3 二〇二四 文月―末
「ありがとうございます。失礼しましたー」
僕は職員室内に声を放ると、廊下に踏み出して扉を閉めた。
進路希望調査用紙の提出は、一日遅れた件について担任から少し小言が飛んだが、概ね事もなく完了した。まあ所詮は紙ぺら一枚だ。
内容についても、無難な進学先である地元の大学を書いておいた。別に僕は、特別そこへ行きたいというわけではなかったが、そうやって書いておけば再提出になることはないと思った。
実際のところ僕の頭の中にだって、自分の将来の展望などほぼ皆無だ。
もちろん、それがよないことだというのは分かっている。一年以上先のこととはいえ自分自身のことなのだから、しっかりゆっくり考えていかなくてはならない。実感はなくてもせめて今から想定はしておくべきというのが正論だ。
でも正直なところ、それよりもまず僕は現状のことについて考えなければならないだろう。失くしてしまった寿命について、唯花の目測では二年ほどで期限が訪れる。このことだって同様に実感はないが、せっかく受験を超えて花の大学生になったとしても、半年で死んでは元も子もないのだ。
僕は渡り廊下を歩いて昇降口まで向かった。
ふと、校内にチャイムが響いていることに気付いたのはそんなときだった。当たり前過ぎて聞き流してしまいそうだったが、今は夏休みだ。だというのに、いつも通りの鐘の音が聞こえるのは、いったいどういうことだろう。ただ、このチャイムが定刻通り作動しているのだとしたら、今現在をもって時刻は正午ということになる。これなら唯花との約束には間に合いそうだな、なんて心の中でぼんやり考える。
けれどもそこで、僕は意外な人に出くわした。その人物は、僕と同じ渡り廊下を反対側から歩いてきていた。
そして向こうも、相対する人物が僕だとわかったとき、軽く口元をほころばせながら声をかけてくる。親しみやすく落ち着いた、好感の持てる声音であった。
「やあ、川澄くん。君も学校に用事かな?」
声の主は、織戸という僕のクラスの委員長だ。整った髪型をして、センスの良い眼鏡をかけた好青年。
「うんまあ、そんなところだよ。織戸くんは……委員長の仕事でもあったの? 向こうの校舎からきたようだけど」
彼が今までいたらしき向かいの校舎には、三年生の教室と委員会用の教室がある。彼はいくつか委員会に所属しているし、だいたいの用件は予想がついた。
「俺も、そんなところだ」
夏季休業第一日目にして、なんと殊勝なことであろうか。
「ふぅん。大変そうだね。ところで、ちょっと気になったから聞いてみるんだけど、学校って休みの間もチャイムのスイッチを切ったりしないものなの?」
「ああ、さっき鳴っていたやつか? 違うよ。学校が生徒に使われないときには、もちろん電源は落ちている。でも今は、三年生が夏期講習をやっているから、それで必要なんだ」
「夏期講習? そんなものをやっているの?」
「受験生だからな。夏休みも勉強さ」
織戸くんは、ははっと笑ってそう説明した。三年生の教室がある棟にいた彼は、きっと今まさにその様子を見てきたのだろう。
「うわー……。それは何でいうか、気の毒だね。僕ならちょっと耐えられそうにないよ」
「とは言っても、俺たちも一年後にはそうなるわけだ。もちろん、進学を希望すればの話だが」
うっ……これは嫌な話を聞いたぞ……。今しがた提出してきた意思表明の書類によって、まだ体裁的ではあるにしろ僕も進学希望組となったわけだ。一年先のことだとはいえ、それを考えると正直揺れる。
「その顔を見たところ、川澄くんも進学を希望するようだな」
「えと……まあ、一応ね。でも今の話を聞いて、何だか思い直しちゃったよ」
「ははは。うん、大事なことだからな。気の済むまで悩むといい。三年になるまでに決めるとしても、それでもまだ半年ある」
「そう、だね」
そう。今はまだ、夏休みも始まったばかりだ。今より約一ヶ月の間、くだらない授業から解放され、それが終わって秋がきて、冬がきて進級する。さらにそれから一年後、僕は人生の小さな岐路に立つのだろう。進学、就職、あるいははたまた、別の道。小さいとは言いつつも、重要であることには変わりない分岐点。きっと、覚悟が要求される。さきほど現状と比べて後回しにしてしまった思考が、また浮かび上がる。
まだ半年? いや、たった半年、あるいはたった一年半だ。このままでは、未だに何一つ確かなものを手に入れていない僕が、自分の行く末を切り開く力もなく、ただただ成り行きで大人になってしまう。将来を決める術も勇気もなく、実りのない焦燥感だけを抱えて、空っぽの成人になってしまう。現状では自分の寿命さえ失った有様なのに自覚も薄く……ああもう、またこのもやもやの繰り返しだ。
そう思うと、僕は無性に憂鬱だった。
織戸くんの言葉に対してそんな陰気な思考を巡らせてしまった僕は、表情が曇ることをふと心配した。しかし幸い彼に気取られた様子はなく、彼は僕を見て少し不思議な顔を見せはしたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。
「おっと、引き止めてしまって申し訳ない。もう帰るところだったみたいだな」
「いや、構わないよ。織戸くんは、今から職員室?」
「その通りだ。ちょっとした野暮用だよ」
はて、野暮用か。まあ、委員会以外にも彼は色々なことに関わっている。校内の重要人物だ。
「すごいね、立派だ。頭が下がるよ」
「いいや。君が思っているほどではないさ。きっとな」
答えると彼は僕の横を通り抜け「じゃあ」と告げて去っていった。
彼は、やはり優秀だ。その上、真面目で人当たりも良く、適度に謙虚でさえある。先ほどの件、当然のことだからいちいち話題になんてならなかったが、彼の方こそ進学希望者なのだろう。噂で耳にしたことがあるが、彼の父親は街の病院の院長だそうだ。僕が前に訪ねた病院が、その病院だったと思う。だからきっと彼は、それを継ぐためにどこかしらの国立大学の医学部にでも行くのだろう。僕に限らず他の皆も、彼に対してはそういった印象を抱いているはずだった。
