4  二〇二四 葉月―中

 あの日から、僕の頭は靄がかったように冴えないでいた。最低限の日常生活をこなしはするものの、まるでそれはテレビ画面の向こう側の出来事のようで、不思議なくらい現実味がなかった。

 唯花にも灯華さんにも呼び出されることもなかったため、ここ数日は落ち着いている。事務所や唯花の部屋に行くことがなければ二人と会うこともないわけだが、夏休みになってから三日と空けずに顔を合わせていたからか、それには少しだけ違和感を覚える。そうやって唯花と話さないでいると、唯花の明るい声を聞かないでいると、少し前に僕を惑わせていた、あの空白の気持ちが広がるのだ。

 空っぽで虚無感のたちこめる、あの気持ち。まるで伽藍堂の中心に一人で立ち尽くしているような、どうしようもなくやるせないあの気持ち。一度それに捕まると、たちどころに日々が色褪せていってしまう。ただ不安も恐怖もなく、無色に染まっていってしまう。

 そんな無味乾燥の世界の中、僕が唯一していたことは、病院で聞いた悠那ちゃんの言葉を考えることだった。深く鋭く僕の心に突き刺さったあの言葉たち。そればかりを頭に浮かべ、ほとんど惚けたように数日を過ごした。

 そしていよいよ考え事が気にかかって仕方なくなると、僕は一人で彼女のところを訪れた。唯花に断りを入れずに勝手なことをしたら怒られるかとも思ったけれど、前回のあの様子を思うと、唯花を誘えばまた議論の平行線に陥りかねないように感じたのだ。だから今回は一人で出向いた。

 昼時を少し過ぎてから、院内のロビーや廊下を素通りし、棟の端にある個室の扉を叩く。その人気の少ない広めの部屋の前で深呼吸をしながら、僕は居住まいを正した。

「はーい、どなたですか?」

 扉越しに、声が聞こえる。

「川澄詞です。こんにちは、悠那ちゃん」

 僕がそれに答えたあと、なぜだろうか、数秒の間が空いた。特に室内で何かをするような物音はないけれど、ただ沈黙が流れる。

 そののちに、また、声が聞こえた。

「今日は、一人みたいね。どうぞ」

 足音でも聞こえていたのだろうか。今日は唯花と一緒でないことが、既に彼女にもわかったみたいだ。

 僕は「お邪魔します」と言って病室の引き戸を開く。中に入ると、いつもと違った光景に、少し驚いた。

「あれ、何をしているの、悠那ちゃん」

「見てわかるでしょう? 鉢に水をあげているのよ」

 彼女は振り向かず、窓際の鉢植えに視線を向けたままだった。そんな彼女は、自分の足で立っていたのだ。二本の足に均等に荷重を分け、銅像のように姿勢を良くして、花に水を与えていた。

「そっか。その花は……誰かのお見舞いの品、とか?」

「いいえ、ずっと前からここにあったものよ。気づかなかった? 最近になって、緑色だった蕾が、開き始めたの」

「へえ。うん、気づかなかったな。ちゃんと世話をしていて、偉いね」

「たまに水をあげるくらいよ。世話なんてほどじゃないわ。それに、咲いた花が私の部屋ですぐに枯れでもしたら、寝覚めが悪いでしょう」

 僕と会話をする間、悠那ちゃんは一度もこちらを見ることはなかった。あの明るくて無邪気な丸い瞳を、今日はまだ一度も見ていない。

「まあ、確かにそうかもしれないね。でも偉いよ。しっかり水をあげていたから、綺麗な赤色の花が咲いたんだね」

 鉢に咲く花はハンディサイズのジョウロから注がれる水滴をよく弾き、小さな花弁の上に踊らせている。そして瑞々しく張りのある、濃い紅を呈していた。

「………………」

 ジョウロの水が切れてからも、彼女はずっと手元の花を見つめている。水の降るわずかな音さえもなくなって、室内は、澄んだ空気と沈黙だけに満たされる。

「ところで今日は……何だか少し、様子が違うね」

 答えない彼女に対して、僕は再び会話を投げかけた。すると、いつもよりもゆっくりとしたテンポで、声が伸びてくる。

「そう……? どんな風に?」

「大人しいというか、元気がないというか……とにかく、とても静かだね」

「お兄さんは、賑やかな方が好き?」

「いや、決してそんなことはないけれど……まるで、別人みたいだなと思って」

 そこまで言葉を交わしてやっと、悠那ちゃんは緩慢な動作で踵を返し、僕の方をまっすぐ向いた。そこには普段の快活な印象はまったくなく、代わりに深く幽玄な雰囲気を感じた。

「あら……だって、別人だもの」

 ポツリと彼女は、短く零す。

 僕はその発言の意図を、すぐには理解できなかった。

「……えっと……え?」

 目の前の女の子は、いつも始終笑顔をくれていたはずの女の子は、今は無表情で氷のような視線を向けてくる。それは怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。ただただ、感情が見えないのだ。

「べつ、じん……? 君は……悠那ちゃんじゃ、ないってこと? もしかして、二重人格、とか?」

 僕がそう聞くと、彼女の無表情な顔がほんのわずかだけ綻び、束ねられていない長くてまっすぐな髪がさらりと揺れた。

「ふふっ、お兄さんって、本当に面白いわね。よく言われない? 変わってるって」

「いや、そうかな。僕は、至って平凡な男子高校生のつもりだけど」

「いいえ。ユーモアがあって、好きよ。そういうの。でも、ごめんなさい。私はそんな大そうなものじゃないの。ただ、猫被ってるだけよ」

 かなり意外な言葉だった。瞬間、僕は驚いて息を飲む。僕のしてしまった突飛な想像よりはよほど現実的だけれど、あれほど純粋に見えた悠那ちゃんの口からそんな言葉を聞くと、よりいっそうの非現実性を思わせる。

「だからね、むしろ逆なのよ。今の私が本当の織戸悠那で、これまでお兄さんと接してきた私が、私じゃないの」

「へ、へえ……そ、そっか……」

 驚きは態度だけでなく、僕の声にも表れてしまうほどだった。そしてそこには、彼女に見つめられているがゆえの緊張も、混じっていたのだろうと思う。

 年下の女の子になんて、見えるはずがなかった。僕に向けられる、冷たくも魅力的な彼女の視線。それは、彼女と接した僕の記憶の中で、たった一度だけの邂逅を思い起こさせる。

「まあ、一番最初だけは、例外だったけどね」

 そう。あの、淡い月の光に包まれた夜――彼女と初めて話した夜のことだ。

「一番最初……公園で、初めて会ったとき……」

「そうよ。まさかあのときは、こうやって見舞いにきてもらうような間柄になるとは、思わなかったからね」

 確かに今の悠那ちゃんからは、あのときと同じ空気を感じる。儚げで美しく、虚無感を伴う冷めた声音。

 僕は、その凛とした透明な姿に引き込まれないよう、気を張った。今日僕が一人でここを訪れたのは、どうしても気になったことを確かめるためだ。僕自身の意見を固め、伝えるためだ。だから、ああ、しっかりしなくては。

