言い切っていた。ただ、弓は狩りにはよいが、戦には向いていない。鳥や獣はしとめることができても、兵の鎧を貫くような強い弓はないのだ。鎧で守られていないところを狙うしかないが、それで敵を倒すのは至難の業だ。ロナーはそれができるから弓の名手だという。


 新しい弓は、見たことのない材木が使われていた。ナント地方付近では見たことがない。


 クリシュナがロナーを呼んだ。


「新しい弓を試してみてくれ」


「了解しました」


 ロナーは弓と矢を持って走っていった。しばらくすると弓と矢を持ったまま戻ってきた。怒ったような呆れたような顔をしている。


「どうだ」


「何ですかこの弓は。まったく使えません」


「そうか?」


「まず弓が大きい。それから弓が強すぎて引くことができませんな。引いても強さに負けて途中で放してしまう。それゆえに距離も飛ばぬ、狙いも定まらぬ、不良品です」


 ロナーは憤慨して商人をにらんだ。商人は恐縮している。


「ははは、すまない。これは、南方のトラキアという遠い外国の弓だ。バンの弓という。今までの弓のように、矢を親指と人差し指でつまんで引くことはできん。ロナーの言う通り、弓が強過ぎるからだ」


「では、どうやって引くのですか」


「この皮手袋を使って、親指を曲げて弦にかけ、人差し指と中指で矢をはさみながら、拳を握って弦を押さえるように引く。力はいるが、威力は絶大だ」


「どれ、では試してみますか」


 ロナーは半信半疑だった。陣の外に歩いて、周りを見回した。少し森の方へ移動する。クリシュナや他の何人かも後ろについていた。もちろん私もいた。


 ロナーが鳥を見て、弓を構えた。「どうも、引きにくい」


 顔をしかめている。力がいるのだろう。まだ放さない。狙いを定めている。鳥はまったく気付いていない。びゅっ、という鋭い音がした。ロナーが矢を放ったのだ。今までに見たことのない矢の速さ、いや、矢はほとんど見えてさえいない。


 鳥は動かなかった。外したのか、と思った。次の瞬間、鳥が倒れた。おお、といううめきが漏れた。当たったのだ。見事な技だった。ロナーが駆け出した。みながそれに続く。鳥の首を掴んで、ロナーは立ち上がった。鳥に矢がささっていない。しかし、血が流れている。


「外してはいない。貫通したのか」


 ロナーはさらに向こう側を振り返った。そして、今度はゆっくりと歩いて森に入った。矢が木にささっていた。鳥を貫通して、その奥の木にささったのだ。ロナーは矢を抜こうとしたが、抜けなかった。他の者が手を貸した。三人がかりで引くと、矢が刺さったまま途中で折れた。矢じりはただのまっすぐなもので、もっとも抜けやすいはずだった。


「鳥を貫通した上に、木の中に手首から中指の先に届くくらいの長さがささっていました」


 ロナーは呆然としながらクリシュナへ報告した。「なめし皮の鎧など無意味になりますな。木の盾でも防げるかどうか。その、南方のなんとかという国とは戦いたくないものです」


「この近辺では誰も知らない新しい弓だ。トラキアでもまだめずらしいものらしい。これが今は三十ほど用意できている。四隊と五隊は槍や剣に向かない者が多いから、弓射隊として鍛えてほしい」


「私も使うとして、九つ余りますが?」


「予備にする。なかなか手に入らないが、九つまでは壊しても間に合うということだ」


「もったいない気もしますが、それもそうですな」


「十日でこの弓を引けるように、二十日で人型の的なら外さぬように鍛えてくれ」


「はあ、朝夕、弓を訓練しますか」


「いや、朝は今まで通りだ」


「なら、昼と夕に弓を鍛えてもよろしいか」


「急ぐからな。少々疲れても仕方ないか」


「では今からさっそく」


 ロナーは走って陣に戻った。どうやら興奮しているらしい。そしてすぐに訓練が始まった。


 クリシュナは矢がささった木を見ていた。何かを考え込んでいる、そう見えた。聞こえなかったが、何か独り言をつぶやいたようだ。そして、陣へと歩き出した。迷いと決意が重なって、混沌とした表情だと思った。私の右手が震えた。描きたい、という欲求が腕に溢れた。


 陣に戻ったクリシュナは幕舎に商人を招いて話し込んだ。双子だけを残して人払いをし、何か密談を重ねている。


 ガゼルに訊ねると、本陣に商人が来るといつもそうだという。


「あいつらは、品物だけじゃない。それこそ各地の情勢、天変地異、エキドナル軍がもつ兵糧の残りの重さまで知っている。いや、これは少し大げさな話だが」


「だからクリシュナさまは、各地の動きを確認するために商人と会っているのですか」


「全体を動かす立場にいると、失敗は許されない。ここにいる全員、クリシュナさまに命を預けているのだからな」


 ガゼルは声を小さくした。「中には、クリシュナさまに死ねと言われれば死ぬだろう、と思える者も出始めた。実におそろしい軍になってきている。まあ、クリシュナさまはその逆を考える方なのだが、一人一人はそう思っていないな」


「命を大切にせよ、か」


 私はつぶやいた。それはクリシュナの口癖だった。ふとさっきのクリシュナの顔が思い浮かんだ。何かを決断し切れていない、かげりのあるあの表情は私の脳裏に焼きついていた。何年後であっても、その瞬間の出来事のように絵にする自信がある。


 もしかすると、クリシュナは倒すべき敵の命でさえも大切にしたいのではないか。


 不思議な空想だったが、真実に思えた。


 バンの弓は強力な新兵器であり、我々に勝利をもたらすだろう。ロナーは弓隊を鍛え、クリシュナは間違いなく、その効果的な運用を確実に実行する。我々は生き延び、敵は屍を重ねるだろう。それも我々が助かれば助かるほど、敵は多く死ぬ。そして味方は狂喜するだろう。


 敵はエキドナル軍であり、また、我々が反乱軍である限り、この国の正規軍とも戦うことになる。どちらが相手でも、我々は戦い、クリシュナは我々を勝利へと導いていく。誰も気付かない無数の屍を乗り越えて。


 それがこの国を崩壊から立ち直らせ、国民を貧しさと飢えから救うために必要なことだとしても、その中で人が死んでいくことをクリシュナはどこか認めることができていないのではないか。そしてその人たちの死にもっとも深く影響を与えているのが自分自身であるということを自覚し、自己嫌悪に陥っているのではないか。


 それでもクリシュナはこの道を進んでいくのだろう。自分自身の迷いを心の奥底に封じ込めながら、誰にもその苦しみを伝えずに。


 クリシュナが言った、見えないものが見えるという、私がもつ力の本当の意味を、私はまだ知らなかった。










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