まあしかし、それはそれ、彼は彼だ。そんな彼の人生にとって、僕はせいぜいクラスメイト程度であって、そして、それで十分だ。
織戸くんと別れて再び一人になった僕は、携帯で時間を確認しつつ靴を履いて学校を出た。もちろん唯花のところへ向かうためだ。一時ぴったりに彼女が待っている保証はないが、だとしても僕が遅れて良いわけではない。デートのセオリーとして、男性は五分前には着きたいところだ。
「ごめんね、詞。待ったかしら?」
「いいや。僕も今きたところだよ」
なんて会話を皮切りに、記念すべき初デートを最良の日に……いや、唯花相手にこれは無謀か。
けれども何よりその前に、さきほどの会話を引きずって意味もなく暗くなっている僕の気分を、早めに何とかしなければ。このまま彼女に会ったら、それこそ何を言われるかわからない。
怒られるだろうか、せっかくのデートなのにと。それとも心配されるだろうか、どうしたのかと。どちらにしても、僕としては歓迎できる展開ではなかった。
彼女には、あまりこういうことを話したくないと、僕は思うのだ。
自分一人で考えたいから? 彼女に話すのは恥ずかしいから? いいや……どうだろう。自分の中でもはっきりとした確証はない。
普段の僕は、見栄とか虚勢とか、あるいは意地とか、そういったものとは遠い場所にいる。自分が周りからどう見られているかという点について、あまり執着がないということだ。
でもなぜだろう。僕は唯花に対してだけは、その限りではない気がするのだ。彼女に向かっているときだけは、僕は“僕”として存在していたい。確かな自分を、彼女の瞳に映していたい。そう思う。確かな自覚が胸にはあった。
彼女の前では、自分の存在の意味なんてものを、問いたくなる。その答えまで、わかってしまう気がしてくるのだ。
では、反対に考えたらどうだろう。
僕の目に、彼女という存在は、確かに映っているのだろうか。彼女という存在を、明確にその他の存在と区別して、認識できているのだろうか。
彼女の存在は強い。僕の中では、それを無視することなど不可能なくらい、極めて大きい。彼女は僕の意識の大部分を、堂々と乱暴に占領している。
でも僕は彼女のことを、実はよく知らないのだ。ここしばらく一緒にいて、実に美しい容姿を持つことや、それに反して片付けが苦手でサバサバした陽気な性格をしていること、やたらと新しい電子機器を買い漁ることは分かってきた。しかし、こと彼女の事情に関しては何も知らない。あの年で灯華さんのような人と繋がっていて、ちょっとヤバそうな仕事をしている事情については、何一つ存じ上げないのだ。
もちろん僕にとって、彼女の境遇が気にならないものかどうかと問われれば、そんなはずはない。聞いたって教えてくれるとは思っていなかったし、興味本位で聞き出すのも良くないとも感じていた。
しかし幸いにも、唯花はそれを今日、僕に語ってくれると言った。僕に、知っておいてほしいと言った。ならば僕は、それを知らなければいけないだろう。しっかりと彼女の話に、耳を傾けなければならないだろう。
そうなのだ。考えてみれば、今日という貴重なこの日の時間を、僕の矮小な不安話で潰して良いはずがない。だいいち彼女は気紛れだし、もしも今日聞き逃したとして、明日以降に改めて聞いても答えてくれないという可能性は十分にある。聞き手の姿勢は非常に大切だ。心の準備は、万全の状態で行かねばなるまい。
ほどなくして僕は、待ち合わせ場所になっている街の公園に到着した。思っていた通り人は多い。僕と同じような境遇にある人も多々いそうだ。
とりあえず確認すべきは日時計の前。手頃なベンチが数か所に設けられている。そしてその全てが道行く人の休憩に使われていたが、しかし唯花の姿は見つけられなかった。
まあ、これくらいは予想の範疇だ。先に述べた通りセオリーなんて通じるはずもなく彼女の遅刻という可能性もあるが、周辺には彼女の好奇心を刺激しそうな店が多い。いずれかに引き寄せられている可能性も十分あった。
それに僕は、暑いだろうから店にでも入っていれば良いと、自分で告げていたではないか。実際にここまで歩いてきて痛感するが、炎天下はやはり暑いものだ。
待ち合わせ特有の情緒には欠けるが、ここは電話をしてみることにしよう。僕はポケットから取り出した携帯でコールする。唯花は多趣味過ぎて、どの店にいそうだとか、そういう当たりを付けるのが難しいのだ。少なくともそれは、僕にはまだ到底無理な芸当である。
「あ、唯花? 公園まできたんだけど、今どこかな?」
コールのあと、僕は当然、第一に唯花の声が聞こえるものと思っていた。しかし、実際に僕の鼓膜を刺激したのは違う音だ。それは人の声ですらなかった。
『ケーオーー! ユーアーグレイトー!』
……………………。
『あ、もしもし詞!? ごめんごめん、今ちょっと手が離せないんだけど、もう着いたの?』
けたたましい効果音の濁流の中で、唯花の声はようやく聞こえた。最初は驚いてフリーズしてしまったが、冷静に思考が回ればすぐにわかる。電話のBGMは、これ以上にはない彼女の所在を知らせるヒントだった。
「うん、着いたよ」
『あら、早いじゃない。遅れるかもって言ってたくらいなのに』
「そうだったね。早過ぎたかな」
『ううん。早くきてくれて嬉しいわ。でも、もう少しだけ待って。あとちょっとで行けるから』
電話越しでも、唯花の笑顔はよくわかった。声の弾み方が僕の耳には心地良い。まあ背景の音がうるさいけれど、この際それは無視しよう。
「いいよ。僕がそっちまで行くよ。そこで待ってて」
『え? こっちくるの? 場所わかる?』
「わかるさ。もう着くんだ。じゃあ切るね」