 そして今日は、僕の単身の訪問が功を奏したといっても良かった。今僕の目の前にいる彼女は、紛れもなく確実に“本当”のようだから。

「そっか……なるほど。でもあるいは、今日の話は本音の方が都合がいいから、僕としては歓迎かもしれないよ。君が裏の……いや、本当の悠那ちゃんなら」

「裏だなんて、人聞き悪いわ。いくら事実でもね。いったいどんな話? と言ってもまあ、だいたいの察しはつくけれど」

 溜息混じりで、彼女は言った。

 僕は一呼吸置き、これからする話が少しでも彼女の気を惹くであろうことを願い、口を開く。

「続きだよ。初めて会ったときにした話の、その続き」

 すると、それを境に彼女の声は抑揚を帯び、口元はわずかに引き上がった。笑顔というよりは、妖艶にほくそ笑むような感じだった。

「へえ……てっきり、私を説得でもするのかと思ったわ。でも、案外楽しそうな話じゃない」

 説得、か。それに関しては、あまり否定もできないところだけれど。

「まあ、そうじゃないと言えば、嘘になるかもしれない。でも……聞いて、欲しいな」

 返事は返ってこなかった。ただ目の前では、悠那ちゃんが僕を見て、やはり淡い笑みを浮かべる。どうぞ、と僕に先を促すようだった。

「僕は……悠那ちゃんの意見に、反対しないよ」

「……私を、止めないの?」

「うん。前に唯花が、ここで声を強めて主張をしたとき、それを見ていて思ったんだ。唯花の考え方は、僕とは少し違った。でも君は、僕と似た思考を持つ。だから、止められない。否定、できないんだ」

 思えば唯花はあのとき、死というものを完全に否定し、拒絶していた。それについて考えることさえ、認める様子はなかった。

 それが僕とは違う。それが悠那ちゃんとは違う。

 僕は、悠那ちゃんと同じように、自分の死について考えたことがあるのだ。何度も、何度も、出るはずのない答えを探して。それが自分の生に意味を与えると信じて。

 そんな僕だからこそ、わかることもある。きっと僕は、唯花よりも悠那ちゃんに近いはずだ。

「もし君が……諦めではなく、確かな想いと意志の下に死の道を選ぶというのなら、それを止めることは、できないと思う」

 僕が言うと、彼女の髪がさらりと鳴り、透明な音を奏でた。それはまるで、彼女の心の音のようだ。緩やかに弾む心の、嬉しがっている音に聞こえる。

「本当に面白いわ。今まで誰一人として、私にそんな言葉をくれた人はいなかった。怒りや諦念からではなく、優しさと誠意を持ってそんな言葉をくれた人は、いなかった」

「うん、これに関しては、少し僕も異常みたいなんだ。君の言うことには、わからない部分がとても多いけれど、でも同時に、とてもわかってしまう部分もある。生きて死の意味を考えること、その価値を見出すこと。とても、大切なことだよね」

 彼女の心と僕の心は、きっと同調を難としない。ある意味ではきっと、同類なのだ。

 そうしてやっと、僕は今、彼女の想いの深淵に触れ始める。

「そうね。本当にそう思う。そして、だから私は見つけたのよ。自分の生の証、死の意味を、織戸悠斗という存在の中に」

 きっとここまでは、僕の気持ちがよくよく彼女のそれと重なることで可能となったアプローチだ。ここまでは僕が、彼女に快く受け入れられていると分かる。

 しかし、本当の話し合いはここからだ。彼女の思想に、それと相反する僕の意思を伝えるための、そのための主張。今から放つ僕の声は、目の前の彼女に届くだろうか。

「けど、でもね。やっぱり待ってほしいんだ。僕は君に反対できない。でも、賛成することもできないよ。考え直してほしいって、言いにきたんだ。君をこのまま、黙って見送るわけにはいかない。君がいってしまうことを……君が、悠斗くんを連れていくことを……僕は見過ごすことはできないんだ。君は、悠斗くんと一緒になりたいんでしょう? それが望みなら、きっと選択肢は他にもある。この世界の中でも、十分に。だから……」

 僕が初めてここを訪れたとき、桂祐くんに促されて、悠那ちゃんと悠斗くんの関係を見た。二人の逢瀬を。そして、その抑えきれないほどの想いを。

 けれど、だとしても、二人の思い通りにはさせられない。

 僕はできるだけ優しく、ゆっくりと訴えた。

 すると彼女は、嬉々とした表情をフッっと消した。面白くなさそうに窓の外へと視線を流す。前髪の影が落ちる冷めた瞳で、陽の当たる明るい外界を見ながら、ただぼんやりと答えた。

「随分と、無責任なことを言うじゃない。気休めって言うのよ。そういうの」

「気休めのつもりはないよ。簡単だなんて思わないけど、それでも、不可能じゃない。方法は他にもある」

「他にも……ねえ。そう……お兄さんの言いたいことは分かった。それが冗談半分じゃないってことも。でもね。そもそもお兄さんは、きっと何か勘違いをしているわ。私の望みは、悠斗と一緒になることじゃないの。別に私は、あの子と末長く幸せになりたいなんて、そんなことは思っていないのよ」

 そして彼女は、さらに少しの間をおいてから、何かを読み上げるように平坦な語調で言ったのだった。

「私の望みは、悠斗と一緒に死ぬことだもの。言ったでしょう? 悠斗と一緒に、この世界を出ていくんだって。それは妥協でも苦肉の策でも、何でもない。それこそがまさしく、私の率直な望みなの」

 思考が揺らいだ。彼女との会話では、これは何度目のことだろうか。僕はそのとき、自分の理解の範疇を超えた異常性に、また思考を阻まれそうになったのだ。

 彼女の言葉にはもしかしたら、何かしらの感情が、溢れるほどに含まれているのかもしれない。けれどもその感情は、僕には理解できなかった。認識すらできない、未知種の感情。彼女が何を思うのか、その言葉からは到底わからない。

「何を言っているの……? 彼と死ぬことそのものが、君の望み……?」

 僕の声は震えていた。困惑がありありと表れていた。

 彼女は僕を見て、ふわりと柔和に、また微笑む。まるで友達との他愛のない会話の中で、当たり前の同意を求めるときのように。

「っふふ。だって、一人で死んでしまうのは、寂しいじゃない? ねえ?」

 明るい声が恐怖を煽る。

「……それが君の、死の理由だと、そう言うの?」

 妖艶な笑みと氷の無表情を幾度となく繰り返し、何度目かすらわからない彼女の笑顔は、あまりにも落ち着いていて、悟り切っていて、凄絶なほどに清らかで、僕の目と意識は少しチカチカした。

 ただ恐ろしかった。その恐怖に加え、焦りや、わずかに怒りまでも感じる。そういった想いが、ミキサーでかき回されたみたいに混ざり合って、急に心臓がざわついた。

 陽は高く外界を照らすが、室内は影になって薄暗い。そこに生まれそうになった闇が僕の不安を絶妙に掻き立て、胸にこびりつかせてゆく。

「そ、そんなの身勝手だよ! 君はそれでもいいかもしれないけれど……彼は、悠斗くんはどうなるのさ!」

「どうなるも何も、あの子もそれを望んでいるのよ。まるで砂漠の真ん中でオアシスの水を求めるかのように、心の底から、その願望を抱き続けている」

「でもそれは、たとえそうだとしてもそれは……彼のためにはならないはずだ! 彼の人生を、死の理由を、君が奪ってはいけないんだ! 君は、君だからこそ、よくそれをわかってくれるはずじゃないか!」

 悠斗くんはきっと、悠那ちゃんと一緒にいたい一心で、ついていくと言ったのだと思う。錯乱したような思考の中で、心までなくしていて……死ぬということがどういうことか、そんなことを考える余裕なんてないだろう。

