海の怪
二十年近く前の話だ。私は両親に連れられ、北陸へと旅に出かけていた。当時五歳の私にとって、家から遠く離れた土地に赴くのは初めての経験だった。目に入るものすべてが新鮮で、私は上機嫌で過ごしていた。
日も傾き、私たちは宿に戻るため鈍行列車に乗り込んだ。窓には夕日に染まる日本海がいっぱいに広がっていた。両親はその光景を感慨深く眺めていたが、その時の私は一日中歩き回った疲れから、座席に身を預けるのがやっとという有様だった。早く宿に着いて、あたたかな布団に潜り込みたい――そればかりを思いながら座席の振動に身を任せていると、いつしか微睡みに呑まれていた。
目が覚めると、私は独りで浜辺にいた。
太陽は水平線に半ばまで身を投じ、空も海も一面の赤だ。足元を細波が洗っていた。静寂が辺りを包んでいた。
前触れもなく、大きな波が
白く躍る波濤を眺めていると、気付いた。それは波ではなく、真っ白な腕の群れだった。血の気のない何百何千の腕が、手招きするように蠢きながら近づいてくるのだった。恐ろしい光景に、私は目を逸らすことができなかった。悲鳴を上げようとした喉は凍りついたように動かない。
ざわざわ。ざわざわ。
潮騒が響いた――いや、違う。それは声だった。誰とも知れない、幾億の声だった。反響し、増幅され、鼓膜が軋んだ。耳を押さえた。しかし声は止まない。頭の内側で響き続けて割れそうになる。涙があふれ、私は目を閉じた。怖い。助けて、父さん、母さん――
「●●●」
名を呼ばれた。母の声だった。聞き覚えのある、あたたかい声だった。胸に深い安堵の念が湧いた。私は縋る思いで目を開けて、
青褪めた女の顔が、目の前にあった。
目元が歪み、
口の端が吊り上って、
白い歯が覗いた。
「おいで」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
我に返ると、私の身体は母の腕の中にあった。
両親が心配そうな顔で覗き込んでいる。混乱した頭で事情を問うと、居眠りをしていて突然
窓の外を見ると、山々のシルエットが日没の名残を浴びて黒く浮かんでいた。列車は田園地帯を走っているようだった。海は山の陰になったのか、もう見えなかった。
夢だったのか――いや、違う。
あの声は。あの女は。
ほんものだった。
あやかしばなし ざき @zaki_yama_sun
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