実はもう、僕は話しながら移動をしていた。通話の繋がった瞬間に居場所が特定できたため、こちらから出向いた方が手っ取り早いと思ったのだ。唯花はまだ何かを言おうとしていたが、続きは直接聞こうと思って携帯をしまった。
だって、そう。この自動扉を抜けた先、騒がしさで右に出るものはないゲームセンターという空間に、間違いなく彼女は居るのだから。
「やあ、唯花。調子はどう?」
「すごい、よくわかったわね。テレパシー?」
「あはは。だったらいいよね」
もし僕がテレパシストなら、普段の唯花とのやりとりも、もう少し上手くいくことだろう。
ここは、街で一番大きなゲームセンター。少し煙草臭い店舗の中に、所狭しとゲーム用筐体が設置されている。その中の一角、奥の方のゲーム台に、彼女は一人で座っていた。
水色のカジュアルなキャミソールに青のホットパンツという、これでもかというほど夏らしいスタイルだ。加えてつばの広めな白い麦わら帽子をかぶっている。ちなみに、いつも必ず付けているピンクの花のかんざしは、今日は帽子にその身を預けていた。
「ねぇねぇ、この帽子どう? 可愛くない? シンプルでかっこいいでしょう?」
「キュートとクールを両方狙っているの? 随分と高難度だね。まあ、似合ってるけど」
可愛くて格好いい。それはかなりのおしゃれアイテムだが、唯花の中ではこの大きな白帽子がそうらしかった。真っ先に同意を求めてくるところを見ると、なかなかにお気に入りのご様子だ。
「今日は随分と涼しそうな格好だね。腕とか足とか焼けちゃうんじゃない?」
「だってあっついじゃない。詞は色白好みなの? 私、それはちょっと、自信ないなー」
「いや、別にそんなことは……それに、唯花は十分白い方だと思うよ。だからこそ心配したんだけど」
「そう? じゃあ、次からは気を付けよっかな」
唯花は「お世辞が上手ね」なんて言って笑う。でも世辞ではなく本当に、彼女の肌は白くて綺麗だ。
そしてそれ以前に今日の彼女の服装は、男の僕としては若干目のやり場に困る節がある。二の腕とか太ももとか、そうした部位を惜しげもなく露出されては、露骨に視線も散るというものだ。
「ふふっ。別に見てもいいのよー? 私が自分で、この服を選んだんだから」
唯花はちらちらと、ゲーム画面を見ながら話す。そんな注意の分け方をしていても、僕の胸中は筒抜けのようだった。まあ、これだけ不自然に目を逸らせばばれもするだろうが……いや、でもたったそれだけのことで、彼女にしてやられた感じがするのは複雑だ。
僕の感想を知ってか知らずか、彼女はさらに続けて話す。
「それとも詞って、布の多い服の方が好きなのかしら? そういえば、部屋でもすぐ服着ろって言うわよね」
「それは……多分誰でも言うよ。唯花の部屋での格好を見たらね。別に、僕の好みはどうでもいいじゃないか。僕は、それぞれの人に似合う服装が一番好きだよ」
「なーにそれ、無難な回答ねー。でもデートなんだから、相手の好みの格好でいたいと思うのは自然じゃない? だから私としては、詞の傾向もできれば知っておきたいかな、と」
「傾向って……言ってることは正しいけど……でもそういうのはまあ、後々で。ほら、僕なんか今日、制服だしさ」
図らずもこんな話になってしまうと、僕が今日ここに学校の夏服できたのは、もしかして失礼だったかな、なんて思ってしまう。いや、実際のところ、おめかししてきた相手に対して制服でデートに来るのは、確かに微妙だとは思うけれど……。そうか。言われてみれば当たり前か。何だか唯花に申し訳ない。
「ま、それは仕方ないわよ。用事のついでなんでしょう? 家帰って着替えてたら、遅くなっちゃうしね」
しかし唯花は特に気にしていないようで、さも当然のように軽々と続けた。
「いいのよ。私は今日という日を、詞のための日にしたの! だから大目に見てあげるわ」
恥ずかしい。すごく恥ずかしい。あまりそういうことを大きな声で言わないでほしいものだ。バカップルだと思われちゃうでしょう?
僕のための日だなんて……そう思ってくれるのは嬉しいが、唯花はそれを思うだけでなく、面と向かって口に出せてしまう人だから、また僕の手に負えない。僕の器量は、彼女を相手にするには少々窮屈だったりする。
結局僕は、軽い礼を述べておいて、話を逸らしていくしかない。
「あ、ありがとう……。ところで、唯花のやっているそれは……格ゲーかな?」
「ええ、そうよ。やったことない? ロードオブアーツっていうの」
「知ってる。結構前から流行ってるやつだね。僕にはちょっと、難しかったけど」
唯花が現在進行形で熱中している目の前のゲームは、名前を聞けばすぐにわかった。僕は通うというほどゲームセンターにはこないけれども、そんな僕でも数回はやったことがあるくらい有名なゲームだ。以前に、その手のものに詳しそうなクラスメイトが教室で言っていたが、キャラクターデザインとゲームバランスが特に絶妙だとか何とか。
「やっぱりこのキャラデザがいいわよね~。センスを感じるわ。あとはそう、どのキャラクターでも、やり様によっていくらでも戦えるから面白いのよ!」
うん、だいたい同じような感想だ。ある程度やるとその良さがわかるらしい。どうやら僕は、良さに気が付く前にやめてしまったみたいだが。
「全国オンライン対戦っていうのもいいと思うの。やっぱりコンピューターばっかりが相手っていうのは、つまらないものね」
「ああそっか。全国でこのゲームをやっている人と、リアルタイムで戦えるってやつだっけ? でもそれじゃあ強い人いっぱいいて、逆に面白くないんじゃない?」
「そうなの? 私は結構楽しいわよ。勝てるし。あ、ほら、また勝ったわ」
言われてみれば、僕と話しながらもガチャガチャやっていた唯花は、さきほどからたびたび操作キャラクターに勝鬨を言わせていた。それを思うと、少しばかりゲーム画面が気になるところではある。