 まだ残されているはずの時間を捨て、その命の答えも見つからぬまま死ぬなんて、そんなの絶対、間違っているはずなのに。

「死の理由は、人間の死は、とてもとても大事なことだと思う。それを見つけるために、人は生きると言ってもいいくらいに。それこそが人の生に意味を与える。でもだからこそ、簡単に見つけられるようなものじゃない。年端もいかない僕らには、まだ到底手の届かない真理のはずだ。それは、自分がそのために生まれてきたんだって感じられて、そのために死ぬのなら満足できて……生きて、生き抜いてよかったって思えるような、そんなこと。ちゃんと自分の人生を全うして、長い時間を生きた果てに、見つけなければいけないものなんだ。かくいう僕も、だから……こうして生きている」

「そう、そうよね。まさにそう。お兄さんの言っていることは、きっと正しいわ。でもね、その簡単には見つからないものを、私は見つけてしまったの。そして悠斗も、見つけたの。この世界での生に、最高の意味を与える、その理由。二人で共にくぐる、この世界からの旅立ちの門を」

「そんなはずない。君たちは一時の感情に流されているだけだよ。君も悠斗くんも、まだ幼いじゃないか。考え直そう。それに、百歩譲って君はいいとしても、今の悠斗くんは普通じゃない。そんな状態で、いったい何を見つけるって言うんだ。君たちは最後の最後まで、生きて考え抜くべきだ。勝手に自分で幕を下ろしていいはずがない」

「ねえ、お兄さん。生きる理由、死ぬ理由。それは全部、自分で決めるの。誰も見つけてなんてくれない。誰も教えてなんてくれないわ。正しいかどうかさえも自分次第。だから、私が幼いからとか、悠斗が普通じゃないとか、そんなことは関係ないのよ」

 僕は無意識に声を張っていた。もちろん自制はしたが、とても冷静ではいられなかった。お腹の下の方がキッと痛んで、胸に何かがせり上がってくる。

 目の前の、穏やかで長い睫毛のかかった瞳も、上品で優しい清楚な声も、氷のように冷えた鋭い針となって僕に刺さった。

「決めるのは、自分……。そりゃあ……そうかも、しれないけど。いや、でも……」

 でも、何なのだろう。この先に紡ぐ言葉を、僕は用意できる気がしなかった。何か言わなくてはと思うのに、喉を搾っても何も出てきやしないのだ。

 彼女との会話には、何か得体のしれないタイムリミットが設けられているように感じる。早急に答えて返さなければ、手遅れになるという焦燥を感じる。

 では、手遅れになると、いったいどうなるのか。

 きっと、辛うじて届きそうな僕の言葉は、ついに彼女には届かなくなってしまうのだろうと思った。

 そうして悩みながら立っていると、目の前では「ふう」と溜息が聞こえ、彼女がさらに口を開いた。

「悠斗が、あの子自身が、望むことなのよ。自分のために生きるよりも、私のために死ぬことを、あの子は望むの。だったら、そうすればいいじゃない。止める必要なんてまったくないわ。そう、悠斗は……私のために死ねばいいんだから」

 愛しい人に、死ねばいいなんて、そうは言えない。正直、気が触れているとさえ思う。そんな常軌を逸した憎悪のような愛情が、悠那ちゃんを、そして悠斗くんを包み込んでいるのだ。

 わからない。追いつかない。僕の脳では、とてもではないが理解不可能だ。二人はもう、生きて得られる愛の形には、到底満足できないのだろうか。世界で最高の愛の形は、一緒に命を終えること。そういう風に、考えているのだろうか。

「頼むよ、考え直してほしい。そして彼にも、考え直させて。そんな思想、あまりにもめちゃくちゃだ……」

「残念だけれど、そんな時間は残っていないわ。もうすぐなのよ。運命は、もう変わらないわ」

 話す彼女は、必要以上の動きは全く見せず、まるで人形から音が出ているだけのようにすら感じた。

 対する僕は僕で、身体の動きに割くだけの神経の余裕がなく、働くのは頭と口だけだ。

 怖いくらいに静かな室内で、僕と彼女の声以外の音は、存在しきれないようだった。

「お兄さんこそ、もう一度よく考えて。もうすぐ私は、完成されるのよ。魂は、欠陥ばかりのこの身体から解放されて、その生を終え、自由になる。それってすごく、素敵なことだと思わない? 何ならお兄さんも連れて行ってあげたって、いいんだよ?」

「いや、駄目だ。僕は……認められない。君が……だって、彼を連れていくなんて……駄目だよ……」

「……そう……駄目なの。私と同じお兄さんなら、わかってくれると思ったのに。そのお兄さんに否定されちゃうと、ちょっと……残念ね」

 混乱は、もうとっくに頂点だった。何度も頭打ちを繰り返し、それでもまだ収まる気配を見せない動悸と不安に潰されそうになりながら、僕は必死で両の足を折らずに保っている。こんな状態で、悠那ちゃんと対話をするのは苦しい。彼女は、眉一つ動かさずに平気そうな顔で話すのに。それなのに、僕の方は内心すぐにでも逃げ出したい衝動に襲われ続けて、なのにそれすらも適わずに釘づけでいた。

 彼女がそっと表情を崩す。悲しそうに視線を落とし、焦点を合わせる先も見つけられないまま、目尻と眉を少しだけ下げて小さく呟く。

「ええ……実に、残念だわ」

 今日僕と顔を合わせてからずっと帯びていた冷たさはそのままにしながら、今はそこに寂しさを重ねて纏い、その姿は言うなれば、究極的なまでに儚げで繊細なガラス細工のようだった。透き通った美しい存在は何者をも魅了し、先端に触れれば少々危なく、しかし実はとてつもなく脆い。そんな印象を、このときの彼女は僕に与えた。

「あの花――」

 ああ、彼女の消え入りそうな細い声は、こんなにも恐ろしく、そして甘い。甘美な毒が心をかき乱す。これほどに甘い声を紡げる人に、僕はこれまで出会ったことがない。

「あの小さな花、思ったよりも、綺麗に咲いたわ。何ていう、花なのかしら」

 僕は大きく唾を飲み込み、掠れないように注意深く答える。

「……僕も、わからないな。植物には詳しくなくて。でも、白い部屋だから、濃い赤が、よく映えるね」

「そうなのよ。蕾のまま萎れてしまわないで、よかったと思う。せめて、時がきて枯れてゆくまでくらいは、面倒を見てあげたい気になるわ。光をあげて、水を注いで……ね」

 透き通るほどに、そして雪のように純白の指で、真紅の花弁をさらりと撫でる。翠緑の葉をパッと弾く。触れる手先からは愛しさが溢れていて、すぐにでも吸い込まれそうだ。

「永遠咲きの花なんて、この世にはないわ。そんなまがい物、花とは呼べないもの。花である限り、散り時は必ず訪れる。だったらその、美しい最後まで、私が隣にいてあげよう。そう思うの」

