第17話。時雨と雪椿

「星空……」


 闇の向こうから、ボクは意識を取り戻した。


 ボクの隣に座り込んでいる人物。濡れた服から水を滴らせながら、息を切らしている様子だった。


「どうして……椿綺つばきが……」


 ボクは椿綺に助けられたのだろうか。


時雨しぐれの母親に頼まれ、探していた」


「お母さんが……」


 また母親の思い通りになったのだろうか。


「時雨が川に飛び込んだ姿を見て、私が助けに行った」


「……っ、お姉は?」


 腕を結んでいた紐はちゃんと切れていた。ボクに続いて、一人で飛び込む勇気が柚子ゆずに無いことはわかっているけど心配だった。


「柚子なら時雨の母親が連れて帰った。時雨を川から引き上げた後、柚子はずっと泣いていて手がつけられなかった」


「泣いてたって……」


「ずっと、柚子は時雨に謝っていた」


 それはボクが自殺に失敗したから、謝っていたんだとわかった。柚子の責任なんて何も無いのに悪いことをしてしまった。


「自殺に失敗した後のことなんて、何も考えてなかった……」


 自殺をしたら、それで終わりだと思っていたのに。ボクは生き残って、椿綺に迷惑をかけてしまった。まるで、ボクのやったことが間違いだったと誰かに言われてる気がした。


 でも、死を身近に味わってもボクの頭の中は何も変わっていない。まだ確実にボクの中には嫌な感情が渦巻いて、残っている。


「時雨は私が連れて帰る。構わないな?」


「もう、なんでもいいよ……」


 ボクはおとなしく椿綺の家に行くことにした。


 今は何も考えたくない。それに椿綺の家に行けば、薬が貰えると期待していたから。




「お風呂、上がったよ」


 浴室から外に出ると、下着姿の椿綺が地面に座り込んでいた。家に着いてシャワー浴びたけど、その間は椿綺を待たせることになった。


「着替えはそこにある」


 服を着ていると、背後から伸びてきた腕に抱きしめられた。椿綺の方からスキンシップを取るのは珍しいから、なんだか不思議な感じだった。


「時雨。リビングでお前を待ってる人が居る」


「誰?」


「会えばわかる」


 家に柚子を連れて帰ったから母親ではないと思うけど。ボクは椿綺から離れてリビングに行くことにした。リビングの扉を開けて、その先にいる人物を確かめる。


 ソファーに座っている女性。ボクはその顔を確かめるように歩くと、女性の膝に柑菜かんなが頭を乗せて眠っている姿が見えた。


 女性はボクに気づいたのか、視線を向けてくる。


「その顔。見覚えがあるわ」


「ボクのこと知ってるんですか?」


 椿綺と同じ顔を持つ人間。だけど、その言葉から伝わってくる感情は重みを感じる。恐怖にも似たそれに覚えがあった。


 この人が優しい言葉を使っているのは、ボクを怯えさせない為だろう。そう。この在り方はボクの母親から感じるものと同じだ。


「こうして顔を合わせるのは初めてかしら」


 女性が手を差し出てきた。


「ワタシの名前は雪椿ゆきつばきよ」


「雪椿……」


「呼びにくいと思ったら、ユキでも構わないわ」


 ツバキと呼ばせないのは、椿綺の名前と被ってしまうからだろうか。名前を聞いたからこそ、ボクの予想は確かなものとなった。


「椿綺の母親……」


 雪椿。名前は聞いたことがなかったけど、ボクの母親とはそれほど遠くない親戚のはずだ。これまでボクが雪椿と顔を合わせなかったのが不思議なくらいだ。


「確か、時雨だったかしら」


「そうですね」


「敬語は必要ないわ」


 ここは従っておくべきか。


「はじめまして。とは言ったものの。ワタシからすれば時雨と顔を合わせるのは、これで二度目よ」


「二度目?」


「一度目はアナタ達が生まれたばかりの時に会いに行ったのよ。覚えてはいないでしょうけど」


 当然、ボクにその記憶はなかった。


「時雨と柚子、それに……」


 雪椿が言葉を止めた。


「どうしたの?」


「今。アナタが不機嫌そうな顔をしたわ」


「……お兄の話はしたくないから」


「そう。ごめんなさい」


 過去のことを引きずっているわけではない。ただ他人の言葉で語られる兄の話をあまり聞きたくなかったからだ。


 それがいい話だろうと、悪い話だろうと。


「それで、話を戻すのだけど。わざわざ仕事を休んでまで会いに行ったというのにアナタの母親ったら、自慢ばかりして抱っこもさせてくれなかったのよ」


 それは母親がやりそうなことだと思った。


「だから、やり直しがしたいのよ」


 雪椿が両手を広げた。


「時雨。アナタを抱きしめさせて」


 そこに悪意や欲望を感じない。雪椿には純粋な願いがあるだけ。だからこそ、ボクの体は自然と動いていた。


 雪椿に近づいた時、そのまま抱きしめられた。椿綺と違って、雪椿からは何も感じない。ボクの母親は変人だけど、愛情くらいは感じるし。椿綺がボクを抱きしめる時は小動物に接する時と似ている。