「唯花、もしかして上手いの? ちょっと見せてよ……って、げ!」
そうして今になって、初めて唯花のアカウント情報を目にすると、そこに表れている数値が軒並みおかしいことに僕は気付いた。思わず変な声が出てしまったくらいだ。
「何これ。連勝105!? 所持ポイント23万って……気持ちわるっ!」
「き、気持ち悪いですって!? 失礼ね詞!」
「いや、だってこれは……。唯花どんだけこのゲームやってるのさ。っていうかやりこんでるのさ。このプレイデータはかなり……ものすごくイカれてるよね」
「イカれてるとはご挨拶だわ! あなたねぇ、もう少し私に対して言葉を選びなさいよ」
僕は、素直な感想を言ったつもりだった。かじっただけの僕でもわかる。もう言葉を選べるレベルではない。ハッキングでもしたのではないかというくらいの戦歴だった。きっとこのアカウントデータをかざすだけで、ヘビーゲーマーの八割くらいは頭を垂れることだろう。
「だってこれランク別になってて、勝ったら加点、負けたら減点でしょ? 一日張り付いてゲームして、全部勝ったとしても200ポイントくらいしか稼げないはずなのに……。信じられないよ。僕は確か140ポイントくらいだったかな」
「うるさいわねっ! いいじゃない面白いんだもん! 一時期はまってただけだもん! もう今は、暇つぶし程度でしかやってないわ!」
唯花は両手を拳にして振りながら、珍しく駄々をこねるようにして僕に訴えた。椅子を捻って僕の方を向き、ゲーム画面は丸っきり放置でムキになっていた。
しかしあれだ。彼女にこんな特技があったなんて意外や意外。いや、これが特技と言えるかは別として、とてもすごいことだとは思う。記憶に残すべき教訓になるだろう。多趣味を舐めてはいけないのだと。
僕が感慨にふけっているうちも、彼女は涙目で抗議を繰り返す。こんな可愛らしい唯花の姿は、彼女の悩殺デートスタイルと比べても引けをとらない一見の価値ある光景だ。
しばらく一通りぽかぽかと殴られてから、僕は彼女を何とかをなだめ、改めて場所を移す提案をした。こうやってここで遊んでいるのも悪くはないが、しかし時間は有限だ。気になる本題もあることだし、これがデートならばなおのこと、色々見て回る方が良いだろうと僕は思った。
ちなみに、僕への抗議のために画面を放り出した彼女は、そこでゲームに負けてしまった。あの凄まじい連勝記録を止めてしまったことについては、少々罪悪感を抱かざるを得ない。
こうして僕らはデートを始める。
さしあたって唯花の機嫌をとるために、彼女の行きたい場所を目的地とし、僕はそれに全力でお供することにした。美術館でも水族館でも、買い物の荷物持ちでも大歓迎だ。僕は彼女と一緒なら、どこでも楽しめる自信があった。
「詞なんて嫌い」
しかしなだめたとはいっても、まだちょっとご機嫌斜めだ。
「あはは。まあ、そう言わないで。街に誘ったってことは、どこか行きたいところがあるんじゃないの?」
「……化粧品店。ランジェリーショップ」
「い、意地悪だね……」
本当に行くと言われれば、まあ行くけど……。でも僕は男性だし、ずっと床だけを見ていることになりそうだな。
「冗談よ。そうね、夕方までの時間を過ごせればいいから、服でも見に行きましょうか。私の服、詞に選んでもらおうかな」
よかった、冗談か。てっきり唯花のことだから本気かと思った。下着はともかく、服ならどうにかなりそうである。
「わかった、服だね。頑張って選ぶよ。それはそうと、夕方までってどういうこと? 今日は夕方で解散なのかな?」
「そうじゃなくて、夕方に行く場所は、もう決まっているの」
「へぇ、用意がいいね。それはどこ?」
「秘密よ。ひ・み・つ! 日の入りが近くなったら、連れて行ってあげるから」
人差し指を唇に当てて見せながら、唯花は駆け出す。同時に当り前のように僕の手を取ったのは、人混みの中ではぐれないようにするためだろうか。その行動に、僕の胸は少しだけ高鳴った。
どうやら彼女の機嫌は、徐々に回復していきそうだ。
ただ、夕方までの時間はそう多くない。ゲームセンターで話し込んだこともあってか、何軒も店を行き来して服を選ぶというのは無理そうだ。そのため僕らは、向かう先を街の大きなデパートに定めた。
唯花に連れられて入ったデパートは、風彩の街では一二を争う敷地面積を誇る。この街に住む人ならば、当然一度は訪れたことがあるだろう名所というわけだ。きっと全部は見て回れないので、時間内に出会った品々で、彼女の満足いくコーディネートができるように祈ろう。
「はい、とーちゃーく! このフロアはぜーんぶ、婦人服の売り場になっているわ! というわけで詞、期待してるからね!」
目的地に着く頃には、この通り唯花のテンションはてっぺんまで上っていた。もちろんそれはそれで喜ばしいことだが、僕としてはそんな彼女を、ここでがっかりさせたくはないものだ。
「かなり広いね。もう一度確認するけど、本当に僕が選ぶんだね?」
「そうよー。今日は詞のための日だから、私があなたの着せ替え人形になってあげるわ!」
何という発想。加えてその言い方。誤解を招くなぁ……。まるで僕に、女の子を着せ替えて楽しむ趣味があるみたいじゃないか。
「そうだなー……じゃあまずはあの店で」
だがそれでも、結局やることは一緒だった。
僕はまず、良さそうな店舗をいくつか決めて回ることにした。繰り返すけれども全て見る時間はないと思うので、外観からどんな服が売っているのかを予想しながらの買い物だ。
今回どうやら唯花は、上から下まで全部を僕に選ばせるつもりらしく、それを知ってからはさらに気を遣う買い物となった。
それでも僕は、てっきり彼女の注文がうるさいと思っていたのだが、意外にもまったくそんなことはなく……気味が悪いくらい素直に、こちらの言った通りのものを試着してくれた。人形と言いつつ、あれこれ文句を飛ばされる想像をしていたのだが、その辺りは彼女の配慮なのだろうか。