 美しい最後……。それはきっと、彼女が望む終わりそのものだ。辿り着けば、自由と完成が手に入る。そう言って。

 僕は、何かを言おうと思った。言わなければならないと思った。強い焦燥にかられながら、それに加えて、悲しそうな彼女の表情に耐えられなくなって。

 でも、それでも僕は何も言えずにただ立ち尽くすだけで、自分がとても情けなかった。僕の口は、一ミリたりとも動かなかったのだ。

「ごめんね、お兄さん。今日は、ここまでみたい」

 彼女は話を打ち切る。反応のない僕にとうとう飽きてしまったのか、気分がすぐれなくなったのか、理由は様々思いつくところだけれど、とにかく唐突だった。

「その……つまらなかった、かな」

「いいえ、そんなことない。興味深い意見だったわ。そうじゃないの」

 ゆっくりと目を瞑りながら、一つだけ深く呼吸をして、纏う空気をフッと変えた。

 次の瞬間、リズムの良い軽い音が二回、コンコンと部屋に響く。

「悠那、邪魔するよ」

 ガラリと鳴って扉は開き、声の主は現れた。

 すぐに悠那ちゃんは明るい挨拶を返す。

「いらっしゃい、桂兄」

 僕が振り返った先にいたのは、彼女の兄であり僕の級友でもある、織戸桂祐くんであった。

「ん、詞くんか。度々見舞いにきてくれているそうだね。ありがとう、感謝するよ」

 淡々と、しかしながらとても丁寧に、清潔な声で彼は話す。

「悠那、着替えを持ってきた。どこに置こうか?」

「うん、いつもありがとうね。部屋の隅にでも、置いておいてくれればいいよ」

 桂祐くんは、小さめのボストンバッグを片手で持ち、軽々と指示通りに部屋の隅に置いた。手慣れた様子といった感じだ。僕はこの光景を初めて見るが、きっといつもこうやって、桂祐くんは悠那ちゃんの身の回りの世話をしているのだろう。

 荷物を置いて手ぶらになってから、彼は両手を腰に当てつつ振り返り、僕に言う。

「もしかして、話の途中だったかな。悪かったよ」

 まっすぐに僕を見ていて、その表情からは、ひたすらに誠実さが感じられた。

「いや、そんなことないよ。僕の方こそ、もうだいぶ長居しているんだ」

「そうか。ただ、俺はすぐ戻るから、まだまだ長居してもらって構わないが」

 その様子からは、彼が僕の訪問を快く思っていてくれることがよくわかった。悠那ちゃんの話し相手になってほしいと言っていた彼は、僕を歓迎してくれている。

 ただ、半ば打ち切りだったとはいえ、僕と悠那ちゃんの会話はもう既に終わっていた。僕の困惑という形で、停滞を見せていたのだ。

 今日僕は、僕なりの考えを彼女に伝えた。しかし彼女にも彼女なりの考えがあり、互いの思考は納得がいくほど合致したとは言えない。

 今の段階では、これ以上僕がここに残っても、おそらく沈黙しかできないだろうと思った。

「あるいは帰るのなら、途中まで一緒に行かないか」

「えっと……うん。そう、しようかな」

 桂祐くんの提案に対し、僕は悠那ちゃんの顔色を気にしつつ同意をした。

「いいよ。送ってあげて」

 彼女は嫌な顔一つせず、明朗に微笑む。

「お兄さん、とっても楽しい時間だったよ。ありがとう」

 彼女にとっては、あの会話は不完全燃焼ではなかったのだろうか。僕はそれを気にしていたのだが、しかし楽しい時間だったと、彼女は言う。その真意はわからないけれども、彼女が僕の話したことを、少しでも真剣に考えてくれれば嬉しいと思った。

 隣では桂祐くんが、部屋の備品などを確認し、次にくるときには何を持ってきたら良いかなどを整理していた。それを見る悠那ちゃんは、終始明るい声で答えつつ、彼とも少しだけ他愛のない会話をする。

 そして、最後にこんなことを言うのだった。

「あのね……突然で悪いんだけど、これから少しの間、一人にしてほしいんだ」

 ゆっくりと、刻むように一言一言、告げた。

「ああ、俺も詞くんももう帰るから、問題ないだろう?」

「ううん、違うの。少しっていうのは、数日間くらい。その……考える時間が、ほしくて」

「……何か、あったのか?」

 桂祐くんはわずかに不安そうな顔をした。病人である妹が、しばらく見舞いにこないでくれと言うのだから、当然だろう。

 けれども僕はそれを見て、彼女が今日の話をしっかり受け止めてくれたのかと思った。それについての思考をするために、時間がほしいと言っているのだと思った。

「ちょっとね。だから桂兄、悠斗にもここにはしばらくこないように言っておいて」

 悠那ちゃんは、桂祐くんと話すときは相変わらず明るい。その屈託のない笑顔のためか、桂祐くんも必要以上に心配することはなく、そのまま話を進めていく。

「悠斗にもか。あいつは……素直に聞くか、わからないものだが」

「私が言ったって伝えれば、大丈夫だよ。だから、よろしくね」

「ふむ……。わかった。だが、あまりにも長くはいけないぞ。みんなが心配するからな」

「もちろん。気が済んだら、そのときにまた知らせるから。お兄さんもね。お姉さんに、また伝えておいて」

 彼女は僕の方にも同様に笑いかけ、伝言を用意した。

 先ほどまでとのギャップに若干戸惑いは隠せないが、僕は当たり触りのない同意を返す。

「……うん。けど、無理はしないでね」

 こうして僕は病室を後にすることとなる。

 去り際、悠那ちゃんははっきりと意志のこもった表情をして、こちらを向きつつ言葉を紡いだ。それは僕と桂祐くんの二人というよりも、明確に僕の方へ向かっての行為だったように感じた。

「ありがとう。私の答えが出る頃に、またきて頂戴ね」

 目尻は穏やかに下がり、口元は品良く閉じられている。そこにはやはり、少女とは思えない大人っぽさ、艶やかさがあった。放つ雰囲気で伝わってくる。この言葉は、間違いなく“本当”だと。彼女は、いずれまた僕が、ここへくることを望んでいる。

 もちろん僕だって、呼ばれれば飛んでやってくるつもりだ。もう僕は、彼女が死んでしまえば十分引きずる。それくらいの関係になってしまったし、だからこそ彼女の力になりたいとも思う。



     5  二〇二四 葉月―末



 最後に悠那ちゃんの見舞いをしてからというもの、それからはまるで、嘘みたいに平坦な毎日が過ぎた。何もなくても事務所には定期的に顔を出すよう、もとい話し相手になるように灯華さんには言われていたので、ちょこちょこ出向いたりはしていたが、しかしそれもそう頻繁というわけではなかった。

 唯花は最近、顔を合わせれば病院へ行こうとばかり言う。僕が悠那ちゃんと会った最後の日の伝言を、既に唯花にも伝えてはいたが、それでもなお唯花は様子を見に行こうと何度も言った。おそらく彼女なりに心配をしているのだろうが、対して僕は、その都度真剣な表情で返答をするのだった。もう少しだけ待ってみよう、と。

 ただ、最初はまだ良かったものだが、次第になかなか厳しくなってきた感じもある。時間が経つにつれて、唯花の提案は頻度を増し、僕の制止も曖昧になってきていた。 

 唯花はもちろんのことだろうが、僕自身も、不安に思う気持ちを隠せなくなっている。

 僕が悠那ちゃんの姿をこの目に最後に収めてから、今日まで期間としては一週間が経っていた。決して、長くはない。だがそれでも、彼女の場合は事情が事情。軽くはない病気を抱えた状態で、放っておくには短くもなかった。