「もう少し早ければよかったわ」


 ゆっくりと、雪椿の体が離れた。


「あの……」


「残念ね。本当に……」


 会話の途中で柑菜が目を覚ました。


 すると、雪椿が柑菜のことを抱きしめる。


 その姿を見て、ボクは自分の抱えているものを再認識した。柑菜は見た目よりも大人と言っても、まだ周りの大人から可愛がられるような子供だ。


 そんな子供にボクは何をした。


「雪椿」


「なにかしら?」


 ボクの呪いを雪椿なら理解してくれるかもしれない。だけど、ボクは雪椿に伝えるべきことがあったはずだ。


「ボクは柑菜に汚い欲望を向けた」


 ボクは他人から愛されるような人間ではない。汚く醜い人間だ。だから、雪椿からボクは何も受け取るべきではなかった。


「時雨。アナタの望みはなにかしら?」


 雪椿に冷静で感情の込められていない言葉。


「もし、柑菜が大きくなった時。ボクがやったことを伝えてほしい。その時、柑菜が受け入れられないというのなら、ボクはどんな罰でも受ける」


 柑菜が大人になり、ボクの罪を知った時。ボクを裁く権利が柑菜にはあるはずだ。


「アナタは随分と甘い考え方をするのね」


「甘い考え方……?」


 雪椿が柑菜の頭を撫で始める。


「この子は何年経とうがアナタを恨んだりしないわ。なのに、この子に自分の運命を委ねるというのは、結局は何も責任を取らないのと同じ」


「だったら、ボクはどうすれば?」


 ボクは納得のいく答えが欲しい。


 でないと何も変わらない。


「消えなさい」


「え……」


 雪椿の声が恐ろしく頭に響いた。感情を剥き出しにした人間のソレとは違う。雪椿の言葉から伝わってきた感覚はボクを強く否定するものだった。


「ワタシの孫に二度と関わらないことが、今のアナタが受けるべき罰よ」


「そんなの罰なんかじゃ……」


 雪椿の腕の中で柑菜が動き始める。


「いや」


 柑菜の感情的な声が聞こえた。


「時雨。行かないで」


 今になってわかった。雪椿は柑菜をただ抱きしめているだけじゃない。ボクはところに行かせないように押さえている。


「柑菜……」


 雪椿がボクに与えた罰。


 それはボクが柑菜を見捨てるという選択。


 これまで柑菜と築いた関係のすべてを白紙に戻す。柑菜との思い出も感情も忘れる。そうすればもう二度と柑菜に汚い欲望を向けないで済む。


「雪椿、さん……ありがとうございます……」


 ボクは頭を下げた。


 雪椿に与えられた言葉にボクは逆らえない。母親から感じる言葉の重みと同じ。だけど、雪椿がボクに向けた感情の正体が善意だとわかった。


 ボクは二人に背を向けた。後ろから聞こえてくる柑菜の泣き声が嫌なほど頭に響いてくる。それでもボクは無視をして、部屋から出て行った。


 そのまま真っ直ぐ玄関まで歩いて行こうとした。


「時雨」


 でも、廊下の途中で椿綺が立っていた。


「私はお前のことを恨んでいない」


 椿綺の優しい言葉は今のボクには届かない。


「ボクは……もう、ダメだから……」


 椿綺の体が動き、ボクの体を抱き寄せた。


「時雨。私の願いを聞いてくれ」


「願い……」


 その願いがボクに叶えられるかわからない。


「この先、どれだけ辛いことがあっても、死ぬのだけはやめてくれ。それでもダメなら、私を……いや、私でなくとも信用出来る相手を頼ってくれ……」


 椿綺には悪いことをした。ボクのことを助けてくれたのに、恩を仇で返すような真似しかしてこなかった。


 だから、椿綺も自分には何も出来ないと答えを出してしまった。ボクは何度も椿綺のしてくれたことに感謝しているのに。


「椿綺。ありがとう」


 あの日、椿綺が自殺を止めてくれなかったら。


 今日、椿綺が助けてくれなかったら。


 ボクの世界は終わっていた。


 まだ生きている事実にボクは戸惑いながらも、一つだけ確かな答えを出した。


 もう椿綺に頼るのはやめないといけない。


 それが、ボクが大人になる為の選択だった。

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