「これなんかどう? 似合うはずだよ」
「わかったわ。じゃあ、それ着てみる」
「スカートはこれかな。真っ白で、可愛いと思う」
「うん。待ってて」
そう。こんな様子で、一言も文句を言わないのだ。僕が真剣に選んでいることを理解したのか、はたまた別の理由からか。とにかく、その従順さはちょっと怖いくらいだった。
試着室で着替える唯花を待つ間も、僕は一人で店内を回った。今回に限っては効率重視だ。一緒に見て回るのも楽しいだろうが、そんなことも言っていられない。
上下の服装が決まったら、靴と、それから帽子。似合えばそこに、アクセサリーなんかも加えてあげたい。考えれば考えるほど、買いたいものはどんどん増えた。
僕に着せ替えの趣味はないと言ったが、何だろう……唯花がモデルなら、正直全然、悪くはなかった。女の子にしては背が高めで、何でも着こなす外見は異性から見ても羨望に値する。そのためどれを手にとっても捨てがたいのだけれど、彼女の手間も考えて、着用を試みるのは厳選後のものだけだ。
そうして次第に彼女のコーディネートは完成していき、時間もそれ相応の経過を示していた。厳選したといっても、それなりに提案した着数は多い。今日一日だけで、彼女は何度衣類の着脱をしたのかわからないほどだ。紆余曲折とまではいかないものの、全ての購入物が決定するまでは、決して一本道ではなかった。いくら発案者本人とはいえ、よく最後まで音を上げないでいてくれたと思う。
最終的に購入を決めたあと、確認のためにもう一度全てを試着した唯花の姿は、やはり期待通りだった。
「詞、着たわよ」
「うん」
改めて全身を見て、僕は思う。コーディネーターを務めた僕自身が言っては自画自賛だが、それでも確かに、文句のない出来だった。達成感をしみじみと感じる。
「……何か、言ってよ」
「ああ、ごめん。すごく似合うね、悪くないよ」
「違うわ。……可愛い、でしょ?」
「うーん……どちらかというと、綺麗と言った方が相応しいと思うけど」
選んだ服は、白を基調とした清楚な印象の服だった。長袖だが薄い生地で、夏にも着られるし秋物にもなる。ひらひらした装飾と、歩いて膝が見え隠れするくらいのスカートが一押し。靴はわずかにヒールの上がる白い靴。機敏な彼女が転ぶことはまずないだろう。帽子については、今日彼女が被っていたものがそのまま合ってしまったので、申し訳ないけれどそのまま使い回させてもらった。代わりといっては何だが、ワンポイントに誂えたアクセサリーには時間を割いたつもりだった。おかげで本人には不足がちな気品というステータスが二割増し。非常に結果オーライと言えよう。
「どっかのお嬢様みたい。それに、やっぱり肌は出さないのね。詞のタイプってわかりやすいわ」
「え、あれ? そういう話だったっけ?」
「本筋は違うけど、でもやっぱりそうなんだなぁって。自覚ないのかしら?」
「僕のタイプを探るのはやめてってば。唯花が今日着ていた活発な服も、僕は十分良いと思うよ」
ともすれば、元々唯花が着ていたものと似ていない方が良いと、僕は思っていたのかもしれない。それは、元の唯花の服装が好みでないという意味ではない。それどころか僕の中の唯花の印象では、活発な服装の方が相応しいとすら思うくらいだ。
しかしだからこそ、意外性という面も含めて、奇を衒ってみても良いのではないかと考えた。結果としてそれも似合ったのだから、試みとしては成功だろう。
「まあ、いいわ。私も気に入ったし、次のデートではこれを着てあげるね」
「そうだね、ありがとう。せっかくだからそれ、僕が買ってあげるよ。これから聞く話の、前払いにでもなればいいしね」
告げながら僕は、店員のいるレジに足を運ぶ。購入の意思はあらかじめ伝えてあるし、唯花は服を着替える時間があるから丁度良い。
着替えたら少し待ってて、とそう伝えて僕は彼女の前から一度立ち去ろうとした。
「あの、詞……私、そんなつもりで服……選んでもらったわけじゃないんだけどな」
「いいよ。気の利いたバイト代の使い道に困っていたんだ。大丈夫さ、僕にだって買える品だったよ」
唯花は僕に渡されたものを試着していただけだ。きっと値札は見ていない。別に飛び上がる値段が弾き出されるわけでもないのだし、選んだ僕が買ってあげたかった。
あるいはまあ、デート気分に当てられた気の迷い。そう解釈しても良い程度の気紛れだろう。
「あ……ありが、とう。感謝するわ」
「うん。どういたしまして」
少し恥ずかしげな唯花も、光景としてはレアな方だ。僕の方も、それが見られて気分が良かった。
それから再びエレベーターに向かい、着いたのところで僕は一息つく。
「ふう。いいね。溢れる達成感」
「私は幸福感。本当にありがとう。大事に着るからね!」
「頼むよ。床の上にほったらかしとか、僕怒るからね」
「そうね。間違ってもこの服たちだけはちゃんと扱うから」
できれば全部の服をちゃんと扱ってほしいところだが、その言葉に悪い気はしない。今は散らかし癖のことは言わないでおこう。僕もそこまで無粋ではないつもりだ。
「じゃあ、そろそろ時間もいい頃だし、次の目的地に向かいましょうか」
「そうだね。やっと行き先がわかるのか。期待しているよ」
僕は答えて、エレベーターの下行きのボタンを押そうとする。
次の行き先について、それが気になっていたのは本当だった。唯花が勿体つけるときの言動は、異常にこちらの興味を刺激する。彼女の持つそういうスキルは、無駄に熟練度が高いのだった。
「あー! ちょっと! そっちじゃないわよ」
しかし、咄嗟に彼女は声を張る。僕の指へ向かって手を伸ばし、ボタンを押すのを制止するのだ。
「な、何するの唯花。早く押さないと、エレベーター行っちゃうよ」
「そっちはいいの。私たちが乗るのは、上へ行く方だから。ほら、押すならこっち!」
……上? どういうことだろう?