 夏休みは、もうすぐ終わる。もう、残すところ数日だ。

 気持ちを切り替えるのも少々億劫に感じながら、暖炉の残り火を眺めるような名残惜しい気持ちで、僕は日々を消化するしかない。眈々と、待つことだけを心に決めて。

 そして、ある夜。そのときは訪れたのだった。

 夜といっても既に午前。正確には深夜と呼ぶべき時間帯。僕の枕元で、携帯のチープな着信音が鳴り響く。

「……また唯花か。まったく……メールだからって、時間なんかお構いなしなんだから……」

 当然のようにベッドで寝入っていた僕は、その音に目を覚ましつつ、ぼやきながら携帯を手にとった。どうせくだらない要件なのだ。そう思って。

 けれども、そこに浮かび上がった薄明るい小さな画素の集合体は、僕の脳に即座に飛び込み、急速に覚醒を促した。携帯を持つ右手も、投げ出した両の足も、画面を見つめる眼球も硬直して、届いたメールの文章だけが頭の中でぐるぐると回る。

 そこには一言、こうあった。


『今夜は月が綺麗です。こんな夜には、またあなたとお話がしたくなりました。』


 彼女が、悠那ちゃんが呼んでいるとわかった。

 連絡はできるだけ早い方が良いと思い先日アドレスを交換しておいたのだが、結局これが彼女との初めてのメールとなる。彼女も、メールの時間はあまり気にしない性格のようだ。

 ふと窓から空を仰ぐと、なるほどその通りだった。星のない漆黒の背景に一つ、極めて目を惹く明るい三日月が浮いている。僕と彼女が出会った日の、あの儚気な白い月にそっくりだった。

 僕はすぐに『いつでも構わないよ』という返信をしようとした。ゆっくりと親指を動かし、文を打ちこんでゆく。

 しかしそこで、メールの文が完成するよりも早く、また携帯が震えた。それも今度は、メールではなく電話の着信だ。

「も、もしもし、詞くんか? 寝ていただろうが、こんな時間に……済まない」

 突然の電話の相手は桂祐くんだった。

 意外な相手だ。いや、もっと言えば妙でもある。彼がこんな、常識的とはとても言えない時間に電話を寄越すなんて、いったいどうしたのだろうか。

「うん、僕だよ。大丈夫。それより、何かあった?」

 彼の声は、電話越しにでもわかるくらい慌てていた。彼は普段から冷静な人だが、今は動揺を抑えようとしてそれが上手くいかないような、そんな複雑な声色だった。

 僕が尋ねると、彼はたどたどしく状況を話した。

「隣の、悠斗の部屋から物音が聞こえて起きてみたら、悠斗がいないんだ。あいつがこんな時間に家を出るなんておかしい。悠那のところへは、悠那自身からこないように言われているから、あいつがその言いつけを破るはずがないし、だとするといったいどこへ――」

「落ち着いて。落ち着いてよ、桂祐くん」

「だ、だが――」

 気が気ではないのだろうと感じた。妹の容体と、その妹と弟の関係。この二つを真摯に心配する彼にとって、わずかでも関連する出来事ならば大いに気にかかる。当然のことだ。

 でも今回に限っては、彼がそれを僕に相談してくれたのは、非常にタイミングが良いと言える。間違いなく他の誰よりも、僕が適任だ。なぜなら僕は、うろたえる彼に対し、こんな風に答えることができるから。

「あのね、桂祐くん。たった今僕のところへ、悠那ちゃんからメールがきたんだ。きっと、悠斗くんのところにもきたんだと思うよ。だから悠斗くんは、悠那ちゃんのところへ行ったんじゃないかな」

「メールが……? 悠那から……?」

「うん。他愛のない内容だったけれど……そうだね、受け取りようによっては、会いにきてっていう意味だったのかも。だから、もし桂祐くんさえよかったら、これから彼女に会いにいかない? こんな時間だし、おかしいかもしれないけれど……何となく会える気がする」

 悠斗くんを、そして僕を呼んだということは、悠那ちゃんの中で何かしらの結論が出たということだろう。可能ならば、すぐにでも是非聞いておきたい。

 桂祐くんは、僕の誘いに迷いなく賛同し、これからすぐ待ち合わせて病院へ向かうことになった。

 何故だろうか、胸騒ぎがする。急いだ方が良いかもしれない。僕はそう感じ、ベッドから飛び降りて外出の準備を始めた。

 唯花にも忘れずに電話をする。きっとこの時間なら、ギリギリまだ起きていると思うのだ。まあ、仮にこの電話が寝ている彼女を起こすことになったとしても、要件が要件だから許されるだろう。むしろ知らせない方が、後になって何を言われるかわからないものだ。

 電話は、二回ほどコールを挟んで繋がった。反応速度からして、やはりまだ寝てはいなかったとわかる。

「何よ、詞じゃない。良い子は早く寝なさいよ。こんな時間にどうしたの?」

 こんな時間と、どの口が言うのだろう。言われて仕方のないことではあるが、当たり前のようにまだ起きている唯花には言われたくない台詞だ。呆れてそう突っ込みたい衝動が、ないわけではなかったが、だが今は如何せんそんな場合でもない。

 僕は、極力平静を保って現状を説明した。

 悠那ちゃんからメールがきたこと。その直後、桂祐くんから電話があったこと。そして悠斗くんが、おそらく悠那ちゃんのところへ向かったであろうこと。

 するとすぐに、唯花は僕の考えていることをわかってくれた。こういうときの唯花の行動は、素早いものだ。的確に状況を把握し、すべきことをよく理解してものを言う。

 これから唯花とも落ち合い、三人で悠那ちゃんのところへ向かうことに決まった。

 僕も急ごう。騒がしくないように支度をし、感づかれないように外へ出る。家の誰かに呼び止められても面倒だ。

 踏み出した外は、夜にしてはとても明るく、夏にしてはとても涼しかった。異常とさえ感じてしまうほどだ。街灯なんてなくても前がよく見えるし、全力で走っても汗だくになんてならない。

 けれどもやはり、どうしても焦る気持ちは抑えられず、急げば急いだだけ呼吸は荒くなった。息を上げながら、できるだけ早く待ち合わせの指定場所を目指す。真夜中の道は走りやすい。前さえよく見えれば、横断歩道も信号も、踏切も歩道橋もお構いなしだ。僕以外に他に動くものはなく、時間の止まったファンタジーのような世界を、一人で奔走している錯覚にとらわれた。まあ、本当に時間が止まってくれるなら、今はそれに越したことはないのだけれど。

 僕が集合場所まで赴くと、早くもそこには唯花が立っていた。まるで随分と前から、既にそこにいたみたいに。

 さらに僕の到着とほぼ同時に、桂祐くんも現れた。彼も走ってきたのだろう。僕と同様、少し息が上がっている。

「……音瀬、さん。あなたも、一緒だったか」

 どうやら、待っているのは僕だけだと思ったのだろう。少しばかり驚いていた。

「あら、ごめんなさい。ご一緒させていただくわ」

 対して唯花はうろたえもせず、澄ました顔でさらりと告げる。

「ど……どうでもいいけど、何で唯花が一番早いのさ」

「それは本当にどうでもいいことね。まあ、私が一番近くに住んでいるからかしら?」

 そうだろうか。いや確かに、数百メートル単位で唯花の家の方がここへは近いのかもしれないけれど。そういう問題ではない気がする。

「そんなことより、早く向かいましょう。急いだ方が良さそうじゃない? ねえ、桂祐くん?」

「あ……あぁ。そうだな」

 僕らは再び、夜の道を走った。

 情けないことに僕は、涼しい中でも結構バテ気味だったが、幸いこの場所から目的地までは十分近い。体力的には平気そうな表情をして走る唯花と桂祐くんに、置いて行かれなくて済みそうだった。

 この時間の病院は、外も中も真っ暗だ。宿直室に明かりが灯る程度だろう。当然ながら扉は開かない。しっかりと施錠されているはずだ。

 僕としては、到着したらしたでどうするのかと思っていたが、しかし結論から言えば、それについて心配はなかった。

 はなから正面玄関には向かわず、走りながら桂祐くんはこう告げる。

「裏へ回ろう。多分悠斗も、そっちから入った。鍵は、開いているはずだ」

 聞けば、どうやら合鍵というものがあるらしいのだ。それを悠斗くんが持ち出したと、彼は言う。実際に裏へ回れば、彼の言葉通り、扉は開いていた。

 僕らはそこから建物に入る。

 シンとした院内は、白い壁や床が闇色に染まっていて、廊下も階段も異様に長く感じた。外にいたときとは違って風の音がない。不気味なほど静かな院内では、自分の心臓の音だけが、唯一鼓膜を刺激する存在だった。

 目指すは最上階。その端の部屋。さすがに中では走るのを控え、エレベーターも使わずに階段を上る。

 僕は必死ではやる鼓動を鎮め、息を落ち着かせつつ二人に続いた。

 そうしてやっとのことで悠那ちゃんの病室まで辿り着くと、静止した空気を伝って、引き戸越しに声が聞こえた。

「悠那……いきなり会ってくれなくなって……俺、驚いたよ」

「あはは……。ごめんね、悠斗」

 悠斗くんと悠那ちゃんの、二人の会話だ。悠斗くんは不安を訴えるような声で、悠那ちゃんは可愛らしく愛嬌のある声で話す。二人にとっても、少々久々の会話のはずだ。いったい、何を話しているのだろうか。

「ちょっとね、考えなきゃいけないことが、あったんだよ。真剣に考えなきゃならない、大事なことがね」

「わざわざこんなに長い間、一人きりになって? 俺、すごくすごく心配だったよ……寂しかったよ……悠那……」

「長い間って、ほんの一週間ちょっとじゃないの。もう、大袈裟だよ、悠斗」

「そうだけどさ……。でも俺には、その一週間が、何十倍も長く感じられて。その間、いつもにも増して悠那のことばかり気になって。何も、何も手につかなかった」

 悠斗くんの訴えは、責め立てるというよりも、ただひたすらに不安そうな様子だった。消え入りそうな、弱々しい言葉たち。それは周りがこれほどまでに静かだからこそ、辛うじて僕らにも聞き取れる。

「そう? 悠斗は私に会えないと、そんな風になっちゃうんだね」

「だ、だって……俺が生きてるのは、悠那のためだよ。悠那に会えない毎日なんて、考えられない。気が、狂いそうになる……」

 相変わらずだ。相変わらずこの二人のやり取りは、姉弟然としていない。

 桂祐くんは、以前こうして二人の会話を聞いたときと同様、苦い表情をしていることだろう。今は暗がりで確認はできないが、きっとそうだ。

 そういえば、僕らは今、またあのときみたいに盗み聞きのようなことをしてしまっているけれども、いつになったら室内に入るのだろう。先頭を行っていた桂祐くんが扉の前で立ち止まって、以降そのままになっている。

「悠斗ったら、そんな調子で大丈夫? 夏休みの宿題はちゃんとやった? もうすぐ、学校が始まるでしょう?」

 室内では、悠那ちゃんの場違いに明るい声が響く。クスクス笑いながら、穏やかに問いかける様子が目に見えるようだ。

 すると、対して今度は悠斗くんも、力無くだが笑って返した。

「はは……よく言う。からかわないでよ、悠那。宿題なんてさ、学校なんてさ……どうでもいいことだって、悠那もわかってるだろう。今日、あんなメールを、俺にくれたんだから」

「っふふ。そうだね……その通りだね」

 あんなメール。それは、悠斗くんをここへ呼んだときのメールだろう。僕が知りたいことが、そこにある。

 悠那ちゃんの導き出した答え。

 悠斗くんがここへきた理由。

 二人の心の中にある思惑。

 ただそれらは、僕の考えでもまったく検討がつかないわけではなかった。いくつかの選択肢として、それぞれ可能性を持って想定される未来がある。それが不安の、焦燥の、そして恐怖の種となる。

「じゃあ悠斗。もちろんそのつもりで……ここへきたんだよね?」

「当たり前さ。悠那が望むなら、俺は何処へだっていく。ここじゃない世界……天国でも地獄でも、何処だっていいよ。悠那がいれば、俺はそれだけでいいんだから」

「そっか。嬉しいな。なら確かに、学校なんてどうでもよかったね。その他のことも……うん、どうでもいいね」

 中の様子は見えないのに、僕には彼らが、彼らの仕草が、手に取るように頭に浮かんだ。恍惚として見つめ合う二人。艶のある声。感じさせる背徳性。そして手を重ね、寄り添って、希望に満ちた瞳で語る。

「ねぇ……ねぇ悠斗。私たち、どんな風にいくのがいいかな? 屋上から、羽ばたくみたいに飛んだら、気持ちがいいかな。それとも、薬を口移しでもして飲んでみる? あるいは、練炭を燃やして、眠るようにいくのがいいかな。悠斗はどれがいい? ううん、もういっそのこと……刃物で互いを貫いたって、いいんだよ」

「……俺は、痛くたって苦しくたって、構いやしない。でも、最後まで、悠那と一緒が……いい」

 狂気を、そのまま言い表したかのような会話だ。聞いているだけで総毛立つ。想像なんてしたら、足が竦んでしまうかもしれない。クラクラするくらい甘く、誘惑的で、頭の中を掻き回される。異質で、生々しくて、恐ろしくて、超常的だ。

「じゃあ……そうだね。そこにあるそれ……そう、そのハサミを、とってくれるかな、悠斗」

 直後、物音のなかった部屋からは、フロアタイルを踏みしめる、コツコツという音がする。ゆっくりと、秒針のような一定の間隔で、悠斗くんが歩くのだ。

 そしてすぐに足音は止み、刃を開くときのシャキっというステンレス擦れの音が耳に届く。

 あぁ、駄目だ。止めないと。そうしないと、本当に取り返しのつかないことになる。考え得る最悪の未来が、訪れてしまう。

 止めなければならない。止めるしかない。早く、早く……手遅れになる前に、早く――。

 僕は脊髄反射で床に凍りつく足を引き剥がし、目の前で動かない唯花や桂祐くんを押し退けて、病室の引き戸を力一杯開け放った。

 血液が沸騰したように泡立って、心臓がドクドクと鳴り、脳が弾けそうだった。一瞬で全身から汗が吹き出てくる。ヒヤリと冷たい、凍える汗が。

 ガタンと響いた扉の音に、鋭利で高い金属音が重なる。誰の言葉もなく、何よりもクリアに、それは鼓膜を貫いた。

 切断音。何かが思いっきり断ち切られた。

 瞬間、部屋中に、その床を埋め尽くすようにして、細くて長い黒の光が舞い散ってゆく。

「やっぱり……もう、きていたんだね」

 サラサラと、視界にちらつくそれは、髪だ。

「またこっそり聞いていたんでしょう? ヤな趣味してるなぁ。わかってるんだよ、お兄さん。……あぁ、それと、余計な付き人があと二人……かな」

 唇をかみしめて固まった唯花。放心状態の桂祐くん。そして理解の追い付かない様子の悠斗くん。僕は必死な顔で事態の把握に苦闘をし、悠那ちゃんだけがつらつらと話す。

 何が起こったのか、数秒ほど遅れて、やっとわかった。

 悠那ちゃんが、自らの髪を切り落としたのだ。あの漆のように黒く、濡れたように美しい髪を、バッサリといっぺんに。そこに展開された事態の有様は、悠那ちゃん以外の四人が各々予期した事態のいずれとも異なり、誰一人として、未だに何の挙動も見せない。