場所を移すなら、まずはこの建物から出ないことには始まらない。だから僕らには、一階に下りるエレベーターが必要のはずだ。なのに唯花は、そのエレベーターはいらないと言う。
混乱する僕は掴まれた指を彼女の意思に預け、力を抜いてしまっていた。そうして彼女が僕の指に改めて押させたのは、上向き矢印のボタンだった。
ほどなくしてやってきたエレベーターに彼女はためらわず乗り込み、慣れた手つきで操作をする。僕も続いて乗り込むが、行き先ボタンは彼女の影になって見えなかった。いったい、どこへ行くのだろう。
僕は少しの過重力空間において答えの模索に励んだが、しかし結局のところ、その思考回路の完結よりも早く、目の前には解答が示されてしまう。
エレベーターの扉が開いたときには、もう既に目的地だったのだ。
「着いたわよ。さ、出て」
移動は、実に短時間で済んでしまった。
僕は、唯花に促されて境界を跨ぐ。そこで僕が最初に抱いた印象は、婦人服のフロアよりもいっそう際立つ、広さだった。
もちろん、敷地面積は同じはずである。上層なのだから、むしろ狭くなっていてもおかしくはないくらいだ。しかし、それでも広い。きっとそれは、このフロアの構造上の問題だろう。
柱らしき空間占有物は限りなく少数に抑えられ、壁面のほとんどは透明のガラス張り。さらに敷地の七割以上がテーブルと椅子のために割かれており、一角にカウンターが設けられているのみであった。
つまるところここはデパートの解放空間、休憩所といったところだ。そのためだけにワンフロア全てを用いる設計は、実に豪気だと認めざるを得ない。最上級の客への配慮だ。
そしてさらに驚くのは、この目に飛び込む色彩だ。赤く赤く、世界は燃えるように輝いていた。
浮かんでいるのは大きな夕陽。ガラス張りの周囲から、外界の光が強く差し込む。低くなった黄昏の光は、地平線と平行になって僕らに届く。
「……すごいね」
言葉がないとは、まさにこのことだ。僕の少ないボキャブラリーでも、せめて唯花にだけはこの感動が伝わることを祈りたい。それくらい、感無量だった。
「でしょ。前にふらふら歩いていたら、たまたま今くらいの時間に、ここに行きついたのよ。この建物、憎いわよ。立地から階数まで、最上階のここが、この時間にぴったりこうなるように作ってあるんだって」
「このエスコートは、ちょっと妬けるな。何だか立場が反対だね」
「いいじゃない。さっきの詞も、とてもかっこよかったんだから」
たかが地元のデパートでも、これは少々侮れない。そう思うくらいに圧巻だ。その上これを見るだけではなく、座ってお茶や食事ができるというのだから参ったもの。日の出の時間に店は開いていないはずだから、こんな風に太陽が見えるのは、一日の間でこの時刻だけだろう。
唯花は僕の手を引いて、二人用の席へ腰掛ける。場所はもちろん窓際だ。同時に小さく息をつくと「ふぅ」という声が重なった。
「何か飲む? ここはコールをしないと店員がこないわ。頼むのなら今だけよ」
「なるほど。休憩だけの人もいるだろうからね。注文が今だけなのは、どうして?」
問いかけながら唯花を見ると、彼女の手元には既にコールベルがあった。一度きたことがあると言ってはいたが、どうやらここでの主導権は彼女のようだ。
「だって、今から長ーいお話しをするのよ? 大事な話よ? その途中にオーダーがきて中断されたら、嫌じゃないの」
あ、なるほど。確かにそうだ。わからなくはない。
「それに……知らない人には、小耳にでも挟まれると面倒だしね」
「あ、唯花もやっぱり、気にするんだね」
「さすがにね。内容が内容だし」
それはそうだ。誰も盗み聞きなんてしないだろうが、だとしてもやはり気にはなる。これからするのは、そういう、話だ。
僕と唯花は、二人で同じものを注文した。数分ののち、店員が紅茶を持ってきて去ってから、再び僕らは互いを見る。
唯花は目を瞑って、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「ごめんね。デートの最後にはあまり相応しくない話だけど、せめて雰囲気だけは繕ったつもりだから……許してね」
「大丈夫だよ。それに、僕としては唯花に事情を話してもらえるだけで、プラスの方面の出来事だから」
「……そっか、よかった。今日は、詞のためのお話の日、だっけね」
唯花は言っていた、今日は僕のための日だと。きっと間違いなく、僕もそう思う。
そして唯花は、単刀直入に話すと言って、正面で静かに口を開いた。前置きも枕詞も何もなく、ついに今日の本題が始まるのだ。
「詞。私…………何歳だと思う?」
……………………。
いや、訂正。前置きも枕詞もなかったが、単刀直入というわけでもないようだ。
「唯花。えっと……帰ろうか?」
それはあまりにフランクな質問であったため、僕はいささか錯覚してしまう。知らない間に真面目な話は終わっていたのか? もう帰る時分だろうか?
「こら、真面目な話だってば。ちゃんと答える!」
「あ、これが真面目な話? 気が付かなかったよ」
違った。やはり今から始まるらしい。まだ終わってはいなかった。
少しばかり気を抜く僕に対し唯花は「怒るわよ」と言って牽制したが、それでも僕の中の出端をくじかれた感は拭えそうにない。
「えぇー……まあそりゃ詳しくは知らないけどさ。二十歳前くらいなんでしょ? 灯華さんのところで働いていなければ、大学生とかくらい?」
「それが甘いのよ。私と出会ったあの日から、あなたの日常は既に壊れてしまったでしょう?常識が常識でない世界になったでしょう? もっとそういう方面から考えてよ」
「んな……無茶な……」
手軽い解答は即刻、彼女に却下された。
その瞳を見れば、間違いなく彼女は真剣だ。身体の正面で両手を組み、僕を見つめる視線が逸らされることはない。夕陽に照らされ、いつもよりも淑やかに映える。
まあ、僕も無茶な話だということは十分に分かっていたはずだ。だから、考えろと言われて考える。
唯花の指摘は正しかった。
忘れてはいけないはずのことだ。彼女に言われたことは、紛れもなく事実なのだから。真実なのだから。変わらず流れる日常に再び巻かれても、僕は今の自分の状況を、覚えておかなければならないはずだった。
これは、そう。“遺失”の話。
「えっと、じゃあ……さっきの質問は、今日話してくれるはずの唯花の事情に関係のある質問……っていうことで、いいんだね?」
「ええ、そうよ。当たり前じゃない」
ふむ、そうか。ただ考えるとはいっても、僕がこの時点で考慮できることは、実はそんなに多くない。
僕と唯花の繋がりは、僕が失くしものをしているということだけだ。契約等の細々としたものはこの際省くとして、大まかにはこれだけになる。
今からするのは、間違いなく遺失の話。唯花の事情に関わる話。そして、彼女が僕に知っておいてほしいと言った話だ。
これらのことが導く解答、それは……。
考えていると、僕の中にふと、もっともらしい一つの見解が現れた。おそらくは唯花も、僕のような遺失者である。そういう答えが。
「一つ、ヒントがほしいな。唯花と僕は、同じなの……?」
「あら、非常に良い質問だわ。真面目に考えてくれているようで、何より何より」
すると唯花は、質問の答えを貰ったわけでもないのに、妙に嬉しそうな顔を見せた。明るく弾むような様子ではなく、口元を軽く引き上げるだけで、静かに大人しく喜んだ。
「同じよ。そして、真逆でもある」
返ってきたヒントはたったそれだけ。僕と唯花は、同じで真逆。何だかなぞなぞみたいな手がかりだ。
しかしながらその手がかりは、幸運にも僕の直観を刺激する。
僕と唯花は同じ遺失者。その仮定の元に発想を膨らませるのであれば、真逆というのは随分具体的な示唆になるだろう。
「あの、唯花さあ。そもそもこの問題の答えは、ちゃんと用意できているの? 唯花のことだから不安だよ。まず先に、それを確認させてほしいな」
「何よー。出題者を疑うなんてあんまりだわ。だいたいの答えなら、この場でちゃんと言えるのよ」
「それって僕のするべき回答も、だいたいでいいってことだよね?」
ただこのとき、僕は少しだけずるかったと思う。答えより先に質問を挟んでしまった時点で、それはもう言葉のゲームのようなものだったのだ。
唯花はきっと、僕よりもずっと頭が良いのだろうけれど、僕よりも多少純真だ。
意表をつく言葉に彼女は固まり、薄い笑顔を浮かべて呟く。
「うっ……。詞、あんたって意外と狡猾ね」
「あはは……。唯花の悪戯みたいなものさ」
しかし唯花が拗ねてしまう前に、当てずっぽうでも一度は答えておくべきだろう。ひとまず僕はそう結論した。
「そうだね、えっと……百歳くらい?」
何とまあ、お粗末な回答だろうか。でもきっと、唯花の反応は良いはずだ。
「ちぇ。察しが良くて助かるわ、ほんと。あーあ、つまんないんだからー」
「ごめんね。もう少し若かったかな?」
勿体つける楽しみがなくなってしまって、彼女は残念のようだった。
僕としては苦笑いで返す他ない。
「いいのよ、別に。桁一つ誤魔化す若作りも、大したものでしょ」
けれどもそれを聞いて、今度は僕が固まることになる。
桁一つ……若作り……? どういうことだ?
「私そろそろ、千三百歳だしね」
「げ…………」
「人生の大先輩よ!」
…………女性に年を聞くものではない。非常に良い教訓だった。
唯花は嘘などつかないだろう。そしてそれが事実ならば、彼女は平安時代から生きていることになる。大先輩どころか、先祖の中でも古い方だ。
「そんな嫌な顔しないでよ。私だって、好きでこうなったわけじゃないの。気が付いたら、死を失くしていたんだから」
「……死を……失くす?」
「ええ。正確には、死までの時間。そこに向かうまでの身体の時間。自然死を失くしたとも言える。まあ、考え方は色々あるわね。詳しいことはわからないし」
「随分と、大変なものを失くしたんだね」
「ま、あなたの方も大概だけどね」
つまりは不老不死ということだろうか。約千三百年前の遺失の瞬間から、彼女は姿形を変えることなく、今の今まで生きてきたということだろうか。何という突拍子もない話だ。
そして、寿命をなくして死が間近に迫っている僕とは、正しく真逆の存在ということになる。
話の中枢である大事な告白を終えた唯花は、もう既に軽々とした調子で話していた。表情を変え、仕草を交え、平常の雑談と同じ雰囲気で声を発する。
けれども僕は、この瞬間にこそきっと、今日一番の深い思考を試みたと思うのだ。僕にとってこれは、とても気安い話ではなかったから。
沈黙を経て、僕は呟く。
「…………大変、だったね」
「あら、どうして悲しそうな顔をするの?」
「だって僕なら、そんなに長い間……とても生きられそうにないよ」
あくまで自然死、死までの時間を失っただけなら、死ぬこと自体は可能なのだろう。願えばこの世界から消えることは、できたはずなのだろう。
だとしたら僕は、いや僕でなくとも普通の人なら、千三百年も生きられない。とても生きていられない。そう思う。
きっと嫌になってしまう。きっと終わりたくなってしまう。そういうものではないだろうか。
でも唯花は今、僕の前で笑っている。平気そうな顔をして、ここにいる。今、この時間に、生きている。
実際に平気かどうかはわからないけれど、とても心が強くないと、できるようなことではない。
「慣れれば悪くないものよ。今までにこのことを話したのは、もちろんあなただけじゃないわ。中には、便利だねって言う人もいた。肯定的に考えればそうじゃない? 枯れない花なんて、夢みたいでしょう? そう思ったら、受け入れられるわ」
「無理……してない?」
「してないしてない。好きなこと、いっぱいできるのよ。好きなとこ、どこへでも行けるのよ」
「そう、かなぁ……」
本当にそう思うのだろうか、唯花は。あるいは、そう思わないとやっていられなかったのだろうか。
どちらにせよ、彼女の身の上を想像すると、僕の気は晴れないものだった。
「唯花も望んでそうなったんじゃないってこと、今の話でわかったつもりだけど……それでもやっぱり同情するよ。死なないなんて……辛いんじゃないかな。別に終末思考とかじゃなくてさ。人生にゴールがないなんて、どこに向かって走っているのかも、わからないよ」
枯れない花は、素敵だろうか? 散らない花は、魅力だろうか?