 僕は、悠那ちゃんがハサミを手にしたとき、それで彼女は悠斗くんを刺すと思った。殺そうとするのだと思った。もちろんこんな思考が異常だということは、自分でも十分に理解している。けれども今は、その異常な思考が妥当に当てはまるくらい、同じく異常な状況なのだ。

 薄暗い室内には、仄かな月明かりだけが差し込んでいる。真っ暗の影は床に散る髪と混ざり合い、その中でハサミの刃が、銀色の光を跳ね返している。

 まさに今、この場を占める空気は変化した。僕にはわかる。なぜなら、そう。この瞬間に、目の前の彼女が、纏う人格を変えたからだ。

「ゆ、悠那……? な……何を、して……」

 呆然とする悠斗くんは、瞬きも忘れて目の前の光景をとらえていた。彼の表情は、まるっきり状況についていけないといった感じだ。悠那ちゃんのすぐそばにいた彼は、切り落とされて散った彼女の髪を少しばかり被っていたけれど、それを払い落とすことさえもしていない。ただただ、どうしていいのかわからないようだった。

「さて、もうみんなきちゃったことだし、下らないお芝居も、終わりかしらね」

 悠那ちゃんは冷めた目で悠斗くんを見下ろし、それから僕らに視線を流した。肩口から下がそのままなくなってしまった髪の束を揺らして、毛先や袖口に絡みついた残り髪を手で軽く払いつつ、落ち着いて緩やかに首をひねる。

 以前僕が出会った彼女。つまりは、“本当の”彼女が今、そこにいた。

「い……いったい、何をしているんだ。こんな……」

 僕は彼女の視線に射抜かれて、やっとのことで正気と声を取り戻した。それから極めて異常な室内の様子を指して呟く。

「だって、邪魔だったんだもの。お兄さんたちも、部屋に入るきっかけができて、一石二鳥だったしょう? 着いたのなら早く入ってきてくれないとさ。もう、時間も少ないんだから」

「それは……。いや、そうじゃなくて……何をやっているんだ。悠斗くんに大切にしてもらっていた、綺麗な髪なのに」

「だから、邪魔だったのよ。鬱陶しかったの。長くて重いしまとわりつくし、いいことなんて一つもなかったんだから」

 悠那ちゃんは吐き捨てるように嘲笑う表情で「やっぱり軽い方がいいわ」なんて言う。その冷めた言葉の向けられた先は、目の前で惚ける悠斗くんだ。

「あらあら悠斗。どうしたの? ぼーっとして。壊れた人形みたいに固まって、バカみたいよ?」

 彼女は妖艶な雰囲気を漂わせ、クスクスと笑みを浮かべながら、悠斗くんの顔にかかっている数本の髪を払い落とす。指先で頬を撫でるように、はらりはらりと優しい手つきで。

 しかし悠斗くんは、それに対して反応もせず、目の前の悠那ちゃんにガラス玉のような瞳を向けるばかり。

「悠那……どうして……。大事な髪が……」

 動揺し、困惑し、事態の処理が追いついていない。あまりに信じられないといった様子だった。

 それでも、そんな彼を気にすることなく、悠那ちゃんは言葉を重ね続けてゆく。穏やかな仕草と表情に、あまりにも不釣り合いな、刺のある言葉を。

「大事にしていたのは、あなただけよ」

 彼女の話す様子は、まるで何かのしがらみから解き放たれたような清々しさと、達成感にも似たものを思わせた。

「そう……好きだったのは、あなただけ」

「好きだったのは……俺だけ……? どういうこと……?」

「そのままの意味よ。あなたがどんなに私を好きでも、私はあなたのことなんて好きじゃない。大嫌いだって言っているの。……気づかなかった?」

 本当にバカみたいね。最後にそう付け加えるときにも、笑顔のままだ。彼女の発言は何一つとして、こんな柔らかい声が似合うようなものではない。本来ならもっと、歪んだ表情や苦々しい口調が相応しいような、そんな言葉のはずだった。彼女の言葉たちはまさに、刃のように悠斗くんを刺し貫くのに、それと対極の包み込むように温和な笑顔は、理解できる感覚の範囲を逸脱していて……気持ちの不整合、恐怖を感じさせる。

「悠那は俺のことが嫌い……? 嫌いなの……? 嫌いって……何で……?」

「嫌いだからよ。嫌いなものは嫌いなの。私にないものを全部持っているあなたが、そしてそれなのに、それを見せつけながら、平気で私に慣れついてくるあなたが、憎くて忌々しくて、仕方なかったわ」

「そんな……。俺は悠那のことが好きで、悠那も俺のことが好きだって。だから、二人一緒になれるように、この世界から出ていこうって」

「違うわ。私はあなたに、今までで一度たりとも、好きだなんて言っていない。その言葉だけは言わなかった。だって私は、あなたを殺してやりたいくらい、憎くて憎くてたまらなかったんだから。そして私の命がじきに終わるなら、あとを追うように仕向けよう。そうやって、何もかもあなたから奪ってやろう。そう思っていたの」

 僕は、身体の芯からさーっと冷たくなるのを感じた。皮膚は泡立ってゾクゾクし、室内の空気がいやに敏感に、鋭く感じられた。穏やかな夏の夜のはずなのに、内蔵にまで直接、寒気が刺さる。

 唯花たちもどうやら、身じろぎ一つ取れないようだった。目の前の狂気じみた光景に気圧されてしまって、指一本動かせないのかもしれない。

「ま、待って! 俺の持っているものなら、全部悠那にあげるから。悠那になら俺、何だってあげるよ。俺は、悠那さえいればいい!」

 嫌いだなんて言わないで、聞きたくない。そんな悠斗くんの悲痛な叫びは、弱々しくかすれていた。歪む顔が、とても痛々しかった。

 しかし、その訴えを向けられている当の悠那ちゃんは、まるで彼の声など聞こえないかのように、僕らを横目に見て話す。悠斗くんを正面に見据えているにもかかわらず、彼の言葉には一切興味がないみたいだった。

「……けどね、うるさい外野が騒ぐから、私、もう一度考え直してみたのよ。そうしたら、そんなの冗談じゃないって思えてきたわ。確かに私は悠斗のこと、殺してやりたいって思っていたけれど 、それでも、一緒に死ぬのは御免よね。死んでなおあなたと一緒だなんて、ぞっとする。さすがに私も、ちょっと耐えられそうにない」

「ゆ、悠那……」

「っふふ。でも、わかってるの、悠斗。私があなたに、こんな風に本当の気持ちを打ち明けたとしても、そんなことくらいじゃ、あなたの中の私は消えない。だってあなたは、私のことが、大好きでしょう? その心は私の虜で、私でいっぱいなんでしょう? 私以外のことなんて、あなたには見えないのだわ」

 あなたの中は私だけ。彼女はそんな、恍惚とした甘い響きを連ねてゆく。うっとりするくらい艶やかな唇で、脳を麻痺させる旋律を放つ。そうして悠斗くんの頬に真っ白い雪のような手を添えながら、吐息のかかるほど近くまで顔を近づけ、囁くように、諭すように、告げるのだった。

「ねえ悠斗、もうすぐなの。もうすぐ私は、この世界での生を、終えるのよ。私の魂はこの小さな身体から解放されて、自由になる。だからね、私は一人でいくわ。あなたは間違っても、追ってなんてこないでよ。私はもう死んでしまうけれど、あなたは生きる。この世界で、その命が尽きるまで、ずーっとね」

「ずっと……生きる……?」

「そうよ、生きるの。私に置いていかれ、私のいないこの世界で、私のことを忘れられずに生きるのよ。その胸の中から、私は消えない。それどころか、どんどんどんどん大きくなる。それなのに、もう一生、あなたは私には触れられない。私と会うことも、話すこともできない」

 だって私は、もうすぐ消えてしまうのだから。言い放つ悠那ちゃんは、嬉々として見えて、そして深い憐憫に満ちていて、どこか微かに哀しみを感じさせる。

「苦しいでしょうねえ。ええ、あなたにとっては、想像を絶する地獄だと思うわ。可哀想、なんて可哀想な悠斗。私は、そんなあなたが嘆きながら、ボロボロになりながら苦しんで生きる姿を、最後の最後まで、傍で見ていてあげるからね」

 悠斗くんの口からは、もう言葉は出てこなかった。添えられた手一つに、身体全てを掌握されているように動かない。呼吸すらしているのか怪しいほど、石のごとく停止していた。

「ねえ悠斗? 忘れられるものなら、どうぞ忘れてごらんなさい? 決してできやしないと思うわ。だってあなたは私のもの、私はあなたの全てだもの。だから私は、ずーっとあなたを見ているわ。あなたのすぐ、隣でね」

 そして悠那ちゃんは、儚くも満足気な笑顔を浮かべ、まるで内緒話をするかのように、悠斗くんの耳元へ口を近づける。一言だけ、今にも消え入りそうな、絹のように細い声を紡ぐ。

 その声は悠那ちゃんの羽織る衣擦れの音に混じって僕らにも届き、同時に彼女の行為に意識を集める。彼女はゆっくりと腰を浮かし、もたれかかるようにして悠斗くんを抱き寄せながら、そのまま、口づけをしたのだった。

 それは、以前僕らが覗き見たときのような、深々としたものではなかった。微かな水音さえ聞こえない、まるで儀式のように神聖な、唇が触れるだけのキス。

 このとき僕はその姿を目の当たりにして、感じてしまった。目の前にある光景が、まるで重厚な額縁に納められた名画のように美しく、さらには神々しくすらあると。

 二人の身体は光に包まれ、超常的な感覚さえ味あわされる。僕がまだ知らない感情。心。そういう不思議な、異質な想いを。

 行為は、時間にして約数秒。やがて二人の唇は離れ、悠那ちゃんは、悠斗くんに重なるようにして寄りかかり、首に回した両腕に力を込める。弱々しくも、強い意志を滲ませて。

「じゃあね。バイバイ、悠斗」

 言葉は、それ自体はとてもはっきりとしているのに、掠れて消えてしまいそうな印象だった。透き通った至純。胸を切り裂く哀切。生々しい憎悪。きっとそういった、様々な感情を含んでいる。絵の具を混ぜたように幾重にも溶け合い、見るもの全てを魅了する感情を、描いている。

 彼女は艶やかに微笑み、最後に呟いた。

「大好きよ――」

 そこには、愛という感情も、含まれているのだろうか。仄かに囁かれたのは、それを是とも否とも断言できない複雑な声色で、思考の止まった僕の頭の中を、何度も何度も反響した。

 それっきり、悠那ちゃんは動かなかった。魂が抜け落ちたかのように力なく、脚からも、腰からも首からも、悠斗くんを抱く腕からさえも、何も感じない。

 おそらく一番近くにいた悠斗くんが、誰よりも早く察知したことだろう。ゆっくりと、けれども一度始まってしまったら収まらず、小刻みに彼は震え出す。怯えるようにカタカタと揺れ、油の切れたロボットのようにぎこちなく動いて。彼が悠那ちゃんを起こそうとして、肩を揺すっても、背を叩いても、しかし反応は一切なかった。

「悠那……。悠那っ! 起きてよ悠那!」

 僕らは悟る。彼女にはもう、何も届いていないのだと。

 悠斗くんは、忘れていた呼吸を取り戻すかのようにハァハァと肺を働かせ、突然に動揺を表しながら、悠那ちゃんへの呼びかけを繰り返した。そしてなおも返答がないとわかると、彼女をベッドに再び寝かせて、縋りながら名前を叫んだ。

「悠那っ! 起きて悠那! 目を覚ましてっ!!」

 悠那ちゃんはもう此処にはいない。此処には、つまりこの世界には、もういない。だから何度呼びかけても、返事は、あるはずがなかった。

「どうして……どうして俺を置いていくの、悠那。お願いだから、答えて……答えてよ!」

 語調は次第に激しくなるも、それはひたすらに虚しく響くばかりだった。

「悠那、待って! 俺も、一緒に……。ぁあ……あぁあああぁぁあああぁ――――!」

 今この場所で、僕らが彼にかけられる言葉なんて、いったい何があるだろう。慰めも同情も、彼の悲哀と慟哭を誘うだけだろう。

 僕らにできることは、千切れるような声を出して叫ぶ彼を、黙って見ていることだけだった。

 彼は、自身と悠那ちゃんを照らす薄青い月の光が、明るく白んだ陽の光に変わろうかというまで、ただただずっと泣き続けていた。そうやって泣きじゃくり、ベッドシーツに顔を擦り付け、悠那ちゃんの綺麗な寝顔を抱き寄せながら、声を詰まらせて涙を零した。

 耐え難い現実に直面し、最愛の人を失った彼は、いったい何を思うのだろう。そしてその最愛の人から、地獄のような現実での生を強いられた彼は、いったい何を感じるのだろう。きっと胸を貫かれるように、抉られるように辛いことだと、僕にはそれだけがわかった。

 悠那ちゃんは、悠斗くんに生きろと告げた。ともに死のうと誓った相手に、最後の最後で生きろと言い残し、一人で逝った。悠斗くんを自分のものだと言い、彼の唯一の存在になり、魂の片割れとも思わせるほどに愛させて、たった一人で逝ったのだ。

 彼女は、悠斗くんの全てだった。失うには、あまりに大切すぎる人だった。

 もうこの世界で、この時より先に、彼女の声を聞くことは出来ない。彼女の笑う顔も、見られない。

 そしてそれは、僕らにとっても同じことだ。

 悠斗くんの抱く深い絶望が、僕の心にも余波となって深く届く。不安が、恐怖が、胸をよぎる。

 以後悠斗くんは、そして僕らは、これから先悠那ちゃんのことを考える度に、彼女がもう自分と同じ世界にはいないことを実感し、思い知らされるのだろう。日々の中でそんな思いを抱いていくことだろう。

 わずかに明るくなりかけてきた部屋で、冷えた空気は次第に夏らしい本来の熱を取り戻していく。まるでさきほどまで、この場所が外界から切り離されていて、立った今、元の病室に戻ったみたいに。

 こうして僕らは、耽美で残酷な夜を終えて、光り輝く凄惨な暁を迎えた。ここにいる皆、悠那ちゃんの死から一時も目を離すことができず、ただ彼女を見つめたまま、それぞれ複雑に胸を痛めて、悲哀を照らす太陽の光を浴びていた。

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