そんなのまるで、造花かドライフラワーのようじゃないか。生気の宿らぬ作り物や抜け殻が、たとえ便利で美しくあったとしても、幸せだとは思えない。
「ふぅん。死の意味ってやつ? 前にも聞いたわね、そんな話」
「ああ、いや! ごめん唯花! 唯花が悪いわけじゃないんだよね。それに、なくしたなら見つければいいって、唯花も自分で言ったじゃないか。この先見つかる可能性は、もちろん、その……十分にあると思うし!」
唯花の意味深な返答に、僕はふと我に返った。彼女の突拍子もない話から、現実に戻ったのだ。そして、よもや彼女の機嫌を損ねてはいけないと思い、即座に否定をしたのだった。
考え方は様々ある。唯花の境遇が辛いと思うのは、あくまで僕の意見に過ぎない。主観で他人に同情するなんて、さぞや不躾なことだろう。
「あっはは! 突然どうしたの? 別に怒ってなんかいないわよ? ほら、座って座って」
「そ、そう? なら、よかったよ」
思わず僕は立ち上がっていたらしい。きっと声も大きかったろう。おずおずとまた椅子に座って縮こまる。
「でもね、詞の言っていたことには興味があるわ。今度聞かせてもらおうかしら。私のためのお話の日にでも」
「え、えぇー、嫌だよ。恥ずかしいし、別に面白くもないと思うし」
「今度よ、今度。もう今日は遅いしね」
ああ、どうやらもう、時間らしい。さきほど立ち上がったときから気付いてはいた。
もう夕暮れは終わる。もうフロアには人も少ない。太陽も、地平線の裏にお帰りだ。
暗くなりかける外界を見ながら、僕ら二人は席を立った。
「あ、そういえばもう一つ」
「え?」
しかし最後に唯花は言った。最上階を降りるエレベーターに向かうとき、何かを思い出したように手を叩いた。
「私、長いこと生きてるからさ、色々面倒なのよ」
「面倒? まあ、だろうね」
「あれよあれ。法律的な、こと?」
「何で疑問形なの?」
これも、さきほどの話の続きのようだ。そりゃあまあ確かに、一口には語れない面倒が様々ありそうではあるが。
「あはは~、難しいことは嫌いなのよね。戸籍とか?」
「ああ、うん。あるね」
どうでもいいけれど、疑問形は妙な不安が胸をよぎる。
「多分私のは、もうないと思うんだけどね。だから私って、本当はあんまり派手なことしちゃいけないのよね?」
「戸籍、ないんだ……。すごいね……」
「昔関わってた誰かにいじってもらったから、そのときからもうないはずなのよね。むしろ、戸籍っていう制度のない時代から、私は生きているんだけどね?」
ここまでくるともう、語尾を上げて話しているだけだ。疑問系にする意味もないのだろうが……何だろう、彼女なりのユーモアだろうか。
「もう、わかりにくいよ! 今度こそ単刀直入に言って」
「何よ、今回は察してくれないんだ」
「毎回は無理だよ!」
そもそも基本的に、僕に唯花の考えは読めないのだ。回りくどいのは勘弁願いたい。
「えっと……音瀬唯花って、偽名なんだけど」
……………………なるほど、そういう話か。
「あぁ……うん、ちょっとだけ驚いた。でもそっか。名前を変えれば、だいたいのことは誤魔化せるのか」
「そうそう。この名前は灯華にもらったの。なかなか気に入ってるのよ」
「へぇ、だから苗字が一緒なんだ。良い名前だよね。それで?」
「え? それだけだけど」
何だ……何もないのか。
思わずがっかりして、僕は肩を落としてしまった。オーバーなリアクションをとってやりたいくらいだ。てっきりまた、重要な話に繋がるのかと思ったのに。
「ま、まあ……でも僕はこれからも、唯花って呼べばいいんでしょう?」
「ええ、そうよ。これで何個目かしら。本名もそうだけど、もう忘れちゃったのよね~」
千三百年も生きていれば、自分の名前すら忘れてしまうものなのだろうか。どうなのだろう。果たしてそういうものなのかもしれない。どの道その心境は、僕の想像の許容範囲外過ぎて、どうにも理解はできなかった。
ただそのことは別として、僕にも理解できることがあったことを、ここで口に出して伝えておこう。彼女が僕に、自分の名前について話してくれたお礼にでもなればいい。
「一輪の花で、唯花。そのかんざしに因んでいるんだね」
「あらあら、今度は察しがいいのね。ねぇ……本当はどっちなの? わざとなの?」
僕の予想は当たったようだ。それは彼女の名前の持つ意味。
彼女はいつも、ピンクの花のかんざしを頭に差している。正しく明確に、いつも、だ。服装はころころ変わるが、そのかんざしが忘れられていたことは、僕の知る限り一度もない。
「たまたまだよ。わざとだなんて、めっそうもない」
「ま、いいわ。このかんざしとは、長い付き合いなの。灯華がこれにかけて名付けてくれたとき、とても嬉しかったのを覚えているわ」
「あと、花と華がかかってるのは、灯華さんなりの愛情かもね」
「どうかしらねー。苗字を貸してくれただけでも、十分愛情は感じたんだけどね」
唯花は実に嬉しそうに話した。愛着ある名前だと言うから、その話題には心も踊ることだろう。
とにもかくにも、今日は唯花のことをたくさん聞いた。もちろん、今日聞いたことが唯花の全てではないし、まだまだ知らないことは多いだろう。
でも一日に聞ける分には限度がある。時間的にも理解度的にもだ。非日常の話は、非常に煩雑で奇怪で、とても疲れるものだから。
今日僕は、家に帰ったら、寝るまでの間にこの話を整理する。それはわざわざそうしようとしなくても、無意識にでもすることだろう。
今夜寝るのは、遅いかもしれない。
唯花とは最後に、デパートから少し歩いたところの分かれ道でさよならをした。送って行こうかと提案したが、灯華さんの事務所に寄っていくからいいと言われた。午前中に寄ったのだけれど、また用事を思い出したらしい。
こうして、僕は月の輝き始めた家路を一人で歩いてその日を終えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます